【14.チェルニー・チャイ】 二〇一九年七月
第18話 トキワ
セイジと子供のころの話をしたことがある。僕はチビでデブで、運動が苦手で、上手にしゃべることもできず、もちろん同級生たちからは仲間外れにされていた。子供のころからピアノを習っていたから、彼らと放課後に一緒に遊ぶこともなく、それは救いでもあり、断絶を決定づける原因にもなった。男の子たちは口汚く僕をののしり、女の子たちも、男の子たちがニンジンやピーマンをはじくように僕をのけ者にする様子を見て、きわめてエレガントに、きわめてナチュラルに僕を無視した。
セイジが僕の手をなでながら静かに尋ねる。
「学校には通えていたんですか?」
「登校してはいたよ。教室には行けなくてもね。ありがたいことに、積極的に肉体的な攻撃をされることはなかったんだ。ずっとピアノのことだけを考えて耐えていた。中学校を卒業するまではね」
セイジは何も言わず、僕の手の甲をなで、指の一本一本をなぞり、指先をひとつひとつ、そっとつまんでいく。何も追及せず、何も意見しないことにほっとしつつ、そのくせ無性に苛立った。
「おまえはどうなのさ」
セイジが顔を上げ、また目を伏せる。
「ぼくは何もありませんでした。きみの音楽の才能のように、やっかみの種となるずば抜けた能力は、ぼくには何もありませんでしたから。あらゆる点で、その他大勢のなかに埋没していました。性自認は男ですし、性的指向も、ぼくがバイセクシュアルだと自覚したのは大学生のときで、それまでは、周囲と同じだと信じて疑っていませんでした」
思わず手を振り払った。体が震える。思い出さないようにしていた甲高い男の子たちの声が聞こえる。
「おまえ、キモいわ。暗いし、うっとおしい。いっつも教室に来ずに、音楽室でピアノばっか弾いてるんだろ? ずるいよな、おまえばっか特別扱いなんて。しかも、なんだよ、その変な髪型。かっこいいとでも、思ってんの? おとこおんなだな、おとこおんな。キモ。こっち来んなよ、キモいのがうつる」
「ぷぷっ、おとこおんなだって? マジこのデブにぴったりじゃん。なあ、ぼくちゃん? キモい!」
男の子たちの揶揄に、そこかしこで引きつったような笑い声が上がる。女の子たちが「止めなよ」と言いながら、ひそひそとささやき合う。
男の子たちが浴びせるあからさまな暴言や嘲笑は、一打で僕を叩きのめし踏みにじった。女の子たちが無言で射かける憐憫のまなざしや無垢な瞳に浮かぶ戸惑いの色は、ゆっくりと僕を蝕みながらより深いところまで浸透し、気づいたときには僕の内部はなかば腐食されてしまっていた。担任は僕を持て余し、音楽の先生は腫れ物のようにこわごわと扱った。暴言や嘲笑や憐憫は成長とともにおりとなって沈降し、心の深いところでひっそりと結晶化する。担任や音楽の先生の目の奥でその結晶がオパールのようにゆらゆらと輝くのが僕には見えた。
昔のことを思い出したって、もう、過呼吸を起こすことはない。しばらく体が震えるだけだ。それだって、すぐに落ち着く。
目をつぶった。紅茶のかおりがする。チェルニー・チャイ。紅茶のことだ。チェコに留学していたときは、何も加えないチェルニー・チャイを飲みながら何もつけないロフリークをかじるのが朝食の定番だった。そう語ると、セイジは懐かしそうな目でぼくもですとうなずいた。彼が紅茶を入れると、僕が入れるよりもはるかに豊かなかおりが立つ。くっきりと芯の通った香気に落ち着きと柔らかさを感じさせるかおり。同じ紅茶なのに、どうしてこんなに違うんだろう。
ゆっくり呼吸をしていると、再び手の甲に暖かなものを感じた。僕の呼吸に合わせて、それは触れるか触れないかの柔らかさで、ゆっくりと甲をなでさする。どうしてこんなに僕の気持ちに寄り添えるのか。そのくせ、どうして常に僕の気持ちを乱すのか。――ヨシアキと別れるどころか、三人目の恋人とももう一年めだなんて。
「ねえ、セイジ、来週の集会におまえも来てよ」
温かなものが動きを止めた。
「以前からトキワが言っていた、マイノリティの集会、ですか?」
「そう。ほら、僕の職場に、レズビアンの子がいるって、言っただろ? ヴァイオリニストで、次のコンサート、一緒にやろうって言ってるんだ。彼女も、恋人と参加するって、言ってる。おまえも、興味ないわけじゃないんだろ? ね、音楽の話も、できるしさ――」
つっかえ、つっかえ、ひねりだした僕の言葉をセイジは静かに聞き、沈黙したのち、口を開いた。
「ごめんなさい、トキワ。でもぼくは行きたくありません」
その言葉に突き放された気分になった。
「なんで?」
「誤解しないで下さい。マイノリティの集会だから嫌だというんじゃありません。ぼくは集団が嫌いなんです。いや、怖いというのが正しいです。大勢の人たちが同じ目的を持って集っているところに行くのは、恐怖でしかありません」
「ひとりだと、十分な声をあげられないから、声を合わせるんだよ。セイジには、それが分からないの?」
「ごめんなさい、冷たいことしか言えなくて。かき消されそうな小さな声がいくつも束ねられ縒り合わされ、逞しい索になっていくさまには瞠目させられます。ひとつの声だって、きちんと重みがあるのだと、改めて実感させられます。
同時に、ぼくはそれが怖いんです。たまらなく、怖いんです。
トキワ、わかってください。自分たちマイノリティの権利の侵害を訴え、あるべき姿に正そうとすることは素晴らしいと思っています。でも、そのための集会に強制参加させるのは、またべつの暴力じゃないですか?」
この対話は今日が初めてというわけではない。あいつと付き合いはじめてから、すでに何度となく繰り返されており、セイジの答えは一貫している。僕はそれを聞くたびに、打ちのめされ、桟橋から黒々とした海へ突き落された気分になる。もう、無理かな。
いや、諦めたくない。今の僕にはそれは音楽を諦めるのにとても近くて、そうなれば、どうやって生きていけばよいのかわからない。セイジにもっと僕を見てもらいたい。僕だけを。
何とかしなくては――
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