【16.モラヴィアワイン】 二〇一九年七月
第21話 ヨシアキ
「飲み会があるから、今日はもしかすると少し遅れるかも」昨日、セイジにはそう連絡を入れておいた。コンパルちゃんから、夕方四時から五時まできっかり一時間だけ参加していただければいいそうですと連絡をもらっていたけれど、念のためだ。
学生のころから、酒は好きだった。飲み会のあの雑然として陽気な雰囲気も大好きだし、セイジとふたりでしっぽりと飲むのももちろん好きだ。飲むと少し掠れて色気を増すセイジの声がたまらなくて、昔は毎週のようにふたりで蒸留酒を飲んでいたっけ。手土産に、セイジからもらったモラヴィアワインを持っていくことにした。ワインはそれほど好きじゃなく、特にボトルは一人だと開ける気にならない。
午後四時五分前にヒワダ研の学生部屋に行くと、準備はばっちり整っていた。さすがヒワダ先生の門下生たち、やることにそつがない。ラボ飲みなんて久しぶりだ。長机の上に林立する発泡酒や缶ビール、安い焼酎に日本酒にワイン。質より量重視のつまみ。うむ、うむ、昔も今も、大学のラボ飲みは変わらないな。学生の頃に戻ったような気分になり、わくわくする。
紙皿と箸を並べていたコンパルちゃんがこっちを見てにっこり笑いながら頭を下げる。俺はワインをヒワダ先生に手渡してから、適当な缶ビールを一本手にし、コンパルちゃんの右隣に座った。この子は奇妙な子だ。高校生、いや、中学生かと思うようなあどけない見た目に反して、百戦錬磨のつわものぐらい肝の据わっているところがある。とんちんかんな受け答えをするかと思うと、ぞくっとするほど鋭いコメントを突き付けてきたりする。
ヒワダ先生の音頭で乾杯をすると、瞬時にざっくばらんな雰囲気になった。皆が缶から直接飲む中で、ヒワダ先生だけが缶からグラスに注いだビールをくっと豪快に飲み干し、おいしいわねえとつぶやく。この上品な先生の酒の強さは折り紙付きだ。
「ヨシアキさん、今年は春から大変お世話になりました。本当に助かってます。何度も夜や早朝に来てくださったんでしょう?」
「いえいえ、とんでもないです。それに、朝、学生さんが来ないうちに直そうと思っていても、必ず誰か来て、手伝ってくれましたからね。助かりましたよ。自分が使う装置は自分で修理もするという、ヒワダ研のモットーが徹底されているなあって思いました。素晴らしいことです」
黒田がこっちをちらちら見ながら気まずそうな顔をしている。
「黒田、なに気にしてんの、おまえは壊したぶん、メンテナンスもかなりやっただろ? 四年生のうちは、それでいいんだよ。何事も経験、経験」
ビールを飲みながら白岩が「そうだそうだ、四年生はそのくらい元気じゃないとこっちもやりづらい」と笑う。それを聞いて、黒田は安堵の表情でうなずいた。隣の藍川ちゃんがおいしそうに日本酒を飲みはじめた。手酌でちびちび飲んでは、にこにこしている。うん、強そうだな、この子。この教授にこの弟子あり、だ。向かいに座っているコンパルちゃんにも日本酒を勧めているが、コンパルちゃんは首を振ってビールを飲んでいる。
十五年前に就職してからずっと、俺はヒワダ研のラボの分析装置をメンテナンスし続けてきた。
ヒワダ教授は俺とは二十歳年が離れていて、たしか今年で五十八歳だ。おっとりしていながら押しが強く、なにより技術畑に深い造詣と理解があって、教授と技官という立場の違いを超えて、親しくさせてもらっている。
先生が同じ分野の研究者である配偶者とかなりもめた末に離婚したときにも、なぜか、何度もさし飲みに連れ出されては相談された。十二年前だから俺はまだ二十代半ばの若造だった。とうてい役に立つ助言も、心をいやすコメントもできなかったはずなのに、ヒワダ先生は俺を飲みに誘っては、ひとりでしゃべり、毎回「ありがとうございますね」と穏やかに笑った。
焼酎を飲みつつ先生の話を聞き、何かの拍子に「ヨシアキさんには決まった方がいらっしゃらないの」と問われると、自然に「もう付き合いの長い男がいます」と口から出ていた。ヒワダ先生は「そう、十年ですか。十年も順調にお付き合いされているのは素晴らしいですわね」としみじみとつぶやいた。
以前、セイジのところで買ったサクランボの蒸留酒を先生に手渡したのは、『相談に乗る』たびに酒をご馳走になっていたからだ。
「なんですか、それ? 甘いんですか? サクランボの味なんですか? 俺も飲んでみたい」
ヒワダ先生の言葉を遮るように、黒田が大声で叫ぶ。おまえは大物になりそうだな。
「これが甘くないの。蒸留酒だからな。でも、冷凍庫でよく冷やすと、少しだけ原料の果物の甘いかおりがする。また機会があったら持ってくるよ。みんなで飲み会やろう」
黒田や藍川ちゃんが、チェコってどこにあるのか、どんな国なのか、行ったことがあるのか、と聞いてくる。ビールを飲みながらそれに応えていると、左に座っているコンパルちゃんがなんだか挙動不審だ。「俺の相棒が――」と言うと、ビールの缶を取り落としそうになった。そうか、「俺の」相棒と紹介するのは、君には不本意だったか。ヒワダ先生がセイジのことを「パートナーさん」と言及すると、コンパルちゃんははじかれたように先生を振り返った。おいおい、そこまで反応すると目立つ。彼女の頭を軽くはたいた。
ヒワダ研の新メンバーには、折をみて、ゲイであることを伝えるようにしている。他の研究室の学生さんたちよりはるかに親密に交流しており、隠しているのが苦しい場面がかつて幾度かあったからだ。加えてヒワダ先生のフォローも信頼している。セイジとの関係にコンパルちゃんが加わった今、俺にゲイのパートナーがいると公開することで彼女と社会の間にもたらされるひずみに不安がないわけではなかった。でも、すでに四年生以外は俺のことを知っている。悩んだけれど、言うことにした。
「スオウさん、うまいです、これ。スオウさんの奥さんって、ワインも輸入してるんですね」
「うん。奥さんじゃなくて相棒な。俺、ゲイだから」
四年生が固まった。知っている院生たちはそ知らぬふりで食べたり飲んだりしゃべったりしている。コンパルちゃん、きみまで固まるのは止めてよ。改めてそんな態度を取られると、地味に傷つくんだから。
「よかったら今度、パートナーさんも飲み会にお誘いしましょう。そうしたら、ヨシアキさん、気兼ねなく飲めるんじゃない? あ、それとも、パートナーさんは、お酒嫌いなの?」
ヒワダ先生がさりげなく話題に触れる。固まっている四年生たちは、自分たち以外がまったく動揺していないことに動揺しはじめる。もう、大丈夫だろう。
楽しく飲んでいると、あっという間に一時間たった。先生が付き合うのは一時間で良いと言ってくださったのだ、お言葉に甘えさせてもらうことにする。ささっと自分の飲み食いしたものを片付けた。
「それじゃあ、俺はこれで失礼させていただきます。ヒワダ先生、茶山先生、みなさん、今日はお招きありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね」
そう言いながら扉を開け、一礼すると出て行った。飲み会は去り際が大事。
さて、酔い覚ましに、ひと駅くらい歩いて行こうかな。夜はセイジと飲み直そう。
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