【8.マサラティー】 二〇一九年五月

第11話 コンパル

 かっぽう着姿のヤマシロさんが夕食を作ってくれている。料理をするときの定番の格好だ。背の高いヤマシロさんが真っ白なかっぽう着を着ると、奇妙な迫力がある。「真夜中の田んぼに立つカカシみたい」そう言って私が笑っても、これが一番効率がいいんですと言って気にする素振りもない。

 最初のうちは、私が作ったほうがいいのかなと思っていたけれど、「どうしてコンパルさんが作らなきゃいけないと決まっているんです? 女性だから? それはおかしいでしょう?」やんわりそう言われて納得し、そのあと数回、交代で作ってみたけれど、圧倒的にヤマシロさんの料理の腕が上だと気づいてからは、もう素直にお任せして、私は洗い片づけ役に徹している。ヤマシロさんは料理が好きで、人に食べさせるのも好きで、手際が良くって味覚が鋭い。私の過敏な嗅覚は、料理には全く役に立たない。せいぜい、共感しづらい、奇抜な批評をひねり出すのに使える程度だ。その点、ヤマシロさんの味覚は、人を楽しませるために十二分の働きをする。素晴らしい。

 そんなことを思いながら、リビングの隅にあるヤマシロさんのデスクにノートパソコンを広げ、実験データの解析をしていた。夏の中間発表の準備だ。モニタを凝視するのに疲れ、ふと目をそらすと、机の脇に積み上げられた紙が目に入った。印刷した文章に赤がいくつも入っている。小説のように見える。引っ張り出して読むのは気が引けたので、見えるところだけ読んでみる。うん、やっぱり小説っぽい。赤字はヤマシロさんの筆跡だ。誰かが書いた小説をヤマシロさんが添削したのだろうか? それともヤマシロさんが自作を推敲しているのだろうか? 


 夕食はスマジェニー・ジーゼク、薄く伸した肉に衣をつけて揚げたカツレツだった。今日の肉は鶏のむね肉で、茹でた角切りジャガイモが添えられている。ジャガイモにはほんのりクミンとマジョラムのかおりがついていて、上品だ。ヤマシロさんはこういうちょっとしたところで決して手を抜かない。よく手入れされたナイフでざくざくとジーゼクを切りながら、尋ねた。

「ヤマシロさんは小説を書いているのですか?」

「はい? 小説?」

「ええ。あ、すみません、デスクの上の赤入れ原稿のことです。ちらりと見えたので、見えたところだけ、読んでしまいました」

 ヤマシロさんの顔が赤くなった。

「ああ、あれは翻訳です」

「翻訳?」

「はい。仕事の合間に、日本で紹介されていないチェコの小説を翻訳しているんです。単なる趣味の範囲でですけどね」

「どんな作品なんですか?」

「著作権の切れた作品ですね」

 興味津々な顔でのぞき込まれていることに気づいたのだろう、苦笑しながら言い足した。

「ボヘミアの盗賊たちの物語です。時代は中世、今よりはるかに死に近かった時代です。荒々しい男、血を繋ぐ手駒として扱われる女。強者と弱者という厳然たる運命の嘲笑のなかで体を重ね、いつしか人間味あふれる愛を育む男女。その生も愛もたやすく蹂躙され、それでもその芽は次なる世代へと脈々と受け継がれていきます。その男女の苛烈な生きざまには圧倒されます」

 静かに語るヤマシロさんの目が熱っぽく揺れる。もう少し聞いていたくて、無言でじっと見つめる。ヤマシロさんはためらうように私の視線を受け止めていたが、再び口を開いた。

「主人公の女性は最初に辱められるんです。それを契機として目覚めた肉欲にキリスト者である彼女はおびえ、その激しさに惑い、不敬な祈りで神に懺悔します。死をも覚悟します。彼女の生は常に死と隣り合っているにも関わらず、それでも、死ねない。はかなげな美少女として描かれる彼女ですが、彼女は肉をもつ存在として、自分を凌辱した男を生々しく求めます。彼女の中では、かよわさと虚無としたたかさが激しくせめぎ合っています。血まみれの男たちより。それがとても印象的なんです」

 外国の言葉で綴られた未知なる世界を、自分の言葉に置き換えつつ、再構築する。翻訳という屈折した創造。どんな気分で作業をするのだろう。どんな過程を経て、文章が出来上がるのだろう。まったく見当もつかなかった。

「翻訳って、どんなふうに行うんですか? ヤマシロさんが翻訳しているところを見ていることってできませんか?」

 その言葉に、ヤマシロさんは悩まし気な表情になった。

「翻訳しているところを見ていたい? うーん、それは無理かな。ぼくはきみたちが来ているときには翻訳をしません。

 翻訳という作業はつかみどころがなくて、少しでも騒音や気配がまじると、消えてしまうんです。たとえきみが音を立てず、静かに部屋の隅で見ているだけだとしても、息遣い、拍動、体温それにぼくに向ける視線、そんな気配とくくられるものがすべて、部屋の中を駆けめぐるんです。

 きみによってもたらされる動揺が悪いと言ってるんじゃないですよ。翻訳家ならばむしろ、そのような経験を山ほど蓄えねばなりません。ただ、それは前もって蓄積しておくべきもので、自分の中で十分こなれたものをそっと取り出す作業が翻訳なんです。その時には、ぼくは何にも邪魔されたくないんです」

 控えめな口調でそう断言したヤマシロさんは恥ずかしそうに笑った。

「完訳したときには、ぜひ読んでください」


 食後にヤマシロさんがマサラティーを入れてくれた。シナモンとクローブを主体としたスパイスのかおりが甘く芳しい。そして、こんなかおり高いお茶を飲んでいても、私はヤマシロさんのにおいを感じている。クローブのかおりは、ヤマシロさんのにおいをむしろ引き立ててくれる。ティーカップを口元に運ぶヤマシロさんの横顔には年齢を重ねた深みが得も言われぬ陰影となって落ち、私はまじまじと見つめてしまう。私の視線に気づいたヤマシロさんが、こちらを見て照れたようにほほえんだ。私はそれでも目をそらさない。

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