【6.ガラス細工との出会い】 二〇一九年五月

第9話 コンパル

 GC-MSジーシーマスのメンテナンスをした翌週、水曜日の午後からセミナーがあった。修士一年の桃園さんと修士二年の浅葱あさぎさんの発表を聞いたあと、帰宅するまでまだ時間があったので、実験を進めようとしていたときだった。実験台の奥の器具に伸ばした手が、手前にあったステンレスのサンプルボトルを倒し、脇にあった1リットルのビーカーにぶつかった。あ、と思ってビーカーを取り上げると、側面にひびが入っている。

「すみません! ひびを入れてしまいました!」

 あわてて、隣で溶液を調製していた白岩さんに謝ると、ひびの大きさを確認してから、

「スオウさんにさあ、直せないか聞いてみたら?」

 とのんびりとした口調で言う。

「スオウさんはガラス細工ができるから、このくらいのひびなら直せるかも。そのステンレスバットに入れて、スオウさんに見せてみてよ。技官室にいると思うから」

「わかりました」


 技官室は廊下でつながった西棟にある。言われたとおり、バットにビーカーを載せ、しずしずと運んでいった。技官室の扉は解放されていて、中にひとり、知らない技官の方がいらっしゃるのが見えた。ノックして声をかける。

「すみません」

 紺色の作業着姿の若い技官が振り向いた。

「あの、スオウさん、いらっしゃいませんか?」

「スオウさん? ああ、今、工作室です。あ、ガラス器具の修理依頼? ちょうどいい、工作室に行ってみるといいですよ」

 場所を教わり、別棟にある工作室に向かった。水色の扉ののぞき窓から中の様子を窺う。小さな部屋の奥でガスバーナーに向かっているもっさりとした左半身が見えた。どのタイミングで入ればよいのだろう? そう思いながらしばらく見ていると、スオウさんは、炎の中で明るい橙色にかがやかせていたガラス器具を隣の机の上に置き、バーナーの火を消した。私は扉を開けた。

「失礼します」

 スオウさんがこちらを向く。一瞬、記憶を探るように目を細め、それから口元を緩めた。

「ああ、ヒワダ先生のところに来てる四年生だっけ?」

 私はおずおずとビーカーを見せた。

「コンパルです。あの、これ、うっかりひびを入れてしまったんです。白岩さんから、スオウさんなら直せるかもしれないから、相談してみるよう言われました」

 スオウさんは私が差し出した1リットルビーカーを見て、明るい声で笑った。そのからりとした遠慮のなさに、私も思わず頬を緩めた。

「ははは、まあた、絶妙なひびだな。直るかな、これ。まあ、駄目もとで試してみるわ。駄目だったら、完全に割れるけど、いい?」

「あ、はい、お願いします」


 スオウさんはバーナースタンドの前に腰掛けると、ガスバーナーのガスを出し、火をつける、ゆらり、とオレンジ色の炎が立ち上がると、ガス栓をくるくると回し、炎を1リットルのペットボトルほどの高さにまで大きくした。そして酸素をほんの少しだけ混ぜる。

 受け取ったビーカーを炎にかざす。私はその炎の大きさにたじろぎつつも、じっと目を凝らした。ひびの近くの、割れていないところを、広くまんべんなくあぶっている。何度も炎になめさせる。しつこいくらいそれを繰り返した。でも、ひびがくっつく気配はない。

 やっぱり直らないんだろうかと心配になったころ、スオウさんは酸素を徐々に増やし、ひびを直接加熱し始めた。酸素が増すにつれ、シューという軽いうなりとともに炎が青白く勢いを増す。ひびとその付近がオレンジ色に輝きはじめ、それが白熱していくと、ひびは文字どおりとろけて消えていった。

 酸素の量を減らすと、炎はオレンジ色に戻ってゆらりゆらりと揺らぎ始め、最初と同じように、スオウさんは時間をかけてビーカーのひびのあったあたりを炎になめさせた。ビーカーの表面にはうっすら黒いすすがつく。

「ほい、割れなかったな、良かった、良かった。あ、熱いぞ、まだ触んなよ」

 そう言って、いたずらっぽい笑みでこちらを見た。私は興味を引かれてつぎつぎに質問した。

「どうして最初、ひび以外のところをずっと加熱していたんですか? 酸素を入れたら炎の色が青白くなったのはどうしてですか? くっついたあとも、また、酸素を減らした炎でずうっとあぶってましたよね? どうしてですか?」

 スオウさんは目を細めた。薄めの唇がきゅっと上がり三日月になる。

「オレンジ色の炎に酸素をいれたら青白くなったのは、温度が上がったから。最初にオレンジ色の、つまり温度の低い炎でよくあぶっていたのは、ゆっくりと温度を上げるため。それをせずに、ひびをいきなり加熱すると、温度差でひびが一気に広がるの」

「へえ、そうなんですね」

「最後にも低温の炎であぶるのは、アニーリングって言って、細工中に生じたガラスのひずみを取るため。これをしないと、やっぱり割れる。プロはそれ専用の炉を使うんだけど、ここにはないからね。バーナーの炎を低温にして、なんちゃってアニーリングですます」

「スオウさんはガラスの職人さんなんですか?」

「いいや。ガラス細工は大学のときに研究室で練習しただけ。自分の道具は自分で作るのがポリシーの研究室だったからね。四年生で研究室に入って、最初の三か月は論文読みとガラス細工三昧。先輩と先生から習った技術だから、かなり我流だけど」

「自分の道具は自分で作るって、例えばどんなガラス器具を作ったんですか?」

「メインはガラスライン。ステンレス管でジャングルジムみたいな架台を組んで、そこに直径20ミリのガラス管で迷路そっくりなガラスラインを作ったよ。ガスサンプルを減圧下で精製するために使うの。ガラス細工を学んだ主目的はそのガラスラインの作成とメンテナンスなんだけど、それを作る前に、ピペットとか、試験管とか、沸石とか、水銀取りも作ったな」

「水銀取り?」

「ん。今の子は金属水銀なんて、見たことないだろうし、もう実験でもほぼ使わないよね。こぼした水銀の玉を吸い取って貯めておくピペットで、白鳥の形なの。ん? 興味ある? 水銀を使わなくても、水銀取りを作るのは結構楽しいよ。いや、水銀取りじゃなくても、簡単なガラス細工ができると、何かと役に立つ。やってみる?」

 スオウさんはそう言ってにっと笑った。私は思わず、やってみたいですと答えていた。




「で、ガラス細工の弟子入りをした、と」

 白岩さんが朝食のバゲットサンドにかぶりつきながら、呆れた顔でこちらを見た。その拍子にこぼれそうになったたまごペーストを慌てて口で迎えにいく。

「いや、確かにスオウさんのガラス細工の腕はすごいよ。でもさ、コンパルさんの実験系でガラス細工が必要になることはないよね?」

「はい、わかってはいるんですけど……」

 白岩さんは1リットルの紙パックに直接ストローを刺して飲み始める。ジャスミン茶だ。ああ、あの独特の爽やかなかおりは、これからの季節にぴったりだ。とはいえ1リットルは一度に飲むには多すぎやしないか?

「でも、興味がわいた?」

「そうですね、ガラス細工を教えてもらえるチャンスって、貴重じゃないですか?」

「うーん、でも、ふつう『ガラス細工』って言ったらさ、カラフルな色ガラスでコップとかアクセサリーを作るんじゃない?」

「実験器具を自分で作れるというところに、私は興味を感じます」

 白岩さんは横目で見た。

「変わってるなあ」

「よく言われます」


 翌週から、水曜日の午後、セミナー後の一時間ほどを使って、スオウさんのガラス細工講座が始まった。スオウさんは酸素ガスのガスボンベの開け方やバーナーの火のつけ方から丁寧に教えてくれた。

「ボンベの取り扱いと、火のつけ方、消し方、それに何かあったときの対処法をきっちり身に付けたら、時間のある時に一人でここで練習してもいいぞ」


 スオウさんにそう言われ、私はがぜん張り切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る