【5.エルダーフラワーのハーブティー】 二〇一三年五月

第8話 トキワ

 あいつと出会ったのはもう六年前になる。春の大型連休中にショッピングモールの一隅で、同じ音楽教室に勤務するフルート講師とギター講師と一緒に無料のミニコンサートをやった。楽器店の協賛を受けて開催した集客イベントのひとつで、ピアノ、フルート、ギターという、馴染みのある楽器のコンサートだったから、音に気づいたお客さんたちがつぎつぎと集まってくれて、そこそこ聴衆は多かった。

 セイジはそのショッピングモールに入っている紅茶屋とリカーショップにいくつか商品を卸していて、それを届け終えて帰るところだったらしい。


「普段人が集まることもない一隅にちょっとした人だかりができていて、何だろうと思った瞬間、その中心からピアノの音が立ち上ってきたんです。しかも、フィビフの『詩曲』じゃないですか。驚きました。こんなところでチェコの作曲家の曲が聞けるなんて、思ってもいなかったから。五月の薫風がすうっと吹きわたるような、若葉がかおってきそうな音の集まりでした。ピアニストを見ずにはいられなくなりました」


 茶房カフカに通い始めたころ、セイジが笑いながら語ってくれた言葉だ。そのとき弾いていたのは廉価な電子ピアノで、そんな複雑なニュアンスの音が出ていたとは思えないが、あいつを強烈に引き付ける何かがあったらしい。臆面もなく言うなら、僕はその出会いを運命だと思った。


「演奏していたトキワは、想像していたよりも小柄で、ちょっと太っていて、隣に座っていたギターの男性と比べると、はるかに地味なイメージでした。でもその両手を見た瞬間、ぼくは目が離せなくなりました。

 美しかった。

 ぼくは何より手に心を奪われます。全体の形、手のひらの厚み、指の長さ、五指のバランス、皮膚の色やつや、しわの入り方、関節のようす、爪の形状、血管の浮き出し具合。

 でも、真の魅力はその動きにこそあるのかもしれません。優雅な、しなやかな、たくましい、大胆な、艶めかしい、精密な、軽快な……挙げていったらきりがありません。

 手は世界を生み出す道具です。同時に、本人が意識していない心のありようまであらわにしてしまう器官でもあります。

 ときに、一瞬で目に焼き付き、ぼくをとりこにしてしまう手と出会います。きみの手もそうだったんです」


 手? がぜん興味がわいた。「じゃあ、僕の手にどういうふうに惹きつけられたのさ」意気込んでそう尋ねると、セイジは生真面目に考えこんでから言った。


「紡ぎ出している音にふさわしく、繊細さと柔靭さを備えていることがありありと感じられました。慎み深さで覆われた下に豊かな表情がほの見えました。極限まで鍛え抜かれ、精密に調整された素晴らしい道具だと、震えるくらい感動したんです」


 そのようにすっかり僕の「手」に心酔したセイジが、コンサートが終わったあと、遠慮がちに声をかけてきた。彼は簡単に名乗ると、その時持っていたエルダーフラワーのハーブティーを名刺といっしょに僕とギターとフルートにもプレゼントしてくれた。そのハーブティーは思いのほかおいしくて、驚いたことに、日ごろから悩まされていたしつこい不眠にすこぶる効いた。それを毎晩飲むうちに、セイジのことが気になり始めている自分に気づいた。


「きっときみには表現したいことが溢れんばかりにあるのでしょうね。手はその思いの大きさ、重さをしっかりと受け止め、その性急さを抑制しつつ、ひとつずつ音として昇華させています。

 ピアニストらしく、爪の形は変形しているけれど、それすら、すんなり細い指をこの世にしっかりと引きとどめるのにふさわしく思えます。

 形だけでなく、それが作り出す軌跡が息をのむほど美しい。調和が取れ、情に流されることに抗い、それでも理性の隙間から隠しきれない色気がほのかに匂い立つような動きに、ぼくは興奮させられました」


 二週間後、僕は茶房カフカを訪れ、エルダーフラワーのハーブティーを購入し、音楽について、ハーブティーについて、チェコについて、他愛もないおしゃべりをした。他愛もないおしゃべりだって? 自分にそんな芸当ができるだなんて、そのときまで知らなかった。ピアノを弾いている手を見たいというセイジを何度か自宅に招いた。ピアノの隣に座ると、セイジは一言も発さず、三十分ほどひたすら僕の手を追い続けていた。

 二か月ほどそんな日々が続いたあと、僕は彼に交際を願い出た。それに対し彼が告げたのは、ヨシアキの存在とポリアモリストだということ。ポリアモリスト、何それ? 僕の手を褒め称え、いつまでも眺めていたのは、何だったの? 僕の生み出す音楽が好きだと言い、その音楽を生み出す僕自身にも強く惹かれている、そう言ったのは、何だったの? からかわれたの? 怒りと落胆の渦に巻き込まれ、肩で息をする。落ち着け、落ち着け。拒絶されたわけではないんだ。そら、彼と僕のあいだに横たわる闇の中では、青白い炎がちろちろと燃えている。

 僕は激高し、混乱していたが、それでも、何より大事なこの手を、僕以上に理解し、愛してくれるセイジを何としてでも手に入れたかった。

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