【4.きはだ色のにおい】 二〇一九年四月
第7話 コンパル
Q大学の理学部化学科では三年生の後期に研究室配属され、指導教官から卒論テーマが与えられる。私の研究テーマは、教授と親交の深いA大学のヒワダ教授との共同研究に関係していた。分析技術を磨くため、私は年明けから週の大半をヒワダ研で過ごすことになった。突然新しい環境に放り込まれ、最初は戸惑ったけれど、すぐにヒワダ研および同じフロアにある他の研究室の人たちとも顔見知りになり、Q大学にいるよりも居心地よく感じるようになった。それはきっと、石造りの理学部旧館のひんやりとした埃っぽいにおいがとても好ましかったからだろう。八十年間ほど、入れ代わり立ち代わりここで研究に勤しんできた人たちが、石に染みこませていったにおい。特にしょぼしょぼと小雨が降りしきる日には、廊下はますますうす暗く、その古めかしいにおいがひときわ濃く立ち込めた。昔のまぼろしがありありと浮かび上がってきそうで、私は目をつぶると数十年前の喧騒にしばし浸った。
四年生になり、ひとりで
「おはよう、コンパルさん。いつもこんなに早いの?」
「おはようございます。私はいつもこの時間です。白岩さんは珍しく早いですね。今って、誰か
「え? 誰も使ってないでしょ? だって、今日と明日はコンパルさんが使う予定だよね?」
デスクに荷物を置きながら分析室に目をやり、明かりがついているのに気づくと首を傾げた。
「電気の消し忘れかな?」
そう言って上着を脱ぐと、分析室へと向かう。わざわざ見てくれなくてもいいのに、フットワークの軽いのが彼がみんなに頼られるゆえんだ。私の前で白岩さんが分析室の扉を開くと、ふわりと嗅いだことのないにおいがした。冬の朝の陽だまりのようなにおい。ああ、この、清純でしみじみと温かいにおいは、色で言うならきはだ色だ。白岩さんが
「あれ、スオウさん、メンテですか?」
分析装置の陰からぬっと頭がのぞいた。坐ったまま振り返ったらしい、彫りの深い浅黒い顔に、もっさりとした髪の男の人。年恰好も態度も学生には見えないけれど、ヒワダ研の准教授の茶山先生と比べるとずっと若々しい。三十代半ばくらいかな? でも年上の人の年齢はいつもよくわからない。スオウさんと呼ばれたその人は眠たそうな目でこちらを見ながら、人懐っこい笑みを浮かべた。
「おう、おはよう。朝の五時前に、ブランクが高くなってるって泣きのメッセージが入ったからさ、すっ飛んできた。人が来る前に終わらせようと思ってたのに、おまえら、早いな」
白岩さんがあららと言う顔をして、ちらりと私を見た。
「もしかして、もう真空落としてます? イオン源、磨くんですか?」
「うん。内部が汚れてしまってるのは間違いなかったからな」
「すみません。あ、俺、手伝います。磨く準備しますね」
白岩さんが私を見て苦笑いした。
「午前中は分析、無理だね。早くて午後から、できれば明日からが無難かな。ちょうどいいから、基本的なメンテナンスを覚えとく? スオウさんの技術、すごいよ? あ、スオウさんは分析装置の修理をしてくださる技官さんね。スオウさん、彼女はコンパルさん。Q大学からうちのラボに実験しに来ている四年生です」
その言葉に、スオウさんが顔を上げて私を見る。私は頭を下げた。
白岩さんは紫色のニトリル手袋をはめ、私にも一双渡してくれた。ビーカー、メタノール、研磨剤、綿棒を持ってきて、
「イオン源は、サンプルをイオン化する場所。サンプル分析を繰り返すうちに、サンプルがべたべたくっついて、ブランクの値が高くなる、そうなったら研磨剤で磨いて汚れを落としてやるの。そうしたらまたブランクが低くなって、きちんと分析できるようになる」
あまりよくわからなかったけれど、使っていると汚れるから、ときどき掃除する必要があるということはわかった。
準備が終わると、まずはふたりでスオウさんの作業に見入る。
スオウさんは見られていることを全然気にしなかった。電源を落とした装置のパネルを開け、金属の頑丈そうな扉をさらに開け、そこから金属のブロックとワイヤーで作り上げられた繊細なオブジェにも見える手のひらほどの塊を取り出した。
「あれがイオン源」
白岩さんは、ひとつひとつ説明してくれる。
スオウさんはイオン源を分解していった。小さな工具で小さなねじを回して引き抜く。ねじ山に精密ドライバーを乗っけられた小ねじは優雅にスピンさせられ、自らすぽんと飛び出してくるようだった。繊細な部品は赤ん坊の小指をつまむような絶妙な力加減でピンセットにつまみ上げられ、アルミフォイルの上に整然と並べられていく。全ての動作に迷いがない。私はスオウさんの踊るような指先に見とれた。手に強い執着を示すヤマシロさんと付き合い始めてから、私も手には並々ならぬ関心を持つようになったのだ。
「磨くのって、ここからここまでのパーツですよね?」
「おう」
白岩さんとスオウさんが綿棒に乳白色の研磨剤をつけては金属パーツをこする。私も見よう見まねでこする。
「どうして磨くんですか? 洗うのでは駄目なんですか?」
スオウさんが手元から目を上げずに答える。
「汚れがこびりついていなければ有機溶媒に浸して洗うだけでもいいんだけど、トラブルが起きたときは、たいてい、ひどく汚れてるからね。こすり落としてやるのが一番効率的」
いつものんびりした白岩さんが意外に手際良くて驚いたが、スオウさんの手にやはり私は惹きつけられる。紫色の薄い手袋をぴっちりとはめた長い指がしなやかに動き、金属パーツにはまんべんなく研磨剤が塗りつけられ、隈なく磨かれる。
研磨が終わると、丁寧に洗い流してから乾燥させ、再びスオウさんの指が元通りに組み上げる。水を張った浴槽の栓を抜いたときのように、すべてのねじがするんとねじ穴に吸い込まれていった。無駄な動作は一切ない。修理作業に芸術性を感じるなんて、初めての経験だった。
「白岩、コンパルちゃん、ありがとうね。これで黒田のチョンボもなんとかなるだろう」
「え、黒田が何かやらかしたんですか?」
「ああ、知らなかった? はは、あいつ、昨日の夜、超きったないサンプルを十本も打ち込んだの。あいつの常識なしにも困ったもんだけど、まだ四年生だからな。どっちかって言うと、院生の指導不足だ。何かやらかしたら、すぐ、みんなに周知するよう、よく言い聞かせておけよ?」
「はい、すみませんでした。で、その黒田はどこに?」
「あん? ああ、バイト」
「え、バイト? ああ、そっか。あいつスーパーの早朝品出しのバイトをやってましたっけ」
「おう。泣きそうな顔でバイトがー、って言いだしたから、可哀そうになって、とっとと行かせたよ」
「すみません。あとでよく言っときます」
スオウさんは元通りにパネルを閉じると、装置の電源を入れた。軽いうなりとともにポンプが回り始めた。
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