【2.リンゴとローズヒップのフルーツティー】 一九九四年~一九九六年

第4話 ヨシアキ

 あいつを気にするようになったきっかけは声だった。


 子供のころ俺は同い年の子よりも小さくて痩せっぽちだった。誰よりも遅い四月一日生まれだから、一番小さいのは当然かもしれない。それなのに、同級生の誰よりも早く声変わりを迎えた。友達よりもずいぶん低く、時にハウリングするかのように裏返る、いまいましい声。おまけに、喉つぶしたのって心配されるくらいにしゃがれてしまった。それにうんざりし、俺は親しい友達以外としゃべるのがすっかり嫌になっていた。


 あれは六月の穏やかに晴れた日のことだった。その日から中間テスト期間が始まった。苦手な国語と社会のテストが終わり、すっかり解放された気分で昼前に学校から帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。ああ、姉ちゃんが帰ってきてるんだ、自宅生の大学生ってお気楽だよね、そう思いながらことさら音を立てて玄関を閉めると、リビングから「お帰り」って声がしたんだ。男の声が。

 「はあ?」って思って、リビングの扉を勢いよく開けた。そしたら、あいつがいた。ソファを背もたれにして床に座り、真っ白で柔らかなまれの体を抱きかかえながら、驚いた眼でこちらを見つめていた。まれがにゃあ、と鳴いた。呆然としていたあいつが先に気を取り直して「お邪魔してます」って言った。その声だ。首筋をなでられたようだった。低い声。でも俺のいらいらさせる声とは全然違う。深く響き、しっとりと柔らかくって、まれのしなやかな体をぎゅっと抱きしめたような感じ。国語の赤沢じいの低いしゃがれ声や数学の青田先生のビブラートがかった声をいつもぞくぞくしながら聞いていたけれど、それよりずっと美しかった。「姉の、お友達ですか?」扉のノブを握ったままそう尋ねると、あいつの表情が和らいだ。「はい、ヤマシロセイジと言います。アカネさんにはお世話になっています。ああ、アカネさん、今ちょっと買い物に出ています。きみは、弟さん?」おっとりと丁寧に喉を震わせる声は、俺の肌に触れた瞬間、何の抵抗もなく皮膚を染み通り、体のすみずみまであったかくした。「はい。ヨシアキです」「え?」「ヨシアキです」「ああ、ヨシアキ、くんですね?」「ヨシアキって呼んでください」「わかりました、ヨシアキ」。

 俺はリビングに入るとあいつの向かいに腰を下ろし、まれを抱き取った。喉をなでるとまれがゴロゴロと言いながら目を細める。ゴロゴロが腹に響くのが気持ちいいんだ。そうつぶやきながら、ゆっくりとまれをなでさする。あいつはしばらく黙ってこちらを見ていた。セイジはそのとき大学三年生、俺は中学二年生だった。

 姉の問わず語りによると、セイジはそれから何度も昼間うちに来ていたらしい。何をしに来ていたんだか。中学生と時間が合うことはめったにないから、そのあとしばらく俺たちが顔を合わせることはなかった。

 二回目に会ったのは、七月下旬、中学が夏休みに入ったあとだった。「今日はお父さんもお母さんもいないから、お昼は三人で食べよう」姉がそう言って料理を始めた。セイジは姉を手伝い、俺はキッチンの椅子に体育すわりしてまれを抱き、ふたりを眺めていた。

 三人で豚汁と焼き鮭と豆腐を食べた。姉が俺に部活の話を聞いてくる。姉は頭の回転が速くって、俺が返事を考えている間にもマシンガンのように質問を繰り出してくる。いつものことなので、五つくらいの質問のひとつにだけ、ゆっくりと答えを返す。彼女はそれに満足して、また新たな質問を五つくらい投げかける。セイジは口をはさまず、にこやかに俺たちふたりの顔を代わる代わる見ていた。豚汁も鮭も美味しかった。でも、セイジが作ってくれた、豆腐に粗挽きコショウと塩とオリーブオイルをかけただけのやつ、あの味わいに衝撃を受けた。ネギやショウガを刻む手間もいらず、いつもの冷ややっこやより、よっぽど手抜きなのに、一気に洋風の華やいだ一皿になった。鮮やかな手品のようだった。

 食事のあと、俺は姉とセイジをふたりっきりにさせたくなくて、そのころはやっていたカードゲームを持ち出して、一緒に遊んだ。友達としょっちゅうやってるゲームだったから、何度やってもふたりは俺に敵わない。負けず嫌いの姉がむきになって、何度も何度も繰り返した。セイジも笑いながら俺や姉にずっと付き合ってくれた。その日から夏休みの間に五、六回、カードゲームをしに通ってきた。いや、カードゲームをしに通ってきたのかどうかは、わからない。見かけるたびに、俺が強引にゲームをしようと誘い続けただけかも。夏休みが終わると、もう会えない。しばらくぽっかりした寂しさを感じた。


 冬休みになると、また会えるようになった。セイジと別れていなかった姉に感謝だ。冬休みは毎日セイジがやって来て、俺も毎日ゲームに引きずり込んだ。最後まで俺のひとり勝ちだった。

 冬休みが終わる日、どうしようもなく辛くなった。それまで姉の口からセイジの話が出るのを楽しみにしていたのに、今や心をかき乱されるばかりだった。はっきりと自覚した。――明日からどうしたらいいんだろう。泣きたくなった。でも、できることなんて、何もなかった。


 三学期が始まると、学校に行っている間は問題なかった。授業は気を紛らわせてくれるし、部活や友達との会話に夢中になっている間に一日が終わった。でも、夜、電気を消してベッドに横たわると、いつもセイジのことを思い出した。セイジのあの声を。

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