第3話 コンパル

 その日から、週に一度、茶房カフカに通うようになった。工場街と住宅街の狭間に位置するこの店は、その一隅にはちょっと場違いで、はっきり言って繁盛しているとは言い難かった。それでも、少なくとも数人の常連客がいるようだった。通い始めてすぐ、マスターの名前がヤマシロだと知った。土曜日の午後二時に来て四時過ぎまで、紅茶を傍らに、ゆっくりと本を読んだり、レポートを書いたり、実験データをまとめたり、試験勉強をしたりした。ときに、ヤマシロさんと言葉を交わすこともあった。通い始めて数か月たってもヤマシロさんは常に控えめで、こちらから話しかけない限り、まず口を開くことはなかった。紅茶を堪能する客の世界には立ち入らないと心に決めているようだった。でも、ときおり、ヤマシロさんがノートパソコンのキーボードを叩く私の手元を見つめているのに気づいた。食い入るような視線に気づいて目を上げると、照れたように笑い目をそらした。

 茶房カフカにはいろんなフレーバーティーがそろっていた。果物、ナッツ、はちみつ、チョコレート、スパイスそれにスモークされた茶葉もあった。茶葉にかおりをまとわせた紅茶だけでなく、乾燥させた果物のみで作ったフルーツティーも扱っていた。茶房カフカではいつも異なる紅茶のかおりが出迎えてくれた。ときに、かおり当てクイズのように、店頭や店内に残る個性的なかおりをかぎわけ、それをオーダーしたりもした。ヤマシロさんのにおいだけは、常に同じだった。


 そう、彼が近くを通ると、さらさらと流れる水と、艶やかな羽で覆われた鳥の背と、針葉樹の森の冷気を混ぜ合わせたようなにおいがいつも漂った。私は気づかれないように細心の注意を払いつつ、大きく息を吸い込み、そのにおいを堪能した。


「ヤマシロさんはいつも良いにおいがしますね」茶房カフカに通い始めて数か月たったとき、私がそうつぶやくと、ヤマシロさんは慌てて袖口や腋の下に鼻を近づけた。「くさい? 何かにおいます?」と当惑した顔でこちらを見た。「においには気を付けているつもりなんですが、それでも、この歳だから。やっぱり若い人には何かにおうんでしょうね?」その言葉に、こちらのほうが焦った。「違いますよ、くさいって言っていませんよ。良いにおいなんです。とても好感が持てるにおいです」そう言うと、ヤマシロさんは少しだけ安心した顔で、それでも眉根を寄せたまま聞いた。もしかすると、それは照れ隠しだったのかもしれない。「においって、どんなにおいです?」「冷凍室の中で鳥の温かな背中に鼻をくっつけたような」「え?」「うーん、べつのイメージで言うなら、雪の積もった針葉樹の森で洗い立てのタオルを鼻に押し当てたときのにおい。ひんやりとして、でも、ちょっと埃っぽいような。あ、イメージですよ。本当のところは、たぶん、洗剤と家のにおいと体臭が混じり合ったところに、何だろう、オードトワレかな、デオドラントかな――お使いですよね?――が加わったにおいがヤマシロさんから漂っているんでしょう」ヤマシロさんはそれを聞くと、色白の顔を赤らめた。


 私はにおいに何より感情を揺さぶられる。茶房カフカに通ううちに、私はヤマシロさんのにおいにますます惹かれていった。

 においには、いろんな色がついている。興奮の赤、鎮静の青、幻惑の黄、安らぎの緑、官能の紫。ヤマシロさんのにおいは象牙色だ。表面的な興奮をやわらげ、思考を深めさせ、それでいて体の芯をかすかに痺れさせる、そんなにおい。茶房カフカでヤマシロさんを感じながら進めるレポートや実験計画書の作成は、家や図書館で行うよりはかどった。


 ヤマシロさんのプライベートな空間で、混じりけのないこのにおいに全身を沈め、ひたひたと溺れてみたい、いつしかそう望むようになっていた。


 茶房カフカに通い始めて一年を越した初夏の夕暮れ、私は自分の思いをヤマシロさんに伝えた。

「ヤマシロさん、私はヤマシロさんのにおいが好きです。ヤマシロさんのおうちに招いてもらえませんか?」

 ヤマシロさんは一瞬、虚を突かれた。

「どういう意味ですか?」

「ヤマシロさんのおうちでこのにおいに包まれてみたいんです」

「――どういう意味ですか?」

 どういう意味ですか? ヤマシロさんの家に招かれ、ヤマシロさんのにおいをもっと感じたいというのは、それ以外にどういう意味になるんだろう?

「よくわかりませんが、世間一般的には、お付き合いしたいということに近いのでしょうか?」

 それを聞いたヤマシロさんは物憂い顔になった。

「きみは大学三年生でしたよね? ということは、二十一歳? 二十歳? ぼくは四十六歳です。親子といわれてもおかしくない年齢差です」

「ヤマシロさんが年齢を気にするのは意外でした」

「――ぼくも、『付き合いたい』と口になさる前に『結婚していますか』とか『恋人はいますか』と問われなかったことが、とても意外でした」

「ご結婚されていないのは知っています。決まった方がいらっしゃるのも、察しています。そうですよね?」

「ええ」

「それでも、好きなんです。付き合いたいなんて言いましたけど、私が望むのは、ヤマシロさんのにおいをもっと間近で感じたい、それだけなんです。キスやセックスはいらないんです。そういう精神的な特別を分けてもらうことは、既存の世界を壊してしまう要因になるんでしょうか?」

 ヤマシロさんは眉を寄せた。

「それはそうでしょう。きみはぼくのにおいに他の人には感じない執着心を示しています。それは友情とは違う気持ちでしょう? プラトニックであろうと、恋愛は恋愛です」

「私は、ヤマシロさんのにおいが好きです。それはヤマシロさんと一体化しているので私はヤマシロさんを好きだと感じていますが、でも、本当にヤマシロさん自身を愛しているかどうか、それには自信がありません」

 ヤマシロさんは物憂げな顔をしたまま、しばらく考え込んだ。口を開いた。

「きみがぼく自身に対して抱いている感情が何であるか、たしかに判然としませんが、それでもきみが要求していることは、公正な目で見て、ぼくと恋人同士になることに該当すると思います。よく考えてみてください。違いますか? 

 もしきみが恋人関係になることを望むのなら、ぼくはきみを迎え入れることができます。きみがある程度察しているように、ぼくもきみに強く引き付けられていますから。

 ただ、ひとつ、きみに理解してもらわねばならないことがあります――」

 告白に引き続き、少しだけこわばった顔で告げられた言葉に私はちょっと驚いたけれど、それを受け入れることに困難は感じなかった。


 恋人になるにあたり、大事なことを取り決めた。


「恋人同士になるということは、権利が生じると同時に義務が生じることでもあります。まず、ぼくたちが共有する時間を定めましょう。コンパルさんに不都合なければ、土曜日の夕方から日曜日の朝までをふたりで共有することをお願いしたい。よろしいですか? はい。場所ですが、きみに支障なければ、ぼくの家で。それでよろしいですか? はい。では、その『とき』はぼくらふたりのものですからね。緊急事態が起きない限り、基本的に、きみはぼくの家に来て、一緒に時間を過ごしてくださいね」

 そのあと、互いの要望をひとつずつ出し合うことになった。ヤマシロさんは私が毎週ノートパソコンを持ってきて、ヤマシロさんの目の前で、十五分ほどなんらかの作業をすることを望んだ。「きみももうお気づきのように、ぼくはきみの手に魅了されています。機械のように正確かつ精密に動くその様子を僕だけに見せてください」「何を入力するんですか?」「何でもかまいません。日本語でも、英語でも、数字でも」

 私は夜に布団に入ったあと、寝物語を語り聞かせてくれるよう願った。これまでヤマシロさんの人生を彩ってきた物や人々に関する物語だ。彼はちょっと目を見開いたが、照れくさそうにうなずいてくれた。「ただね、条件を付けてもいいですか? ぼくがしゃべっている間は、できるだけ口を挟まないでください。ぼくと誰かが創り出した体験には、ぼくとそれ以外の所有者がいます。他人がそれを眺めるのは構いませんが、入ってはこないでもらいたいんです。掃き出し窓の中で繰り広げられるドラマを通りからそっとのぞくように、何も問わずにぼくたちの物語を眺めてもらいたいんです」


 ヤマシロさんはポリアモリストで、私は彼の三人目の、土曜日の恋人だ。

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