第2話 コンパル

 年が明けた一月から二月にかけては雨が多く、来る日も来る日も鉛色の空が続いた。ようやく穏やかに晴れた週末、私は海を見に行こうと思いたち、電車に乗った。六つか七つめの駅で下車し、さびれた工場街を抜け、ようやく見つけた海岸には釣り人がたくさんいた。粗い砂利交じりの古びたコンクリート護岸はところどころひび割れていた。小さな腰掛けやクーラーボックスの上に座った釣り人たちは、思い思いに糸を垂れ、数週間ぶりの日差しを楽しんでいるように見えた。時にリールを巻いたが、私がのんびりとあたりを歩き回るあいだ、誰一人、魚を釣り上げる人はいなかった。

 電車を降りて海を見ながら二時間以上歩き回っていると、さすがにそろそろどこかで休みたくなった。工場街のはずれにクリーム色の一軒家が立っているのが目に入った。ドアに掛けられた木製のプレートには『茶房カフカ』という店名が厳めしい書体で刻まれ、それを二羽の黒い鳥が見つめている。ようやく見つけた喫茶店だったが、上品で、どこか簡単には踏み込ませない雰囲気を漂わせた店構えに、ドアを開けるのをためらった。

 でも、そのとき、かおりがした。削りたての鉛筆の木のような、清々しさのなかに甘みをたらし、ほんの少しだけ淫靡に仕上げたかおり。どきりとした。一瞬でそのかおりのとりこになり、気づいたときには店の中にいた。


 店内にはほかの客はいなかった。カウンターの中にやたらと背の高い――後で確認したら193センチだった――側頭部に白いものの混じる男性がいて、私は彼と気まずい顔で見つめ合った。飛び込むように店に入ってきた若い女に驚いたことだろう。飛び込んでから、私も驚いた。何をやっているんだろう。

 すぐに気を取り直したマスターが柔和な笑みを浮かべ、いらっしゃいませと声をかけた。深く響く声だった。「どこでもお好きな席へどうぞ」

 私は無言でぎこちなく頭を下げると、窓際の二人掛けのテーブル席に向かい、そっと椅子を引いた。メニューを手に取る。

「どうぞ」

 マスターがお冷を持ってきてくれた。そのとき、彼の動きに一歩遅れ、あのかおりがふわり、とそよいだ。

「これ! これ、何のかおりですか?!」

 思わず、そういきまき、すぐにまた、しまった、と反省する。変だな、私はこんなに直情的な人間だったっけ? 案の定、マスターは色白の顔に当惑の表情を浮かべた。

「かおり、ですか?」

「すみません、唐突に。でも、はい、このかおりです。これが気になって、お店に入ってきたんです」

「店のそとにまで、何か、かおりが漂い出ていたということですか?」

「はい、だから、このかおり……」

「ごめんなさい、どんなタイプのかおりでしょう?」

 え? どんなタイプ? 一所懸命に頭をひねり、かおりを言葉に変換した。

「あ、あの、えっと、切り出したばかりの木材の涼やかさに、少しスパイシーな刺激があって、でも、香ばしい甘みも感じられて……」

 マスターが眉を上げてうなずき、カウンターに戻る。奥の棚から勝色かついろの四角い缶を手に取り、出てきた。

「もしかすると、これでしょうか?」

 ふたを開け、中に入っているものを嗅がせてくれる。

「あ、これ! これです! お店の外や中で嗅いだかおりとは少し違っているけれど、たぶん、これで間違いないです」

 のっぽのマスターは真面目な顔になって、何度かうなずいた。

「ええ、空気中に漂うかおりは茶葉のかおりから少し変化しますから。それにしても素晴らしい嗅覚をお持ちですね」

「それ、何ですか?」

「紅茶です。昨日入荷したばかりの『幽谷の滴り』というフレーバーティーです。でも、今日、これを淹れたのは、お昼に一度だけだったんですが……。どこにひそんでいたんでしょうね」

 そう言っていたずらっぽいまなざしで店内を見渡した。私はおずおずと尋ねる。

「あの、それ、飲めるんですか?」

 マスターはにっこり笑った。目尻のしわが深くなった。

「もちろんです。ストレートのホットでよろしいですか? せっかくなら、ティーポットでお出ししましょうか? ティーカップに三杯弱になります」

「はい、それでお願いします」

 マスターがカウンターに去っていくとき、鮮烈な『幽谷の滴り』とは別の、もっと穏やかで濃厚な、植物とは明らかに異なるタイプのにおいがした。


 そのときに、たぶん、私は恋に落ちたのだろう。そのにおいに。『幽谷の滴り』との情熱的な出会いとはちがう、柔らかだけれど、私の心の奥深いところをつかみ、じわりじわりと染め上げていく恋。


 不思議な店だった。四人がけのテーブル席がふたつと二人がけのテーブル席が四つ並ぶ小さな店内は、どこもかしこもびっくりするほど古かった。でも、丹念に掃除されているのがありありと感じられた。古い家屋独特の気の滅入るにおいがまったくしなかったのだ。

 木製の無骨な椅子はしっくりと体になじみ、黒ずんだテーブルは暖かくてさらりとした手触りで私に寄り添う。樺色の照明は私の緊張をするするとほぐしてくれる。何より、心地よくかおる紅茶のかおりに、久しぶりの運動の疲れも相まって、私は肘掛のまろやかな曲線をなでながら、まどろんでいたらしい。

「お待たせしました」

 控えめな声にはっと目が覚めた。

「――あ、すみません。あんまり居心地よくて、うとうとしてしまいました」

 マスターはその柔らかな声と同じ手触りのほほえみを浮かべ、優雅なしぐさで茶器を並べる。

「ごめんなさいね、起こしてしまって。紅茶を飲んで、何ならしばらく休んでいかれたらいいですよ。今日は久しぶりのお天気です。常連さんたちも、どこかにお出かけしているんでしょう。もういらっしゃらないと思いますから」

 ポットからティーカップに深い飴色をした『幽谷の滴り』が注がれる。あのかおりが一気に押し寄せてきた。

「わあ、すごい……」

 突然、異世界が目の前に広がった。高い木々がそびえる森の奥に少しだけ開けた空き地。うっすらとしたもやが木々に絡みつき、樹幹をなめ、小枝にかかる蜘蛛の巣を湿らせながら、ゆっくりと流れていく。緑の葉先から、一滴、しずくが垂れ落ちる。クリーム色の光の矢が樹冠をとおって幾本も降り注ぎ、柔らかな苔の上に転がる水の玉をきらめかせる。

 どこかから静かな声が響く。

「もしお嫌いでなければ、最初の一杯は何も入れずに飲んでみてください。甘味が欲しければ、こちらのブラウンシュガーをお勧めします。レモンはあまり合わないのですが、柚子が意外に合います。試してみたければご準備しますので、お声がけくださいね。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」

 私は森のイメージから意識を引き戻し、ほほえんで返事をした。

「ありがとうございます」

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