茶房カフカ

佐藤宇佳子

【1.幽谷の滴り】 二〇一六年~二〇一八年

第1話 コンパル

 中学生のころ、ふと、恋とか愛とかって、森の奥で見つけたとろりとした緑色の沼に裸で身を沈めるみたいだと思った。その気持ちは、大学に入学した今でも、変わっていない。男友達も女友達も、ためらうことなく沼に踏み込み、悠々と泳いだりもぐったりしている。べとりと緑色に染まった彼らの肌が木漏れ日にきらきらと輝くのを見ながら、私は岸辺で立ち尽くしていた。

 「コンパルちゃんも、彼氏できたらわかるって」笑いながらそう言う先輩や友達。でも、恋人がいないのと作れないのは違う。自分にいまだ恋愛というものの醍醐味が理解できないことに、戸惑いを感じてもいた。


 大学一年生の秋、所属していた同好会のコンパに参加した。熱心に活動に加わっていたわけではない。それでも飲み仲間が数人できる程度には関わっていた。その友達を含めた十五人ほどで集まって一次会、二次会と飲んだ帰り道、三次会をしようといたずらっぽい目くばせでSに誘われた。Sは押しつけがましくない程度に面倒見の良い三年生の男の先輩で、同好会の女の子たちからは「ママ」と呼ばれて慕われていた。私も彼の控えめな笑顔が嫌いじゃなかった。

 Sの部屋でふたりでさらに飲んだ。もちろん、私にだって、それが何を意味するのか分からないわけではなく、今まで実感できなかった恋愛感情とやらを、これで手に入れられるかもしれないと密かに期待していた。

 案の定、そのまま、シナリオに書かれていたかのように体を重ねた。小説やマンガで使い古されたような展開って、実際に起こりうるんだなと感心していたけれど、部屋が明るみはじめると、一晩たったワインやビールのすえたにおい、ナッツの油っぽいにおい、古いアパートの部屋に染み付いた湿ったにおいがよそよそしく鼻をついた。それを凌駕して、Sの意外に猛々しい体臭と情交のにおいがベッドから狼煙となって立ち上っている。私は顔をしかめた。これはひどい。そそくさとベッドを抜け出し、シャワーを浴びた。

 髪をきつく結び、服を着こんで出てくると、Sが朝食を準備してくれていた。ワンルームの手狭な部屋に置かれた小さな折りたたみテーブルの上に、トースト、ゆで卵、ヨーグルト、麦茶のグラス――彼は年がら年中、麦茶を飲んでいた。穏やかな朝日を透かして金色にかがやく麦茶は、屈託のない笑顔でこちらを見つめるSそのもので、それを見ているうちに私は気分が悪くなった。二日酔いで、というわけではない。私は酒には弱くない。においだ。この暴力的なにおいに、どうしても我慢ならなかったのだ。

 猛烈に沸き起こった嫌悪感にうろたえながら、砂を食むようにもくもくとトーストをかじり、吐き気をこらえながら麦茶で流し込んだ。早く、このにおいから解放されたかった。


 ねばつく透明な糸で全身をがんじがらめにされた気分だ。夜が明ければ朝になり、春が過ぎれば夏になる、それと同じように、セックスをすれば恋人同士になる、その太くてまっすぐな一本道を信じて疑わないSの清純なまなざしを思い出すたびに気持ちが沈んだ。このままでは、私はジグソーパズルのいちピースとなり、Sの世界にぱちんとはめ込まれてしまう。

 その日別れて以降、Sからの連絡はことごとく無視し続けた。三日後に学校でSにつかまり、付き合おうとお日様のようなほほえみで念押しされた。私はそのまぶしい圧力に震えた。「ごめんなさい、もうお付き合いしている人がいるんです」そう言って申し出をはっきりと断り、あっけに取られたSの顔がみるみるこわばったのを見て、ようやくほっとした。両肩をわしづかみにしていた透明な腕が、すっぱり消え去った。お付き合いしている人? いるわけがない。Sが気づいたかどうか知らないが、少なくとも私は彼が初めてだった。


 セックス自体に不快感はなかった。顔を歪めながら、自分の内へ内へとひとり深く沈みこんでいくSを見ていると、私もぞくぞくするような高揚感を感じた。互いに相手の存在を媒介して自己陶酔しあうという珍妙な交流がごくあたりまえに行われていることは何とも興味深かった。ただ、その好奇心の代償として、当然のように距離を詰められることには辟易とした。

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