ゆうしゃとえいゆうのものがたり

第37話 ゆうしゃとえいゆう

『ゆうしゃ』と『えいゆう』、このふたつのちがいは なんでしょう?


どちらも『みんな』から のぞまれるそんざいであることは かわりありません。


ちがいがあるとするのなら、『えいゆう』は すでになにかを なしとげたものであり、『ゆうしゃ』とは こんなんに これからたちむかうものだということでしょうか。


ある『けんじゃ』は いいました。


『ゆうしゃ』とは、こんなんに たちむかいつづけるものだと。


けっして あしをとめることなく、いっぽ、またいっぽと、さいごまで『みんな』のために あゆみつづけるものであると。


つまり、『ゆうしゃ』とは あるきつづけるものであり、『えいゆう』とは たちどまったものである というのです。


だけど、そこに なんのちがいがあるのでしょうか。


『みんな』が そのふたつにもとめているものは けっきょくおなじなのですから。


『えいゆう』を なんのりゆうもなく ほめたたえつづける『みんな』は いません。


いちどなにかをなしとげたのなら、つぎは どんなことをしてくれるのだろう、もっとすばらしいなにかをやりとげてくれるはず、と『みんな』は きたいします。


えいこうや めいよを『えいゆう』の せなかに のせつづけながら、こころのどこかで『えいゆう』が もたらしてくれる みかえりを ずっとくちをあけて まっているのです。


まるで ははおやのエサをまつ ひなどりのように。


『ゆうしゃ』も『えいゆう』も、『みんな』のきたいに こたえつづけるからこそ もとめられるのです。


『みんな』のきたいに こたえられないのなら、そのふたつには なんの『かち』もないのです。


『みんな』のおもいに せなかをむけたじてんで、そのひとは『ゆうしゃ』でも『えいゆう』でもなくなってしまうのです。


だけど、それでも『ゆうしゃ』と、『えいゆう』とよばれるひとたちがいるとするならば、きっとそれは……。



これは、『ゆうしゃ』と『えいゆう』のものがたり。


『みんな』のきたいに せをむけながら、それでも『みんな』のためにと はしりつづける、『かのじょ』と『かのじょ』のものがたり。

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