ベンチ

烏目浩輔

ベンチ

 ありもとみゆきさんは幼い頃から犬が好きで、大人になった今はめすの豆柴を飼っている。名前はサクラというそうだ。春生まれにちなんで、有本さんがそう名づけた。

 サクラは有本さんが希望して飼いはじめた犬だ。旦那さんや中学生の娘さんもサクラを可愛がっているが、朝夕の散歩といった世話は有本さんが責任を持ってする。

 その日の夕方も有本さんがサクラを連れて散歩に出たという。

 

 散歩コースの自然公園に着いた有本さんは、公園を大きく周回する遊歩道に足を向けた。一周するのにおよそ二十分かかる遊歩道だ。有本さんの少し先をすたすた歩くサクラは、くるりと一巻きした尻尾を小刻みに揺らしている。


 行く手に木製の古びたベンチが見えてきた。相当ガタのきたベンチであるため、そこに誰かが座っていることはまずない。だが、その日は二十代と思われる若い女性と、五歳ほどに見える女の子が座っていた。ふたりはなにか話をするわけでもなく、ただぼんやりと前を見据えている。


 有本さんは母娘おやこらしきそのふたりが、なんとなく気になった。しかし、じろじろと見続けていれば、相手に不快感を与えかねない。ふたりからすっと目を逸らして、ベンチの前を通り過ぎた。

 そうやって通り過ぎてしまったあとは、もう母娘おやこのことが気にならなくなった。遊歩道を一周した頃には、すっかりふたりを忘れていた。


 ところが、翌朝にもまたその母娘おやこを見かけた。サクラを連れて公園に散歩にいくと、昨日と同じベンチに腰をおろしていたのだ。なにか話をするわけでもなく、ただぼんやりと前を見据えている。

 そして、夕方の散歩に出たときも、母娘おやこは同じ場所にいた。


 有本さんはそれから三日連続で母娘おやこの姿を目にした。朝の散歩のときも夕方の散歩のときも、ふたりはぼろぼろのベンチに座っている。なにも話さずに前だけを見ていた。

 しかし、四日目の朝にサクラと散歩に出ると、そのベンチにもう母娘おやこは座っていなかった。


 毎日そこに座っていたふたりが、今日は見あたらない。有本さんは少しばかり気になったものの、考えこむほどのことではなかった。散歩を再開しようと足を踏みだした。

 だが、なぜかサクラが動いてくれない。その場にとどまって、誰も座っていないベンチをじっと見つめているのだ。


 仕方なくリードを引っぱってみたが、それでもサクラは動こうとしなかった。二度三度引っぱっても同じだ。足を踏んばってその場にとどまり、無人のベンチをじっと見つめている。

 しかし、一分ほどそうしていたかと思うと、いきなり何事もなかったかのように歩きはじめた。尻尾をふりながら遊歩道をすたすたと進んでいく。


 それからというもの、散歩中にそのベンチの前を通りかかると、サクラは必ず立ち止まるようになった。そして、誰も座っていないベンチをじっと見つめて、一分ほどすると急にまた歩きはじめるのだった。


 そういった日が続いているうちに、有本さんはあることに気がついた。ベンチの前で立ち止まるのは、サクラだけではないのだ。散歩中のほかの犬たちもそこに立ち止まり、誰も座っていないベンチをじっと見つめた。すべての犬がそういった行動を取るわけではないが、何匹かは確かに無人のベンチをじっと見つめる。


 しかし、しばらくするとサクラもほかの犬も、ベンチの前で立ち止まらなくなった。じっと見つめることもなくなり、ベンチの前を素通りしていく。

 また、ベンチに座っていたあの母娘おやこの姿を、有本さんはそれから一度も見ていないという。


     (了)


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