川
ゆかり
隔たり
子供の頃、住んでいた町の真ん中に大きな川が流れていた。
町には小学校が二つ。川の西と東で西小学校と東小学校に分れていた。中学生になると二つの小学校の生徒が一緒に一つの中学校に通う。
そんな山間の小さな町の川にまつわる、いくつかの話を聞いてほしい。昭和の頃の話だから昔話だと思って聞いてくれてかまわない。
町には月の輪熊が二頭いた。
一頭は、お好み焼き屋の前に檻に入れられて飼われていた。今では考えられない状況だけど、本当にいた。子供心に狭い檻で窮屈そうだとも思ったし、動物園みたいで興味もひかれた。だけど、もしも檻を破って逃げだしたら怖いとも思った。
もう一頭は河原に、やはり檻に入れられて飼われていた。町を二つに隔てている川岸にだ。こちらの方は微かな記憶しかない。と言うのも、わりと短い間しかいなかったからだ。どうやら逃げ出して、その河原で射殺されたらしい。普通に町の真ん中にある川での出来事だ。今なら全国ニュースになりそうだけど。
どちらの熊も、檻の間際まで行って誰でも好き勝手に見ることが出来たのだから恐ろしい。
この町には猟師さんも何人かいて、時々、その家の玄関口に死んだ熊が無造作に置かれていたりした。そんなふうに殺された親熊の子供なのか、生きた子熊を触らせてもらったこともある。
檻に入れられて飼われていた熊は、もしかしたらそういう子熊が成長してしまったモノだったのかもしれない。
河原で射殺された熊については他にも恐ろしい噂があった。河原の石に射殺された時の血糊が残っていると言うのだ。
その話の何に恐怖したのか自分でも判らないけれど、とにかく、恐ろしかった。
熊が逃げた事実が恐かったのか血糊に怨念を感じたのか、鉄砲や撃った人間が恐ろしかったのか。
或いは『生と死』を隔てるものに畏怖の念を抱いたのか。
とにかく私は、その辺りには絶対近づきたくないと思っていた。
ここまでは私がまだ幼稚園にも行くか行かないかの年齢の頃の話だ。
数年後、私が小学校に入って間もない頃、家族四人でこの川で川遊びをすることになってしまった。
どういう経緯でそうなったのかは記憶にない。ただ、私はもの凄く嫌だった。
というのも、この川で射殺された熊の話とは別にもう一つ、怖い話が追加されていたからだ。
それは小学生の子供が、この川で亡くなったらしいというものだった。
深みに足を取られたとか、心臓麻痺を起こしたとか、いろんな噂はあったがはっきりした事は判らない。大人達が話しているのを横で聞いていた子供らの噂レベルだったし、どこの子で、川のどの辺での事かも判らなかった。
私の住んでいたのは川の西側で、小学校は西小。溺れた子供は東側の東小の子だったのかもしれない。そうでなければもう少し詳しい話が伝わってきたはずだ。どこぞの誰々さんとこの○○ちゃんが……というふうに。
そんな訳で、私はその川がとても怖かったのだ。にも拘わらず楽しくもあった。家族そろって遊びに出かけるなんて事は滅多にない事で、これは飛び切りのレジャーだった。
水着に着替えた私と妹は、浮き輪をしっかり胴にはめて川の東岸の浅いところでピチャピチャやっていた。
大きな川と言っても町の中では一番大きな川と言う意味で、対岸までは60mほど。水の流れている部分だけなら25mほどだ。
そこは熊が撃たれた場所よりかなり上流の場所だったから血糊の件は気にならなかったが、子供が溺れた場所が何処なのか知らないままなのが不安だった。それで両親に聞いたのだ。
「誰かがこの川で溺れたって聞いたけど、どこらへん?」
両親のどちらが答えたかは忘れた。もしかしたら母と父が二人で会話しながら答えたのかもしれない。ただ、私の記憶では対岸を指差して
「あそこらへん」
と教えられたと思う。
その時、どうしてわざわざ誰れかが溺れた危険な場所で私たちを遊ばせることにしたのか、子供心にも何かモヤモヤしたのを覚えている。
親が指差したその場所は、他の場所とは明らかに雰囲気が違っていた。水の色も暗く、相当深いという事は判った。渦を巻いているようにも見え、そこで溺れたと聞けば納得してしまう。恐怖のあまり足が竦んだ。
ところが、私と両親がそんな会話をしている間に、怖いもの知らずな妹が調子にのって深い場所に流され、あろうことかその場所に流れて行ってしまったのだ。
妹が水の中に引きずり込まれる! そう恐怖した。溺れて亡くなったという子供の霊が友達を欲しがって妹を手繰り寄せたのだとしか思えなかった。
助けなければ妹が死んでしまう。私はいてもたってもいられなくなったのだが両親は呑気に笑っている。
「助けないと! 助けないと!」
おろおろしながら必死に訴えるが父は動かない。母はその時お腹に子供がいたから仕方がない。それに泳げない。でも、父は泳ぎが達者なのだ。何故助けに行かないのかと、この時ばかりは大好きな父を憎らしく思った。
もはや私が行くしかない。一刻を争う。妹が死んでしまう。私は意を決して浮き輪を頼りにダイブした。
私もまた、その場所に流れ着いた。足元は深く暗い。水の温度が表面と足元とでは違う。『水の温度が変わる場所で泳いでいたから心臓麻痺を起こした』確か、そんな話も聞いた。それを思い出した。やはりそうだ、ここに違いない。ここでその子は亡くなったんだ、そう思えた。
自分ひとりなら恐怖で体が竦んで動けなくなっただろうと思う。が、今は違う。妹を助けなければならない。その気持ちが私を助けている。
なんとか岩場に這い上がって、妹も引き上げよう、そう考えて試みるが上手くいかない。その間中、生きた心地がしなかった。
ようやく父が助けに来てくれた時は嬉しくて、腹立たしくて、訳のわからない気持ちで大泣きした。
大人になった今その場所については、川の上っ面に浮いたものが行き着く場所になっていたのだと理解できる。そういう流れになっていたのだ。だから川下に流されることなく逆に安全だったのかもしれない。おそらく大人の目には、それがわかっていたのだろう。
今にして思えば、子供の溺れた場所として親がその場所を指差したのは私をからかっていたのだと思う。妹とは対照的に慎重派だった私は親の目にもビビりまくって見えていたのだろう。昔の親たちは結構大人げなかったのだ。怖がる子供を更に怖がらせて面白がっていたのだ。
まあ、実際にはそれだけでもなく、ついでに川の怖さも伝えようとしたのだと思う、いや、思いたい。
山間の小さな町を東西に隔てるその川は、今も変わらず流れている。当時の私はその川の深い淀みに『この世とあの世』の隔たりを確かに見ていた。大人になった今の硬い心ではもう見ることの出来ない隔たり。
ただ先日、数十年ぶりに見たその川には奇妙な事に、全く同じ場所に同じ淀みが残っていた。あれから幾度も大雨が降り、水の流れる形も随分変わったというのに。
川 ゆかり @Biwanohotori
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