死神の仕事

@yugamori

死神が死ぬための仕事

「今日の死亡予定者のチェックリストだ」

 上司から紙にまとめられたリストを手渡され、けだるい動きで受け取ろうと死神の男は手を伸ばした。黒スーツに黒シャツの黒ずくめで、表情の読めない目つきをした上司は、部下の男の心をまるで見透かすような目つきで見つめている。部下の男はその目つきが気に入らない。どうしてこんな目で見られなければならないのかと、上司の男を前にすると気分が滅入る。早くこんな仕事さっさと終わらせたいと思いながら、その仕事はいつ終わるのか見当もつかない。

 心のない者が死神となり、死神は人の心を知るために、その死を見届ける必要がある。死神が人の心を知ることができれば、晴れて死神としての役目は終わり、死神は死神ではなくなる。

 人だった頃に欠けていた気持ちを、知るために。人として明らかな欠如がある者が命を落としたとき、人として死ぬことなく、死神となる。人の心を知ることができなければ、永遠に死神としての役目を続けなければならない。そんなものはまっぴらだから、死神は仕方なく人の死を看取るまで人に触れ、人の心を知る必要がある。

 だが、仕事をこなすだけでは人の心を知ることはできない。だから死神はだれもがかったるいと思う仕事でありながら、ただ人の死を看取るだけでは仕事が終わることはない。要するに真面目に取り組まなければならないのだが、かったるさが上回ってしまうことから、とりあえず人の死を看取ろうとするだけの死神が大多数というのが現実だ。

「今回は25歳の男だ」

 死亡予定者の説明を聞かされて、部下の男は頭をかいた。

「若いんだな」

「おまえが死神になった歳と近いな」

 上司に言われて死神はさしてなんとも思わなかった。そういえばそうだ、その程度の感想。

「おまえの欠如を理解するにはいい機会かもしれない。年齢が近ければ、感じることも近い」

「下におりる」

 さっさと話を切り上げようと男は上司に短く告げて、上司に背を向けて歩き出した。上司の座る椅子と机のみが置かれた広い空間から、部下の男の姿が音もなく消えた。




 下界に降りて目に映ったのは、雨に濡れる汚れた街だった。生前の死神の男もいた場所だ。都心の街は昼だというのに厚い雲がかかり、薄暗く見えた。街を歩く人間はそろってビニールの傘をさし、どこか冴えない表情ばかりだと死神は思った。

 大きなスクランブル交差点の角にある音楽ショップに入る。いまの流行の音楽が流れる店内は、オレンジ色の明かりに灯されており、外の薄暗い街並みとはちがい、いくらか死神の気分もマシになった。

 だが、死神の目的はいまの流行りの音楽を知ることでも、ましてや音楽を聴くことでもなかった。ターゲットがこの店内にいる。それだけが理由。

「あいつか」

 死神がつぶやき、ターゲットの男を確認する。音楽ショップに併設されたカフェのカウンターでメニューに視線を落とす男。パーマをあてた黒い髪、デニムジャケットにベージュのワークパンツ、エンジニアブーツを履いた男が、一週間後に死ぬ人間。

 一週間の間に、ターゲットの男がどのように生き、どのように死ぬのかを観察する。そしてその一週間の動き次第で、男をどこへいざなうかを決定する。

 死後にどこへ連れていくか。基本的には死後の人間が向かう先はなにもない虚無の世界であり、その魂がどうなるのかは死神の管轄ではない。そして死神にとってはどうでもいいこと。

 重要なのは、観察した対象を見ることで、死神が自身に欠けているものを理解し、その魂とともに死ぬことでしかない。そうしなければ、死神は永久に死神として存在することになり、終わりのない業務を続けなければならない。

 さっさと終わらせたい。どの死神もそう思っている。だが多くの死神は、自分になにが欠けて人として死んだのかを理解するのに、長い月日を要する。この死神の男も例外ではない。

 死神がターゲットへ近づいていく。上の世界にいたときとは異なり、死神の男は格好も名前も与えられていた。

 横山。年齢はターゲットの男と同じ年で25歳。格好もターゲットの男と似たようなカジュアルな服装。

「先についてたんですね」

 死神、横山が男に近づき、気軽に声をかけた。ターゲットの男がメニューに落としていた視線を上げて、横山を眺めた。

「どうも、横山です」

「ああ、初めまして」

 頭を軽く下げた男がキャラメルの入ったコーヒーを店員に注文した。

「横山さんどうします? おごりますよ」

「いいですよ。あー、俺も同じので」

 横山も店員に告げて、ターゲットの男、山内の目を見つめた。

 じっと目を見られて、山内は不思議そうに首をかしげた。

「どうしました?」

「いや、べつに」

「そうですか。打ち合わせで外出てこれたのはいいんですけど、こう、どんよりした天気だとだるいですよね」

「山内さんも社内で仕事するのは嫌な方ですか」

「ヤですよ。仕事するときに周りの雑談に付き合ったりして無駄な時間過ごしたいくないんですよ。さっさと仕事終わらせてさっさと遊び行きたいですし。横山さんもなんとなくそんなタイプに見えるんですけど」

 そう言って山内が笑った。横山、死神は思った。自分も同じタイプだった。生前は社内で仕事をすることが嫌なタイプだったと。なんの興味もない社内の人間と、無駄に交流することになんの意味があるだと思っていた。山内はそこまで毒づいているわけではないが、大方の意味はズレていないだろうと、死神は思った。

 こいつも死神になるのかもしれないと、死神は思った。死の直前までに、何かしらの欠如を観察対象が持っていた場合は、その魂を人として虚無の世界へ送ることはできない。死神が対象を観察する理由は、対象を人として死なせるのか、死神として死なせないかを見ることにある。

 なにかが欠けている。死神である横山は、山内を見て思った。その欠けがなにかはまだわからないが、いままで見てきた人間とは違う空気を持っていた。まるで、生前の自分を見ているようだとも、死神は思った。




「へえ、横山さんバンドやってたんですか。いいですね、俺も楽器は興味あるんですけど」

 仕事の打ち合わせ相手という形で接触しながら、死神もとい横山と、山内は雑談をかねて趣味の話をした。

「バンドっていっても遊びでやってただけですけどね。山内さんも興味があればやればいいのに」

 どうせ一週間後に死ぬんだけどなと思いながら、死神は言った。

「まあ、そうですね。興味があることはやってみてなんぼですからね。楽器やってるっていえば女ウケもいいですからね」

 そう言って山内は笑った。そういう山内を見て、死神は思った。たいして女には興味がないのだろうと。そもそも、楽器に興味があるわけでもないだろうと。

 この男。なににも興味がない。死神はそう思った。山内の第一印象こそは人懐っこい感じがするが、この男はなにかに対する興味や関心がまるで感じられない。おそらく、俺にも興味がないだろうと死神は思った。

「山内さんのデザインはセンスがいいから、ぜひ仕事を引き受けていただきたいと思ったんです。けっこう幅広く興味を持っていらっしゃるから、そんな風にセンスが磨かれたのかなと」

 死神は山内を知るために質問を投げかけた。山内は照れたような表情をつくって、カップに手を伸ばして一杯すすった。

「いやいや、そんな風に言ってもらえると困りますね。まあ、幅広くなにかに触れようとはしていますね。自分に籠もってるだけじゃ、いいものってつくれないと思うんで」

 その言葉自体は偽りではないと死神は感じた。なにか妙なものを感じる。なににも興味がなく、けれど好奇心自体はある。この男にはなにが欠けているのか。この男は、なにか欠けを埋めようとしている。死神は違和感をおぼえた。そんな気持ちが自分にもあったような気がしたからだ。

「横山さん、どうかしましたか?」

 しばらく黙り込んでいた死神、横山を怪訝に思って、山内が顔を覗くようにして聞いてきた。

「いえ、自分に籠らずに幅広く興味を持つっていうことが、大事だなとしみじみ思って」

「そんなに響いちゃいましたか?」

 山内は笑った。笑った表情と仕草が上手い男だと、死神は思った。




「よお」

 打ち合わせと称した山内とのコンタクトを終え、死神がカフェの上にある本屋をさまよっていると、声をかけられた。死神、横山が振り向くと、別の死神が雑誌を手にしていた。

「なんの雑誌」

「車のやつ」

「おまえスピード出しすぎて死んだんだっけ」

「ヤなこと平気で言うよなおまえ」 

 死神がターゲットと接触しているとき以外は、基本的には下界では自由に行動していい。ゆえに、生前好きだったものに触れたがる死神は多い。横山は特にこれといって好きなものはないが、時間つぶしに本屋へ立ち寄ることが多い。そこでほかの死神に会うことは珍しくなかった。死神はどこにでもいる。それだけなにか心に欠けた状態で死ぬ人間が多いということだ。

「仕事はどうだ」

 死神、横山が車好きの死神に告げると、車好きの死神は車雑誌に目を落とした。

「今朝ふつーに死んだな。交通事故で。30半ばでまだ子供も小さかったし、悔い残る死に方だろーなあれ。奥さんの反応見てても崩れ落ちてたし。愛されてたんだろうな、まあいいやつって感じだったから」

「欠けは理解できなかったか」

「んー、そうだな。いつもどおり。どんまいって感じだよ」

 死神はみな心に欠けがあり死んだ元人間。心の欠けが理解できるまでは、死神として永遠に動き続けるしかない。

「おまえはどうよ、横山さんって呼べばいいのか?」

「若い男。25でさっきコンタクトした」

「おまえが死んだときと同じくらいか。死因もおんなじで溺死だっけ」

「おまえもいやなこと平気で言うよな」

 死神がおたがいの死について罵り合うのは、死神同士の恒例のブラックジョークになっている。いやなことだとは言うが、所詮は口だけの言葉。心が欠けた者同士、自分の死も相手の死も特にどうとも思わない存在同士の、笑えないジョーク。

「まあ、今回のやつは死神にはなんなかったな。満たされてるやつだったし、見ててなにも感じなかったよ。おまえんとこの若造はどうなんだよ」

「……なにかが欠けているな」

「お、じゃあお仲間になるんじゃねーのか」

「かもしれない」

 車好きの死神が鼻で笑って雑誌を閉じた。

「まあどうでもいいけどな。あーあー。さっさと死んで終わらせてえのに、幸せそうに生きてたやつが死にましたって。全部どうでもいいわ」

 そう言って車好きの死神は手を上げてじゃーなと言って、本屋の出口へ向かった。本当にどうでもいいことだ。今回のターゲットが死神になろうがなるまいが、幸せだろうが不幸だろうが。すべてどうでもいいことだ。

 今回のターゲットも。同じようなことを思って生きてきたのだろうなと、横山は思った。

 同じようなことを。

「……同じようなこと?」




「山内さんはいま恋人っているんですか?」

 コンタクトして3日目。残り日数は4日。仕事の打ち合わせと称して、山内との2度目の会合。前に会ったジャズが流れるカフェ。何気なく横山は山内に聞きたくなった。山内を見ていて、人に興味がある人間には見えない。そんな男が、だれか特定の人間と心を通わせているのか。おそらくは、不特定の人間と交流をしたがるタイプだろうと。横山、死神自身も生前はそうだったから。特定の人間に感情を抱くことなどない人間だったゆえに。

「なんですか急に?」

 山内はコーヒーカップを持ちながら、隙を突かれたような顔をした。

「いや、なんとなくですね」

 横山はアイスコーヒーのカップを手にしてストローに口をつけた。突然の質問ではあるが、雑談としては別に不思議な質問ではないと思いながら、けれど急ぐように質問をした自分に内心死神は違和感をおぼえた。

「一応いますよ」

 一応。山内は一言添えていった。一応。その言葉に死神はアイスコーヒーのグラスを置いて、山内に悟られないように小さく息を吐いた。

「一応って、なんだか含みのある言い方ですね」

「いや、まあ、なんとなく。特に好きで会ってるって感じでもないんで」

 山内はなんでもないように答えた。やはり、関心がないのだろう。他人に対する関心が希薄な人間。だが、特定の人間と交際していることが死神にとっては意外だった。

「なんとなく付き合っているという感じですか」

「まあそうですね。向こうは俺のことを大切に思ってくれてるみたいですけど。僕自身は別に」

「好いてくれてるのは、嬉しいわけではない?」

「んー、まあ悪い気はしないですけど。たまにうっとうしくなりますね。別にその子だけが特別ってわけでもないんで」

「ほかにもいるってニュアンスですね」

「いや、彼女はその子だけですよ」

 軽く笑いながら山内は言った。ほかにも関係を持っている女がいるのだろう。死神自身もそういう人間だったことを、生前の記憶を辿って思い出す。それがなんてことないと、死神自身も思っていた。だが、なぜか山内が笑いながらそれを告げることに、死神は不快感をおぼえた。その理由までは分からず、死神はいつもとちがう気持ちに自身で動揺していた。

「好きに思ってくれてるなら、相手は傷ついてしまいそうですね」

 死神、横山の言葉に山内は一瞬眉根を寄せた。だがその表情の変化を横山に悟られないよう、一瞬で眉根のシワを消した。

「まあそうかもしれないですけど、横山さんには関係のない話ですよね」

 この話をそれ以上広げるなという気持ちを込めて、山内は言った。死神は山内の言葉に不快感を抱きながら、仕事の話に戻した。




 山内との2度目のコンタクトの後、死神は街を何気なくブラついた。なにかずっと違和感がある。その違和感を拭うためにはなにが必要なのか。そう思いながら、あてもなく死神が繁華街のなかを歩いていく。雲の厚い都心の街。いつもより気分が重い。死神が仕事をするときはいつも天気が悪い。だからその天候には慣れているはずだが、山内と会ってから死神は妙に気持ちが滅入っている。なにか気分が悪い。その気分の悪さを、死神は払拭したかった。どうすればいつも通りの気持ちになれるのか。いつも通りの気持ちとはなんなのか。なにも感じないことが、いつも通りの気持ち。その気持ちを望んでいるのか。なにもない、ただなにも感じない気持ちの、なにがいいのか。

「なにかおかしい……」

 死神はつぶやいた。今回の仕事は、いままでとちがう。そもそも対象に対して、なにかを思うこと自体が異例だった。なにかが変わりつつある。その変化に死神自身の気持ちがついていっていない。

 街行く人間を死神は眺める。だれもが厚い雲の下、空気の汚れた街を死んだ目で歩いていると思った。そう思っていた。だが、よく見ると友人同士で軽口を叩きながら笑い合っている若者や、電話をしながら笑みを絶やさない女性、恋人同士であろう男女が満足そうな表情で手を繋いで歩く姿が目に映った。それまでは表情の沈んだ人間ばかりだと思っていたが、それは死神がそういう人間ばかりを見ていたからだった。

 目を向ければ、楽しげにしている人間などいくらでもいる。沈んだ人間が多いかもしれないが、幸福そうにしている人間だって珍しくはないのだと、街を見渡して死神は改めて思った。

 人間を眺める中で、人間じゃないものが死神の目に映った。同じ死神。人の中に紛れた人ではない者。何度か下界で見かけた死神だ。いまの死神、横山と同じぐらいの姿をしている。以前会った時は、年配の姿だった。ターゲットによって身なりと年齢を変えるのは珍しいことではない。いまのあの死神のターゲットは、若い人間なのだろうと横山は思った。横山が若い男の姿をした死神に近づいていき、肩を叩いた。

「仕事の合間か」

 振り返った死神は、横山を見て手をあげた。

「おお、いまからコンタクトだ」

「若い姿なんだな」

「コンタクトの対象が若い女だ。ジジイの姿ではコンタクトが取りづらい」

「少しでいい。時間をくれ」

 横山の言葉に死神は意外そうな顔をした。

「なんだ。珍しいな。話が好きなタイプではないだろう」

「聞きたいことがある」

 死神の言葉を流して、横山は言った。

「あんたは俺よりも年老いてから死んだだろう」

 死神は死期以後の年齢に変わることはできない。老齢の姿になれるのは、老齢まで生前の経験がある死神だけだ。

「年長者の意見を聞きたい。いま俺は妙な気分だ」

 横山はいまの心境を端的に告げた。自分の死期と同じくらいの人間がいまのターゲットだと。そのターゲットが他人に無関心だと。いま自分を好いている恋人すら無関心だと。そのターゲットを見て、気分が悪いと。

「こんな思いはほかのターゲットに会っていて感じたことがない。この気持ちは一体なんなんだ」

 横山は言った。若い姿をした老齢の死神は、あごをさすって黙った。まるで長老のような仕草だと、横山は思った。

「思い出そうとしているんだろう」

「思い出す?」

「ああ。おまえが死んだときに足りなかったものを」

「……」

「この機会を逃すな。おまえはもう死神でいる気はないんだろう」

「……あんたはまだ死神でいたい、みたいな言い方だな」

「そうだな。ワシは。いや、いまは俺と言っておくか。俺は自分に足りなかったものを知っている。だが、その事実を受け入れることができない。いや、受け入れようとしていない。受け入れれば、もう下界に降りることができずに、人として消えて無くなるからな」

「なんなんだ。あんたに足りないものって」

「ほお、以前なら俺のことになどまったく興味がなかったのにな」

 言われて、横山は思った。たしかに、この死神に興味を持ったことなど一度もない。どころか、ほかの死神にもだ。ただ下界で会い、死神同士がなんの意味もないことを軽く話すだけ。それがいままでだった。

「……いいから教えてくれ」

「家族だよ。俺には家族が生前いた。だが、その家族を大切にしていなかった。大切にしていないことをなんとも思っていなかった。自分のことだけを考えていた。だが、いまになって、いや死神になって、それを悔いていると気がついた。大切な、欠けがえのない存在だったと。それに気がついてからは、後悔したよ。早くその後悔から逃れたくて、さっさと消えようと。だが、それを受け入れて消えれば、もう下界に降りることはできない。妻や娘たち、孫たちの姿を見ることができない。ただのエゴだ。死のうが死ぬまいが、俺は自分勝手なやつさ。なにもすることができない。ただ、あいつらの姿を見ていたい。あいつらが日々、過ごしていく姿を見ているだけでいい。その姿を見届けることしか俺にはできないが、あいつらが幸せに過ごしていく姿を見届けることができれば、そのときやっと俺は自分の気持ちを受け入れて、死ぬことができるだろう。人として欠けていた俺が、人として死ぬことがな」

「……」

「そろそろ時間だ」

 そう言って老齢の若い死神は背を向けた。自分に欠けているものが分かれば、人として死ぬことができる。なにもない空虚な死神としての時間を、終わらすことができる。




 5日目。今日はターゲットとのコンタクトの日ではない。なのに横山、死神はターゲットの近くにやってきた。いつも会合する街から近い、飲食店が並ぶ駅。日の暮れた街には、オレンジの明かりが灯された店が並び、どこも席が満たされている。その一角、イタリアンのテラス席に、ターゲットの山内がいた。山内の前の席には、見覚えのない女性の姿。資料によると、それがいまの山内の恋人だという。ターゲットに関する情報は、コンタクトする前に参考資料として上の世界で渡される。

だが、死神、横山はこれまでターゲットの資料に目を通したことがほとんどない。ターゲットのことを知る必要がないと感じていたからだ。接触する際の最低限の情報に目を通すくらいで、個人的な関係など接触する際に必要ではない情報に目を通したことは皆無だった。それはほかの死神もほとんど同じことだ。死神が接触日以外にターゲットのことを観察すること自体が、死神にとって異例の行動でもある。業務に必要のない行動を、業務に無関心な死神がとるわけがないからだ。ほかの死神が皆そうであるように、この死神、横山もいままで一度として接触日以外にターゲットを観察したことなどない。

 だが、今回はちがった。死神はいままでにない気持ちで日々を過ごしていた。ターゲットが死を迎えるのは明日。その日を意識したことがこれまでになかった。これまでターゲットが死ぬことをなんとも思わなかったのに、なぜ山内が死ぬことをこれほど意識しているのか。山内のことを大切に思っている、というのとは違うと死神は思った。山内が死のうが生きようが、死神にとっては関係のないはずのことだ。なのに、このまま山内が死ぬことが、納得がいかない。山内がこのままの状態で死ぬことに、妙な苛立ちを覚えている。死神にとって、怒りの感情が表現としては近いと感じた。ターゲットが死ぬことへの悲しみではない。むしろ、ターゲットが他人に無関心なまま死ぬことに、死神は怒りを感じていた。

 死神は今回、横山とはちがう外見をしている。山内と接触するわけではないから、横山としての存在では都合が悪い。死神は、山内がどんな風に恋人と接しているのかに興味をもった。資料の情報では、やはり恋人に特別な感情などないと記載されていた。それに、恋人以外にも女性関係があると。死神は資料の情報だけでなく、実際にターゲットの山内がどんな風に過ごすのかをこの目で確かめたくなった。業務日でもないのにやってきたのはそのためだ。

 死神は山内の隣の席に座った。声自体は死神の耳であれば隣に座らなくても聞こえるが、山内をとにかく近くで観察したいと死神は思った。

「ここのパスタ、やっぱり美味しいね。前に来たときもそうだったけど、ここにして良かったね」

 山内が笑顔をつくって目の前の恋人に告げた。恋人の名前は加藤早希。都内のアパレル店の内装設計をしているらしい。

「前に来たの、けっこう前だけどね。覚えててくれて嬉しいな」

 加藤が山内の笑みに向けて、柔らかな微笑を返す。山内の造り物の優しい笑みとはちがい、本心からの笑み。けれど、どこか悲しみを抱いたように、少し眉根を寄せていた。

「もちろん覚えてるよ。早希と過ごした時間があるから、いまの俺があるんだから」

 嘘。偽り。どこにもそんな気持ちなどない。相手が喜ぶ言葉と仕草と表情を選んで、それを実行している。心のない人形。隣に座るこの男は人間ではないと死神は嫌悪した。自分が人ではないにもかかわらず。

「そっか、嬉しい。でも、もう少し会えると嬉しいな。仕事が忙しいから私のワガママになっちゃうけど……いまだと、やっぱり2週間に1度しか会えない?」

「そうだね……仕事が立て込んでて、難しいんだ。俺も会いたいんだけど」

 俺も会いたい。笑える。死神は思った。死神は気づいていなかった。あまり感情を表に出すことのない死神が、山内の言動一つ一つで感情的になっていることに。それほど死神はいままでと違う自分になっていた。

「そっか……」

 山内は加藤とスマートフォン上のメッセージのやり取りは適度にとっていた。それは加藤が寂しくなり過ぎて自分から離れたり、必要以上に会いたいと言ってくることを防ぐためだった。頻繁に会いたい相手ではない。けれど、ではなぜ山内が加藤と付き合っているのかが不思議だった。資料にはそこまで記載されていない。死神自身が山内のことを知る必要がある情報だった。そして死神が知りたいと思う情報だった。

 それからは山内と加藤はとりとめのない話を続けた。最近の仕事の話、最近見た映画の話、行きたい場所があるけれど仕事でいつ一緒に行けるか分からない話。山内は加藤に特別な感情があるようには見えない。それでも加藤との関係は続けようとしている。それは加藤が山内に惚れているから使い勝手がいいという理由かもしれない。だとすれば気分の悪くなる話だが、なぜ気分が悪くなるのか死神自身が不思議に思うことだった。まるで昔の自分を思い出しているようだと、ふと死神は思った。


 昔の自分を思い出している?


「そろそろ行こうか」


 死神は山内の言葉で我に返った。ターゲットのことを知ろうとするつもりが、いつのまにか意識が内側に向かっていた。山内たちの話を死神は聞いていなかった。それよりも重要なことが、死神の内側に起こっていた。なにかを、思い出そうとしている。死神自身の、なにかを。


 山内たちが席を立つ。少し間を置いて、死神は席を立った。あいつを見ていると、なにかが思い出せる。死神は思った。あいつを知る必要があると。あいつを知ることで、自分自身を知る必要があると。





 山内と加藤が食事の後に立ち寄ったのは、街中の広々とした閑静な公園だった。二人から距離をとって死神が歩く。姿を消すこともできるが、死神はその気にならなかった。生身のままで話が聞きたい。そんな気分だった。仮に怪しまれたとしても、この姿はいくらでも変えられる。音も離れた位置から拾うことはできる。とにかく、山内のことが知りたい。山内を知ることで、なにかが変わると死神は感じていた。

 これほどまでに。他人を知りたいと思ったことはなかった。死神になってから、いや、死神になる前も。生前、人に関心を寄せたことなど、ほとんどなかった。山内の恋人、加藤のように、死神のことを好いてくれる女性はいた。それでも、特になんの思いもなく、死神は生前付き合いを続けては、相手が離れていくということを繰り返していた。恋人がいようといまいと、山内のように、都合のいい関係を続けることも常々だった。だれかに関心を寄せることのない日々。空虚な日々。その日々から考えると、いまの死神は異常だった。

 いや。異常だったのは、いままでだった。そんなことを死神を感じた。理由はどうあれ、人を知ろうとしているいまの感覚が、死神にとっては不快ではなかった。人を知ることで、自分を知ることができる。自分自身を思い出すための手段でしかないが、結果的に死神は他人に関心を寄せている。その現状が、新鮮な経験として死神の心を、どこか満たしていた。空虚な生前と、空虚な死神の日々とはなにかがちがう、なにもない心を補うような感覚を、死神は感じていた。

 もしも。

 生前、自分に特別な思いを抱いていた相手に、少しでも関心を寄せていれば。なにかが変わったのかもしれない。

 なにか?

 なにかとかなんだ。

 なにが変わっていればよかった。

 生前、死ぬ前。

 なにが変わっていればよかった。

 死ぬ前。

 死ぬとき。

 どうやって俺は死んだ。

 溺死。

 俺は川に落ちた。

 酒に酔っていて、そのまま川に落ちた。

 そのまま溺れ死んだ。

 それでいいと思った。

 なにもない、つまらない日々だったから。

 川に落ちたのなら、都合がいいと思った。

 そのまま死ぬなら、終わるならそれでいいと思った。

 つまらない日々、満たされない日々、なにもない日々。

 空虚な日々を終わらすことができると。

 空虚な日々を終わらすために、死んだ。

 そうしたら、死神になった。

 空虚な日々は、終わらなかった。

 空虚な仕事を、課され続けた。

 空虚な日々は、続いて。

 死んでも終わらない空虚。

 早く終わらしたい、空虚。

 終わらない空虚。

 それが。

 死なずに終わらすことができたのだとすれば。

 死んでも終わらないものを

 死なずに終わらすことができたのは

 こういうことなのか?



 あいつは。このままだと。

 死神になる。

 空虚なまま死んで、空虚なまま死神になる。

 俺と同じように。

 つまらない生前と、つまらない死後が続く。

 なにもない時間が。ともすれば永遠に続く無意味な時間が。

 俺と同じように。


 


 そんなの。

 つまらなすぎる。




 死神は思った。自身の死を。自身の自暴自棄から生じた死を。

 自身の自殺を。

 なにもない空虚な日々に嫌気がさしていた。自身のつまらなさから解放されたかった。その手段が、死でしかなかったことが、死神になった理由なのだと。

 思えば。

 なにもないのは、なににも関心を寄せていなかったからだった。だれかを思うことなどまるでなく、だれかのために生きることなどなにも考えていなかった。

 今の山内のように。

 山内は空虚だ。その空虚さから逃れたくて、無意識にもがいている。あいつがデザイナーになったことも、自身の創作意欲を発散させたくてやっているのだろう。自身の空虚さを埋めるために、人とも会えば物にも触れる。山内が空虚でありながら、なにもしない人間ではないのは、そこから生じているのだろう。

 死神自身がそうだった。音楽に触れ、バンド活動をしていたのは、なにかを発散させたかったからだ。その発散させたいなにかは、結局枯渇した。自身の内側からなにも生じなくなった。なにかも求めて形にしたくとも、その形にしたいものが現われなかった。バンドメンバーをとっかえひっかえに変え、自分の空虚さをメンバーのせいにし続けた。女も同じように、変え続けた。

 他人に原因があると思い続けた。なにもないのは、なにかを与えてくれる他人がいないからだと。自身から他人になにかを与えたことなど、一度だってなかったくせに。

 死神の空虚さは、自身から生じていた。自身のことばかり考え、自身に籠っていたから、なにも生じなかった。なにかを与えられたければ、なにかを与える必要がある。与えるものがないくせに、与えてほしいと望み続けた結果、なにも手に入らなかった。

 死神の空虚さは、自らが作り出していた。

 あの男も。

 俺と同じだと、死神は思った。

 このままにしておきたくはなかった。

 山内をそのままにするということは、自身の気づいた過ちを見過ごすことになる気が死神はしていた。だれかのためになにかをすることがなかったのなら、いまなにかをしたいと死神は思った。山内自身がそれを望んでいることは、死神は直感していた。自分と同じなにかを持つ男。いままでになかった、違和感。それは山内が死神自身を見ているようだったからだ。

 死神は思った。あいつにその過ちを気づかせる方法はないかと。自身の空虚さは自身が生み出していることに、どう気づかせることができるか。

 人のことを考えたことのない死神には、その問題は困難だった。人に対してどうアプローチすればいいのか、その発想がまるでない。問題に直面しても、解決する手段を死神は持ち合わせていなかった。

「なにができるのか」

 死神はつぶやいた。夜の公園では山内が加藤をなだめるように椅子に座りながら手を回し、なにかつぶやいている。

「俺がいるのは、君のおかげなんだよ」

 山内は心にもないことを言った。加藤をなだめるために造り上げた言葉を。

「……私がいるのは、あなたがいるからだよ」

 加藤は山内の腕に抱かれながらつぶやいた。表情は見えないが、その声に気力は感じられない。だが、加藤とはちがい、その言葉は本心のように聞こえた。感情が籠っていると、死神は感じた。山内の言葉には感情を感じない。おそらく、加藤もそれを察しているだろう。それでも加藤は、山内のそばにいる。山内を好いているから。そして、山内を変えたいと思っているから。死神は、そんな気がした。それを山内自身は、なにも考えていないだろう。その気持ちに気づくことができれば、なにか変わるだろうか。それだけで、山内が変わることができるだろうか。




 6日目。山内が死亡する予定は、明日。仕事と称して山内と会うのは、今日が最後。死神は横山の姿で山内と出会った。厚い雲のかかった都心の街。オレンジの灯ったアンティーク調のカフェで、死神は山内をテーブル越しにじっと見つめた。

「どうしたんですか、横山さん」

 山内は不思議そうに言った。死神の視線に、なにかを感じた。

「いえ、いただいた作品は期待以上のものでした。できる方なのだなと改めて思ったので」

 死神は言った。それは本心だった。指令通りの作品を山内に伝え、その仕事の出来は希望以上のものだった。仕事ができる男。感性自体は備わっている。デザイナーとしての才能は持ち合わせている。感性は豊かな男なのだろう。それゆえに、自身の空虚さに敏感に反応して、そして絶望している。感情が籠っていないのではなく、感情を押し殺している。死神は山内を見ながら、そう感じた。

「作品はどのように作成されるんです?」

 死神は聞いた。山内のことを知ることが、なによりも重要だと。相手のことを知ることができなければ、相手を変えることなどできない。相手に関心を寄せたことのない死神にとって、新鮮な体験だった。仕事も無気力にこなすための言葉ではなく、自身の意思で相手を知るために質問するということが。

「要望を聞いた上で、その要望に近い作品を片っ端から参考にして、それをデザインに落とし込んでいるだけですね。だから僕が褒められたものではないですよ。あくまで先人の知恵を借りているだけです」

「その先人の知恵を正確に理解してデザインに反映できるのは、山内さんの力だと思います」

「いやだなあ、そう言われると照れちゃいますよ。まあ一応、感受性は強いかもしれないですね。言い換えれば繊細とでもいいますか。それを使っているだけですよ」

 感受性が強い。繊細。その自覚は山内にはあるのかと、死神は思った。自身のことをまったく分かっていないわけではない。ならばやはり、自身の空虚さにも敏感だろうと死神は確信した。

「感受性が優れていると、人の気持ちにも敏感に気づけそうですね」

「……どういうことですか?」

 一瞬、山内は眉根を寄せた。なにを言っているんだコイツは。そんな表情だった。

「いえ、感受性が優れているからこそ、デザインの要素を他からインプットする力も優れているのだろうと思ったので。であれば、人の気持ちを察する力も優れているのだろうと思っただけです」

「……人の気持ちには、どちらかというと疎いですね。あまり他人に関心がないといいますか。いえ、こんなことを言うと、僕の印象が悪くなってしまいますね」

 山内は笑いながら言って、コーヒーカップに手を伸ばした。

「デザインには関心があって、人には関心がないんですか。そのちがいってなんです?」

「……なんだか今日の横山さん、変ですね」

 山内はコーヒーカップに視線を落としながら言った。明らかに不快そうだった。言葉を選ばずに死神は聞いていた。時間へのあせりと、相手を配慮して質問するという行為を死神はしてこなかったからだ。生前も、死後も。

「すいません、ただ気になったもので」

「そういう横山さんも、人に興味がある人には見えませんが」

 山内の反応に死神は少し驚いた。山内が感情的になっている。表にこそ出さないが、その声色には色を感じた。怒りを込めた赤い、熱い色を。

「そうかもしれません」

「そうですよ。初対面のときからそう感じていました。なんといいますか、僕と似てる人種なんだろうなって。だから楽だったんですよ。人に無関心な人だから、居心地がいいって。そう思ったんですけど」

「けど?」

「なんか、今日は違いますね。変に突っかかってくるというか、僕の内側に入ろうとするといいますか。正直言って、いい気分はしませんね。干渉してこないタイプだから気楽だと思ったので」

 山内は少し早口に言った。明らかに感情がこもっている。そして、本心を言っている。それは死神が似た者同士だからこそ、共鳴するように引き出された言葉だった。

「話が合う人かなと思ったんです。なんだったら、プライベートでもお会いできるタイプかなと。音楽も好きなようですし、共通の話題もある。あまり僕は人と深く関わるタイプではないので、友人と呼べるものは僕からするとほとんどいないんですが」

 交友関係は広いが、親しい仲はいない。そういう意味合いだろうと死神は思った。死神自身も、生前そうだったからだ。

「友達になれるかと思ったんですが、そうでもなさそうですね。僕の勘違いだったようです。今日が仕事で会う最後の日だったので、個人的な連絡先でも交換しようかと思ったのですが、やめておきますね」

 妙にストレートに言う男だと思った。感情がこもれば、思ったことがそのまま出る。それも似ていると思った。女を変えるときも、おそらくその感情的な態度が爆発して、関係が切れてきたのだろうと。無感情な男ではない。むしろ感情的な部分を自身でコントロールするのが下手だから、普段は感情を殺して、愛想のいい男を演じている。死神は生前、愛想を振りまくタイプではなかったが、感情を抑えているという点では同じだろうと思った。

「いや、すいません。変なことを一方的に言ってしまって。横山さんとは仲良くなれるかもって勝手に思ってしまっていて、つい」

「いまのままでは仲良くなれないでしょうね」

「どういう意味です?」

「あんたが人に関心がないままだと、仲良くなれないですよ」

「は?」

 山内はあからさまに顔を歪めた。死神はお構いなしに言った。言葉を選んでいる場合ではないと。そもそも、言葉を選ぶ器用さを死神は持ち合わせていなかった。そして感情が抑えられなくなっているのは、山内だけでなく、死神自身も同じだった。

「おたがい人に無関心だから仲良くなれるなんて、そんなのは中身が無さすぎる。おたがいにも興味を持たずに、それは友人と言えるんですかね。ただ邪魔にならないもの同士が一緒にいて居心地がいいなんて、そんなのを友達と言うんでしょうか」

「知ったようなこと言うじゃないですか。なんなんですあんた?」

 山内の声のボリュームが上がった。と同時に、店内の喧騒も消えた。予想以上に自分の声が大きくなったと山内は気づいた。隠しもせず舌打ちをして、テーブル横のカゴからカバンを取り出した。

「仕事のOKはいただいたので、これで契約は完了です。失礼します」

「逃げるように出て行くんですね」

「なんなんだよさっきからよお!!」

 山内は店内にいることも構わず怒鳴った。静まり返った店内で、周囲から集まる視線に構うことなく、周りにだれかがいることも忘れた様子で山内は死神を睨みつけている。

「いったい何様なんだよあんた? 分かったようなツラして言いたいこと言ってよお。俺のなに知ってるってんだよ?」

「あんたと俺はたしかに似た者同士なんだよ。だから分かる」

「なにがだよ。俺とあんたは似てると思ったけど、けど違うっつっただろうがよ」

「似てるんだよ結局。ほとんど同じと言ってもいいかもしれない」

「俺はあんたみてえにズケズケ他人に踏み込まねえよ。俺は他人になんの興味もねえからな。こんな風に他人を不快にすることねえんだよあんたみてえにな」

「他人を不快にも心地よくもできないんだよあんたは。自分が良いとでも思ってるのか?」

「るっせえなあ!!」

 今にも殴りかかろうとする勢いで山内は言った。店員が駆け寄ってきて、山内に話しかける。山内はまるでゴミでも見るような目で店員を眺め、店員はすぐさま俯いた。

「ここで話すのもなんだろ。表へ出ろ。俺はあんたの気分だけ不快にしてるが、いまのあんたは店中の人間の気分を不快にしてるぞ」

「……てめえと話すことなんざねえよ」

 山内は座っていたテーブルを蹴るようにして席を立ち、足早に店内を出て行った。それを死神は追わなかった。やり方が正しかったかどうかは分からない。ただ、冷静を装っている山内に強い感情が流れていることは確かだった。だが、ここからなにができるか。死神はリストをどこからともなく取り出し、視線を落とした。山内が死ぬのは明日。死亡予定日に変更はない。いまのままでは、なにも変わらない。

 山内に睨みつけられた店員は、まだうつむいたままだ。

「すまなかった」

 死神は店員を見つめて一言告げ、テーブルを立ち上がった。申し訳ないことをした。仕事が終わり、夜の食事を楽しんでいた店内をかき乱した原因は自分にあると死神は思った。他人のことなど構うことがなかった自身が、周りの人間のことをこう思うことなどあり得なかっただろうと感じながら、死神は静まり返った店内を後にした。




7日目。最終日。いつもならなにも思わない日。ただ意味のない仕事が終わるだけで、次の意味のない仕事が始まるだけだと無感情に思う日。だが、今日は違った。なにができるのか、死神は昨日の店を後にしてからずっと考えていた。山内が死ぬことを止めるには、なにが必要か。自分と似た人間であれば、もし自分ならなにがあればあの時、死ぬことを止めただろうか。

 山内の恋人、加藤に真相を告げるか。しかしそれで、なにが変わる。山内は加藤に特別な感情を抱いていない。なんなら、自暴自棄になったまま加藤を殺し、自身も死ぬかもしれない。加藤が山内の抑止力になるとは到底思えない。他人どころか自分にすら興味を失ったから、俺はあの時死んだ。なにもかもに無関心になった瞬間、生きることを辞めた。諦めた。

「諦めた、か」

 死神は自虐的につぶやいた。我ながら下らないことをしたと思った。いまから人生をやり直したいとは思わないが、だがもし、自身の過ちにさえ気づいていれば、生きることを諦めたりはしなかったのではないかと思った。ならば、山内を変えるきっかけは、そこにあるのではないか。死ではなく、生にこそ望むものがあると山内が自覚できれば、山内は生を諦めないのではないか。

「俺だったら、なにがあれば変わっただろうか」

 死神は思った。朝日は厚くかかった雲のせいでなにも見えない。今日も死神の1日は薄暗い世界から始まった。




 夜。山内の姿が橋の上に見える。あたりに人の姿はない。山内はひどく酒に酔っていた。足元はおぼつかず、下には大きな川が広がっている。山内は橋の手すりにすり寄った。そして真っ暗な川面を眺める。川に向かって身を乗り出し、体が手すりを超えていく。まっ逆さまに落ちる山内の身体。激しい水しぶき。闇の中に消えた山内。水の中で虚ろな目をしたまま、川の流れに逆らうことなく流されていく。なにも思わず、なにもなく、いままでの人生になにも感じなかったと思いながら、その人生の延長線上として、水の中に消えていく意識。薄らぐ意識。持ち上がる身体。山内は虚ろな目を広げた。体が持ち上がる感覚に違和感をおぼえ、そのまま水面の上に体が放り出される。地面に打ち付けられた体。痛みが伝わる。肺の水を吐き出そうと強くむせ返る。生物的な反応。意思とは無関係に。だが水辺に上がったことに、一瞬でも安堵した自分に山内は嫌悪した。なぜ水辺に上がった。どうして体が地の上にある。たしかに自分は川に落ちた。川に落ちて、もう二度と戻ることがないと。そのために、闇の中へ消えた。なのにどうして。

「それは逃げだろ、ただの」

 酔いは吹っ飛んでいた。泥酔するには十分だった量だ。なのに意識は元に戻っている。もしくは死んだ後の世界なのか。死後の世界の地上に降り立ったというのか。頭の中が混乱する。その混乱の中、最近耳にしていた男の声が響く。仲間意識が芽生えかけていた、裏切られた声が。

「おまえが死んでもなにも変わらない。なにも変えることができずに死ぬのは、ただの逃げだ。自分の生き方を自分で変えられなかっただけで絶望して、何になる」

 山内は顔を上げた。嫌悪と怒りを隠すことなく、ひどく歪められた顔を。その前には横山の姿があった。

「……なんだよあんた……最後の最後まで……」

「言いたいことがまだある。だから引き上げた」

「……人助けのつもりかよ……つうか、いったいどうやって川から……橋の真ん中から落ちたはずだろうが。ばけもんかよテメエ」

「化け物といえば化け物だ。俺は人ではなく死神だ」

「……んだよ、俺はやっぱ死んだのか。死神と話してるってんなら納得がいくぜ。俺は死ぬつもりで川に落ちたんだからな」

「残念ながらまだここはおまえがいた世界だ」

「はあ!? じゃあなんで死神が人助けなんざしてんだよ! ワケわかんねえぞテメエ!!」

「たしかに訳がわからないことをしている。死神は人の死を看取るための存在だ。そのために俺はお前に接触していた」

「……じゃあ死なせるのが死神の勤めなんじゃねえのかよ」

「死神はターゲットを死なせるためにいるのではない。ターゲットの死を見るだけだ。そいつが死のうが生きようが知ったことではない」

「そのターゲットが死ななかったんだろうがテメエのせいでよお! 死を看取るためにいんじゃねえのかよ! ターゲットが死ぬのをテメエが邪魔してんなら仕事になってねえだろうが!」

「本来死ぬ予定だっただけだ。その死に俺が関与したから、おまえの死がなくなった。それが結果であれば、別になんの問題もない」

「ワケわかんねえよ……。なんで死ぬ予定だった奴の予定をテメエが潰すんだよ。俺になんの恨みがあんだよ!?」

「恨みではない。おまえはまだ死ぬには早い。だから死なせなかった」

「テメエが俺の生き死に決めてんじゃねえよ……死ぬかどうかは俺が決めることだ」

「たかだか20そこらの奴が生きることに絶望しただけで死のうとしただけだろうが。偉そうなことをほざくなよガキが」

「……んだとテメエ……」

「生きることに絶望して死ぬ。自分の生き様をなにも変えずになにも変わらなくて、変わらない現実に絶望して死のうとした。おまえはその程度の人間だよ」

「……好き放題言うじゃねえかよバケモンが……俺の苦しみのなにが分かるってんだよ……!!」

「多少なら分かる。俺もそうやって死んだ」

 死神は横山の姿をしたまま、淡々と告げた。山内は驚きの表情のまま固まった。

「俺も同じような死に方をした。だから死神になった」

「……んだよ。自殺したら死神になっちまうのかよ」

「正確には、欠けたものがある人間が死ねば死神になる。俺は欠けたまま死んだ。人として欠けたものがあるから、俺は死神になった」

「……欠けたものだと」

「そうだ。俺は生前、虚しさしかなかった。なにをしても空虚だった。だれといても喜びなどなかった。なにをしていても楽しくない。生きていても生きている気がしない。だれよりも喜びや楽しみを、本当は求めているはずだった。だからそれがどこにあるのか、必死に探した。けれど、どこにもなかった。自分のどこを探しても、喜びも楽しみも欠片も見つからなかった」

 山内は死神の言葉を聞いて黙りこんだ。山内自身のことを話しているかのような死神の言葉に、言葉を紡ぐことができなくなっていた。

「そして俺は死んだ。どこにも喜びも楽しみもないのなら、こんな世界に用はないと。だれといても、同じだと。俺を愛してくた女もいたはずだが、そんな相手にもなにも思うことはなかった。自分のことしか考えていなかった」

「……」

「そして死んだ。おまえと同じように、酒に酔ったまま川に飛び込んだ。そして意識が戻ると、俺は人ではなくなっていた。いつの間にか目の前に突っ立っていた、黒いスーツ姿の男にいわれた。俺には欠けがあると。その欠けを理解するまでは、おまえは死ぬことはできないと。死神のまま、永遠に存在し続けると」

「……やってられねえ話じゃねえか」

「まったくだ。随分とそのやってられねえことを続けてきた。だが一向に欠けなど理解できなかった。ただ人が死んでいくのを無感情に見ているだけだった。おまえに会うまではな」

「……なんだったんだよ、テメエの欠けってのは」

「おまえを見ていて分かったことは」

 死神は言った。

「俺は人に無関心だったということだ。生前も死後も。他人のことなどなにも考えていなかった。おまえを見てそれに気がついた」

「だったらなんだよ……。おれはだれにも興味がねえ。だれにもどころか、自分にすらな。テメエみてえに楽しく生きてえだのそんなことすら思わねえ。だれといても虚しいし、なにをやっていても楽しくねえ。そんな人生になんの意味があんだよ」

「なにもない。そんな人生に意味など」

「じゃあ終わらせて当然だろうが!! テメエだってそれに絶望して死んだ口じゃねえかよ!! なに邪魔してんだよ!!」

「なんにもしねえ現実だろうが」

 死神はつぶやいた。その言葉に、ひどく感情がこもっていた。山内はその感情の強さを直感して、思わず言葉を詰まらせた。

 恐怖。それが山内の心に広がった。

「……なにキレてんだよ……」

「キレもする。おまえは俺の弱さそのものだ。自分の弱さをそのまま直視しているんだ。気分も悪くなる。つうか、一番気分が悪い。一番醜いものを直視しているんだからな」

「言いたい放題言いやがって……」

「おまえも同じような気持ちになるだろう。自分の最も醜い姿がまさに目の前にあれば、反吐の一つや二つは吐きたくなるだろう。それが俺にとってのいまのおまえだ」

「だったら……どうするってんだよ。テメエが俺を殺すっていうのか? そのために助けたってんなら、笑えるじゃねえか。自殺する代わりに死神に殺されるってのも、悪くねえかもな。自分で死ねねえのは気分が悪いけど、死神に殺される最期ってのなら悪くねえ。さっさとやれよ」

「なに勝手にほざいてんだよ。テメエはまだ死ぬ価値すらねえっつってんだよ」

「……殺すぞてめえ」

「そんな力があるのか?」

「んなこと知るかよ!!」

 山内が立ち上がり、死神に向かってつかみかかった。死神が床に倒れ、山内がマウントをとったまま思い切り死神の顔に殴りかかる。川沿いのコンクリートの床を拳で思い切りなぐった山内が、思わず叫び声を上げた。

「相当な感情だな。拳にヒビが入る力で殴りかかるとは」

「あ……! が……! んだよ……バケモンが……!!」

「随分と感情的じゃないか。その熱さをほかに活かしたらどうだ?」

 死神の言葉に山内は歯を食いしばって黙り込んだ。拳を握りしめながら、死神を睨みつける。

「なににブツけりゃいいっつうんだよ……俺だってなにもしてこなかったわけじゃねえよ。なにしてもつまらねえから、自分の好きなこと努力してデザインやったり、仲間になれそうなやつとつるんだりもしたさ。女だって片っ端から手ぇ出してなあ。いろんなもん目にしたり触れたりもしたさ。けどなにしたってつまらねえんだよ! なにしてようが楽しいフリしてようが、虚しさばっか溜まってく一方なんだよ! ただ楽しく生きてえだけなのに、なんにも感じられねえ。不満ばっかだよ……んなこと思ってるうちに、必死こいてあれこれ自分の楽しさ探すこともいつのまにか止めちまったよ。なにしてもつまらねえんだったら、なにしてても同じだ。いつの間にか生きることにウンザリしてたよ。なにもねえ、ただ時間だけが膨大にあるだけの人生なんざあ、んなもん地獄だ……。だったら早く終わらせちまった方がいい。そんなこといつからか思うようになった……。……あんなに必死にもがいてたことがバカらしくなったよ……」

 山内はうつむきながら言葉を続けた。その言葉を死神は黙って聞いた。なにもない人生。自分なりにもがき続けて、けれどなにも得られないという不満。その不満がつのり、いつの間にか死を選んだ。自分と同じだと、死神は思った。

「なにもないわけじゃない。おまえにはおまえのことを大事に思うパートナーがいる」

「……そいつといたってなにも感じやしねえよ。つうかテメエ俺に女いることもお見通しかよ。んだよ俺のトイレにまで忍び込んでそうな勢いだな気持ちわりい」

「そんな趣味はねえよボケが。おまえは相手のことを思ったことがないだろう」

「……相手のことだあ?」

 山内が顔を上げて死神を怪訝そうに眺めた。俺だってこんな顔をしただろう。生前にいきなり訳も分からないやつに訳の分からないことを言われたという顔を。

「おまえは自分の楽しみばかりを探していた。自分のことだけを考えて生きてきた。別にそれは悪いことじゃあない。楽しく生きたいなんていうのはだれもが思うことだ。俺もそれを生前、とにかく探していた。おまえと同じように、さまざまな不満がありながらも、どこかに必死に自分の求めるものがないか、探し続けた」

「……で、見つからなくて死んだんだろうが」

「そうだ。自分の中で完結させようとして、そして虚しくなって死んだ」

「……どういう意味だよ」

「自分のことしか考えていなかった。自分を満足させるためにしか生きていなかった。他人のことなど考えずに、自分が楽しむにはどうすればいいか、それだけを考えていた。そして自分で自分を満足させる方法が無いと分かって、死んだ。もし、自分の外に俺が求めるものがあると気がついていれば、結果は違っただろう」

「……なんだよ自分の外ってよお。俺はいろんなもんに触れてきたぜ。映画だって本だってしこたま読んだ。音楽だってアンタほとじゃねえかもしれねえが、ジャンル問わずにいろいろ聞いたし。アウトドアだっていろいろ試したさ。バイク乗ったり登山したり、ボード乗ったり。絵だっていろんなもんから吸収して俺なりのもんにしたさ。テメエだって見ただろうが」

「そう。見事だった。相手の要望以上のものを出す力もある。だが相手のことを考えてではないだろう」

「なんだよ……説教くせえ。俺が相手のこと考えないから人生虚しいって言いてえのかよ。神父かよあんた」

「死神だ」

「……死神が聖書に書かれてそうなことほざいてんじゃねえよ。んだよ相手のことってよ。俺が満足するために相手のことなんざ考えてなにになんだよ」

「やってもいないのにほざくな。とはいえ、俺だって同じような反応をしただろう。突然こんなことを言われてなんなんだってな」

「じゃあ分かるだろうがよ……んだよ相手のことってよ。俺が満足するために相手を満足させろとでもいうのかよ」

「近いのかもしれない」

「あいまいな言い方しやがって……」

「俺自身、相手のことを考えずに生きていた。そして死んだ。そしたら死神になっていた。おまえには欠けたものがあると言われて。だから俺は相手のことをどう考えればいいかなんて、分からない。だが、いまになって思う。欠けていたものは、相手を思う気持ちだと。それが俺にとっての欠けだった。人に親切にするだの、優しさだの、そんなものはキレイごとだと。自分も満足に満たせずに、世間体を気にしたやつらが上っ面でやってるだけだと。俺は俺のことを考えて、俺を満たすために生きようと躍起だった。その結果、なにもない人生だった。それが俺のつまらない生だった。いや、いま思えば……生きる実感も感じられなかった。死んでいないだけの無意味な生。それにうんざりして、俺は死んだ」

「……」

「おまえには、そうはなってほしくない」

 山内は鼻で笑った。

「なんだよ、死神が死ぬ相手に優しくしてんのかよ」

「優しさかどうかなんざ知ったことか。俺は俺みたいになってほしくないだけだ。俺と似たような奴が、俺の間違った生き方をして死んでほしくないと思うだけだ。……もしかすると、これが他人のことを考えるということに、なるのかもしれないが」

「……」

「楽しければ別に死ぬ理由はないんだろう」

「……」

「なら、まだ試してないことを試してみたらどうだ。死ぬのはそれからでも遅くはない」

「……他人のことを考えるってよ。おまえがやってるみてえに死にそうなやつ見つけてボランティアでもしろってか」

「まずは身近な人間を大切にしろ。加藤という女。そいつのことを、上辺で大切そうに扱うだけじゃなく。本当に相手のことを思って、接してみろ」

「……んだよそれ」

「難しいだろう。やったことがないことをやるのは。だが、加藤自身も気づいている。おまえが上辺で接しているだけだと。それでもそばにいてくれるだけ、ありがたい話だが」

「てめえに俺らのこととやかく言われたかねえよ」

「だがまず変わる。上辺ではなく、本当に相手のことを思って接すれば、なにかが変わる。少なくとも加藤の感じ方は変わるだろう。そうすれば、おまえもなにか感じたことのないものを感じることができるのかもな」

「……説教くせえなさっきからよお、んとに……」

「おまえが楽しむためのヒントをくれてやってるんだ。ありがたく思え」

「……それがおまえにとっての、他人を思うってことってか?」

「悪い気はしないはずだ」

「……うざいこと言われてるとしか思わねえ」

「だが死ぬ気は失せたようだな」

「るっせえなほんと……?」

 山内が顔を上げると、そこにはだれもいなかった。川辺にはなにもない。遠くからパトカーの音が聞こえる。川沿いの道で止まり、警察官が2人降りてきて、山内を指差してなにか話している。

「……やば!」

 だれかが騒いでいる山内を通報した。それに気づいた山内は、猛ダッシュで川沿いを走った。

「なんなんだよマジでよお!」

 叫びながら、山内は川沿いを駆け抜けていく。とにかく捕まらないように警察を巻いてから家に帰ろうと必死だった。川の底へ沈もうという気持ちは、どこにもなかった。




「本日の死亡予定だった山内が死ななかった件についてだが」

 机と椅子だけが置かれた空間。その椅子に黒ずくめのスーツ姿の者が座っている。黒ずくめの者の前には、横山を名乗っていた死神が突っ立っていた。ターゲットの死亡日を終えても、ターゲットは死ななかった。ほかならぬ横山と名乗った死神が原因で。死亡者の運命を変えた。どんな判断を下されるのか、横山を名乗った死神は知る由もない。ただ自分の思うままに動いたことで、死神はなんの悪びれた様子もない。どころか、これで良かったとすら思っていた。だが死神の業務から明らかに外れた行為である自覚はあった。黒ずくめの上司は横山を名乗っていた死神をじっと見据えた。

「俺はどうなるんだ」

 横山を名乗っていた死神は、上司をまっすぐに見つめて言った。どんなことが起こっても構わない。そんな気分だった。どこか満たされた気持ちがしているのが、死神自身不思議だった。

「貴様はもう死神ではない」

 上司の言葉に、死神は納得がいった。死を看取る存在が、死を無いものとしたのだ。死神であるはずがない。いったいいまの自分は何者なのか、それすらも分からなかったのだから。

「貴様は生前に欠けていたものを見つけた。そしてターゲットの死を回避させた。貴様はもう死神ではない。人として消えるがいい」

「……どういうことだ」

 死神ではなく、人として消える。上司の言葉は予想外のものだった。俺が、人として消える?

「そうだ。おまえは人として消える。生前、貴様は人として生を受けながら、人としての心を欠いて死んだ。そして人として死ぬことなく、死神になった。その貴様が死神ではなくなった。ならば貴様はもはや、人としての心を宿した存在だ」

「……俺は消えてどうなる」

「なにも。ただこの永遠に続く死神としての役目を終え、人の心を宿した存在として消える。ただそれだけだ」

「……そうか」

「人としての心を宿した気分はどうだ」

 上司の声色が、いくぶんか柔らかい調子になった。そんな気が、男はした。

「なにか、よくわからないが。満たされた気分だ」

「欠けていたものを手に入れたから当然だ」

「……生きているときに、味わえれば。そんな気持ちにもなる」

「もう遅い。貴様は死んだ存在だ。生きていた頃には戻れん」

「そうだな」

 男は息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。後悔がない、といえば嘘になる。そんな気分だった。

「山内はどうなる」

 男の言葉に、死神の上司は手にしていた紙に目を落とした。あの後、山内は水浸しになった身体で加藤の家に行った。加藤は驚いた様子で山内を出迎えた。山内は酒に酔って川に落ちたと言った。それを聞いて加藤はひどく心配すると同時に、喜んだ。山内が加藤の家に行ったのは、これが初めてだった。山内自身は、警察を巻くために自宅ではないどこかへ行こうと思ったのが理由だったが、それでも加藤の家を選んだのは、山内にとって新しいことだった。他人の家に上がることも、自分の家に他人を上げることもなかった男にとって、人の家に上がるということは新鮮な体験だった。

「あの男に死の気配はない。そのうち老いて死ぬだろう」

 老いて死ぬ。自分で死を選ぶということはない。そういう意味だった。

「あの男があのまま死ねば、死神になっていた。貴様と同じように、心に欠如を持ったまま死んでいれば、貴様と同じように死神になっていた」

「あいつは人として死ぬのか」

「このまま欠けを自ら埋めることができればな。それはあの男次第だ。貴様にはもはやなにもできない」

「そうか」

「貴様はもう死神では無い。ここにいる理由がない。さっさと消えろ」

「ああ。……一つだけ聞かせてくれ」

「なんだ」

「あんたはずっと消えないのか」

「俺は死神ではない。だから消えることはない」

「……世話になったな」

「そんなことを言う男ではなかったがな、貴様は」

「変わったから消えるんだろ」

「それでいい」

 上司の前の、男の姿が薄れていく。自らの手を男は目の前にかざした。上司の姿が透けて見える。

「次は死神になるなよ」

 最後に聞こえた上司の言葉を、男は不思議そうに聞いた。薄れていく視界のなか、男は上司を見つめた。表情など変えたことのない上司の顔に、わずかながら笑みが見えた。そんな気がした。

 男の意識は、完全に消えた。男の姿は、どこにもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死神の仕事 @yugamori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る