君の教えてくれた世界

 ぽた、と何処かで水滴の落ちる音がして彼は目を覚ました。ほんのわずかな水滴の音でさえ、眠りを妨げるほど大きく聞こえる、そのくらい彼のいる空間は静かで、そして何もなかった。




 目を覚まそうが眠っていようが目に見える景色は変わらない。薄暗いジメジメした洞窟の中、その中に封じられるように作られた石牢、そこが彼の知る唯一の世界だ。真っ暗で光もほとんど届かない世界に彼はもうかれこれ数十年いる、気がする。あくまで気がするだけだ。彼は数の数え方も、言葉も、よくわかっていないのだから数えようがない。ただ、もう長くここに閉じ込められているが、彼の見た目は月日が過ぎようとも変わることなく、そして飲み食いせずとも飢えることもない。




 腕には強固な鎖が巻き付けられ、彼の自由を奪っている。それは冷たく重く、彼の心も体も、この石牢の中に押さえつけてくるようだった。このようなものをつけなくとも、彼はここから逃げたりはしない。なぜなら、彼にとってこの世界がすべてであり、この外の世界は目に見えてはいるも、ただ別の世界でしかないのだ。自分があちら側の世界に踏み入ることはないだろうということも、聡明な彼はよくわかっていた。




 だが、彼はそれを不幸と思ったことはない。そもそもの話、彼には幸福も不幸もわからないのだ。ただ、息をして冷たい石の柵から向こう側の世界を見つめているだけ。何も考えず、寝て起きてそして寝る。彼はそれが当たり前であり、それ以上もそれ以下も望んだことはなかった。それ以外の不幸も、幸せも彼は知らずに生きていたのだから。




 そんな彼のことを近くの村に住んでいるらしい人間という生き物たちが、「鬼」と呼んでいることを彼は知った。かつて村を滅ぼした鬼の末裔であり、彼が物心ついたときにはすでに一人、この牢へ閉じ込められていて、死ぬまでそこから出されることはない、ということも知った。




 それを知ったのは、もはやわけもわからずここに閉じ込められた彼が、その理由を探ることすら諦めた頃。




 一人の少女がここへ来たのだ。




 小紅というその少女は、ちいさな明かりを携えてこの洞窟の奥、彼の元までたどり着いた。どうやら父の書斎で見つけた謎めいた地図と道しるべに沿って来たそうだ。石牢の中の彼を見つけるなり、小紅は少し身を縮こませながら口早にそう告げた。彼にはその少女の言わんとすることが良く理解できなかったが、彼女にとって自分が恐ろしいものに見えているのだろうということは雰囲気で分かった。その分、彼自身も初めて見る自分以外の存在に、長年寄り添ってきた氷のような冷えた石壁に身を寄せて、なるべく距離を取る。




「あなた、鬼ね……」


「お、に……?」


「ええ……石牢に封印された鬼の子の話はよく父に聞かされていたけど、本当に存在していたのね。かわいそうだわ……」




 憐れみを携えた少女の目を揺れる橙の光が照らす。




「あ、う……う゛……」


「言葉もわからないのね。いいわ、わたしが教えてあげる」




 そういって、少女が目の前で笑う。何もかもが初めてだった彼は、その少女の笑顔に心を奪われた。




 それからというものの、時間を見つけては小紅が彼の下に寄り付くようになった。小紅は最初に文字を教え、言葉を、文章を、数字を、数え方を彼に教えた。もともと飲み込みが良かったのか、小紅の教え方がうまいこともあってか、大地に水がしみこんでいくように彼は教えられたことを自分のものにしていった。




 それから数か月後には彼は、小紅が人間であること、自分は人間ではなく鬼という生き物であること、鬼は人間を食べてしまうこと、過去に自分の部族が人間を襲い食らったこと、生き残りの赤子だった彼が二度と人間を襲うことのないようここに閉じ込められていることを理解した。




 それでも彼は自分を不幸だとも、幸福だとも思わなかった。ただ少し残念だと感じたのは、小紅と話すことに多少の不便さを感じることだけ。そんな彼を小紅はまた、「かわいそうだ」と言った。




 不思議なことに、小紅は鬼である彼を怖がることはしなかった。文字や言葉、数を教えてくれた小紅は次に外の世界を教えてくれた。くるくると表情を変えて、鳥の口ずさむ歌声や、風とともに踊る草木、頭上に広がる大きな青い空、そしてそこを泳ぐ雲の話をたんとしてくれた。彼女の歌う幼さの残る声が彼の心を満たし、無邪気に笑う笑顔が安堵感をもたらしてくれた。生き生きと話す彼女に彼は初めて、楽しいという感情を覚えた。そう、この気持ちが楽しい気持ちなのだ、と。




 そしてその感情は楽しいを飛び越え、残酷な感情へと変化した。




 彼は、小紅に恋をしてしまったのだ。




 小紅は一冊の本を彼に読み聞かせた。幸せを願う男女の恋の物語だ。その男が抱く感情は、いま彼が小紅に抱いている感情と全く同じものだった。




 だが、さすがの彼もその感情が許されないものだということは何となく理解していた。彼は仮にも鬼であり、人間を食べる生き物だ。そして小紅は人間。彼にとっては本来、彼女はただの餌でしかない。




「小紅、」


「なぁに」


「君は僕が怖くないのか」


「いいえ、怖くないわ」


「君の話によると、鬼は人間を食べてしまうそうだ。僕が君のことを食べてしまうかもしれないよ」


「あなたはそんなことしないわ、そうでしょう」




 だって優しいもの、人間みたいに。そう言った小紅の笑顔が彼の心を癒し、そして満たしてくれた。その笑顔を守るならば何でもしよう。そう思えるような、そんな笑顔。決して手を伸ばして触れることもしない、遠く離れた許されない恋心だったが、それ以外を知らない彼からすれば、それは最も穢してはならない透明なガラス細工のようだ。




 彼はその時初めて強い感情を抱いた。


 


 人間になりたい、と。




 だが、そんな会話をしてしばらく。小紅は姿を見せなくなった。彼の中でいつかくるとわかっていた別れも、唐突すぎて感情が追いつかない。もともと出会ってはならない運命だったのだ。たまたま、何かのいたずらで出会っただけで、そこになんの未来もない。彼はただ暗闇のなか、鬼である自分の運命を呪い、静かに泣いた。




 小紅がいつか教えてくれていた、寂しくて悲しいという感情はこのことだったのだと、彼は知った。




 




 幾月か経った頃。小紅が来なくなってから日にちを数えていた彼が、もう会えないのだとあきらめかけていたその時、あわただしい息遣いと足音をたてて小紅が石牢へと駆け寄ってきた。




「ずっとこれなくてごめんなさい。家に閉じ込められていたの……」


「小紅、会いたかったよ」


「ええ……でもわたしお別れを、言いに来たの……」




 石牢にしがみつくとそのままずるずる座り込む小紅に駆け寄る。青白い顔で息を切らしながら彼を見上げたその姿に言葉を失って見つめ返した。美しい着物に身を包んだ彼女は唇に紅をさし、頬にも薄紅をはたいている。少し乱れ、垂れた前髪を白く細い指で結い戻すしぐさに、彼は見惚れて声を失った。




 世界一美しいと、外の世界をたとえ知ったとしても今思ったこの気持ちは変わらないのだろう、と現状に不釣り合いな感情に呑まれる。




「小紅、どうした」


「……わたし、結婚するの。大嫌いな人と、父様の命令よ。あんな男と結婚するくらいなら、死んだ方がましだわ……」


「小紅……」


「もうここへは来れない……。でも、最後にあなたに贈り物があるの。わたしの姿が見えなくなってからゆっくり三十数えてちょうだい。そしたら、ここを出るの。洞窟の前に小石を置いてきたから、それを辿ってわたしの所へ来て、いいわね」




 がちゃん、と重みのある音が洞窟内に響く。その瞬間彼と彼女の世界を阻んでいた石牢が開き、世界が繋がる。何もかもが突然で信じられなかった。長く閉ざされていた世界が少女の手でいとも簡単に開いたのだ。手を縛り付けていた鎖でさえも、彼女の指先の動きには文句を言わずに彼から離れてしまった。




「あなたに、自由をあげるわ」




 言葉を失った彼が彼女に触れる前に小紅が立ち上がって念を押すように、「いいわね。三十数えるの、待ってるわ」と告げ、足早に道を駆けていく。彼女が、自分を選んでくれたのだと、彼は歓喜した心でゆっくりと三十数える。小紅が教えてくれた数の数え方をなぞるように、心の中でゆっくりと。ようやく数え終わった彼は立ち上がると、ゆっくり石牢の扉に手をかけた。




 喉が異様に渇き、からからに張り付いている。あまり立ち上がることに慣れていない足はケタケタ笑っているかのように大きく震えていたが、それでも賢明に体を支えようと踏ん張っていた。大きく深呼吸を繰り返し、足を石牢の外へと伸ばす。触れた地面はいつもと変わらないはずなのに、彼はひどく興奮して震えた息を吐きだした。




 はだしの足に刺さる小石の痛みも、地の感触も石牢の中となんら変わらないはずなのに、彼の視界を遮る石の柵がないだけで、心が、肺が今までと違う空気で満たされた。ゆっくり、よろよろと不安定なまま慣れない大地を踏みしめて歩く。光の差す方向へ歩いていくと、光に目がやられてぎゅっと強く閉じる。




 日が落ちた薄闇に包まれた中で、彼はそっと目を開けた。見上げれば、薄紫に染まった空を白と薄紫のまだらに色づいた雲が流れている。吹き付けた風は、彼に初めて木々の香りと花たちの匂いを届け、風の心地よさを教えた。




 これが、小紅の教えてくれていた世界なのだ。なんて美しいのだろう。




 しばらく、決して知ることすらできないと思っていた自然に浸っていたが、コツンと足に当たった小石を目にした途端に彼は取り憑かれたように小石を辿って林の中を進んでいく。その小石はどこかの建物の中に続いており、彼はおずおずとその塀の中を覗き見た。




 中には先ほどと同じ着物に身を包んだ小紅が背を向けて立っている。その周りには何か大きなものが点々と落ちていた。辺りはぞっとするほど静かで、そして鼻をつく嫌な臭いが立ち込めている。初めて嗅いだこの臭いがなんなのか、彼は知っていた。彼の血を滾らせる臭い、彼の心を人から鬼へ変えてしまう臭いだ。鬼に理性を喰われないようにぐっと手を握りしめて、静かに小紅へと近づいて愛しいその人の名を呼んだ。




「小紅」


「来てくれたのね、ありがとう」




 振り返った小紅を見た瞬間、ぎょっとして後ずさる。手に血みどろの刀を握りしめて、美しい着物をどす黒い赤色で染めている。この血の臭いの正体を知った瞬間、小紅しか見えていなかった世界が裂けるように広がった。




 小紅の周りに点々と広がる死体死体死体。全て死体だった。あれが死んでいるということは彼にもわかる。真っ赤な返り血を浴びた彼女はさも幸せそうに、そして満足気に笑顔を浮かべていた。




「小紅……君は……」


「会いたかったわ」




 ふらりと倒れこむように抱きついて来た彼女の体を抱きとめる。べったりと肌や申し訳程度のぼろ布の服に血が染み付き、まるで返り血を浴びた彼女を映すように彼の体は血で穢れた。鼻を突く血の匂いに頭痛がする。頭の中が徐々に鬼である認識に食われていく感覚を彼は感じていた。どうあがいても彼はしょせん鬼なのだ。心を通わせたところで、彼の中に潜む鬼は血の匂いを嗅いだだけで目を光らせる。




「どうして……君が、やったのか」


「……だって仕方ないじゃない。したくもない人と結婚して……こんなブタみたいな人と。でも、死んでしまえば好都合。全てこの土地はわたしのものよ!」




 狂気に満ちた顔で笑う小紅の姿はまさに鬼のそれだった。鬼である彼がたじろぐほどに、小紅は壊れてしまっていた。




「あら、どうして逃げるの?」


「小紅……君は鬼のような顔をしている」


「あはは、なにを言うの。鬼はあなたじゃない。穢れた鬼の一族の末裔め!」




 その一言に愕然とする。両手でぶん、と投げられた刀を掴み、呆然と小紅を見つめた。


 悲しかった。初めて自分が不幸だと思った。鬼でなければこんなことにはならなかった。だが、鬼でなければ彼女には出会えなかった。彼は初めて自分の運命を憎み、呪い、そして憐れんだ。




「あなたはここで、死ぬの」




 歪んだ笑みを唇に浮かべ、そのまま大きく息を吸う。小紅の口から悲鳴が上がった。まるで、鬼に襲われたかのような悲鳴が。




 その声を聞きつけ、やって来た大人たちへ小紅が泣きながらすがりつき、彼を指差す。




「鬼が! 鬼が旦那様を!」




 小紅の一言で彼を見て恐怖に引きつらせた表情を憎しみに変えた大人たちが叫んだ。




「鬼だ! 鬼を殺せ!」


「殺せ!!」




 そこで初めて彼は知った。鬼である自分に小紅が優しく接していたわけも、そして今日石牢を開けた意味も、彼をここに誘導した理由も、何もかも全てを悟り、そして彼は笑った。微笑んだ。愛しいその人の名を声を出さずに呼んだ。そして許されない感情を初めて口にした。




「     」




 小紅を庇うように抱きしめる大人に隠れるようにしながら彼女は彼を見つめていた。あぁ、愛する人が見てくれている。愛する人が自分の死を望んでいる。血の匂いに沸き立つ彼の中の鬼を押さえつけながら、体を貫く刀を受け止めた。体を食いちぎられるような痛みに支配される。これが痛みだ、小紅の教えてくれた。最後に彼女に教えてもらった感情を理解すると、命尽きる最期まで彼は抵抗せず、そして微笑みを絶やさずにいた。




 彼を静かに見つめる彼女の目にきらりと光るものが見えた。あれが彼女が教えてくれていた宝石というものなのだろうか。彼女が世界一美しい石だと言っていたが、やはり彼女自身には見劣りするな、と彼はぼんやり思った。




 目に空が映った。彼女が教えてくれたように、薄紫の空はまた時の流れを見せつけるように藍色に変化していた。この世界は彼女の教えてくれたものであふれている。そんな世界の一部になれるならばこれほど幸せなことはないだろう。




 これが幸せなんだ。さようなら、小紅。ありがとう。




「さようなら」




 最後に抱いた感情は彼女に届くことはなく、最後に彼女が呟いた言葉も彼には届かなかった。

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