テトラポットに溺れる

「またそこにいたの」


 ふと声がして、香澄はテトラポットの隙間から顔を上げた。塀の向こう側に同級生の葵が立って香澄をのぞき込んでいる。


 太陽の光が照らしだす葵はつややかな黒髪をなびかせて、切れ長で筋の通った目で香澄をしっかりととらえている。その視線に、きゅっと胸が縛られ、香澄も丸っこい目で葵を見つめ返した。


(ああ……その目……。好き、だなあ……)


 香澄はしゃがんでいた身体を起こしては、軽やかにテトラポットの上を跳ねながら塀まで戻る。そして塀に手をかけながら葵をのぞき込むようにして、香澄は好奇心に輝いた目で見つめた。


「魚がね、たくさんいるんだもの!」

「そんなもの、珍しくもなんともないでしょう」

「そんなことないよ、私にはすごく不思議なんだよ! だってあっちにはなかったんだもん」

「あっちって、引っ越してきたのもう半年も前じゃない」


 葵のいじわる、と拗ねたふりをしながらも、差し延ばされた手につかまって塀をよじ登る。葵の言う通り、半年も前にやってきては毎日のように上り下りしているのだ。この塀にも慣れたものだった。本当は葵の手など、借りる必要なんてないのだ。それでも、ただ触れたい。そのきっかけの一つでいい。


「それで、どうしてきてくれたの」

「おばさんが探してたわ、帰りが遅いって心配してる」

「ママが……そっかー」


 歯切れの悪い香澄の言葉に、葵が何か言いたげに口を薄く開く。塀に座り、海を見つめながらも横目でその唇を見ながら、香澄は紡がれる言葉を待った。


 だが、葵の口からはなにも出てこなかった。少し残念に思いながらも、きゅっと結ばれた口元へ目を向けた。彼女は、何も言えない。それは香澄にもよくわかっている。どれだけ仲が良くても、他人の家庭のことに口は出せないのだ。

 それでも香澄にとってはこうして葵が気にかけてくれる、それだけで心が救われていた。突然やってきたよそ者を受け入れてくれたのは、この村で葵だけだったのだから。だからこそ、香澄は葵に深い愛情を持っていたし、絶対の信頼を置いていた。


 その思いが果たして友情なのか、恋なのか、それとも依存なのか、今の香澄にはわかりはしなかったが、葵が何よりも誰よりも大切である事実は確かなものだ。だからこそ、彼女を困らせるわけにはいかない。


「わかった、帰る。ママに頼まれたんでしょ、いつもごめんね。葵に迷惑かけるつもりは、ほんとにないんだけど……」


 よっ、と小さな声で気合を入れて立ち上がる。その辺に放っておいたスクールバッグを乱雑に拾い上げると、にっと香澄は笑顔を浮かべた。


「じゃ、また明日ねー」

「香澄!」


 数歩歩いたところでかかる声。その声のあとに続く言葉は何となく察することはできる。


(一人で大丈夫?)


「一人で大丈夫?」


(やっぱり……)

「大丈夫。葵は優しいね」

(世の中は残酷だけど……)


 心でかみ殺した言葉を呑み込んで、いつものように答える。葵のまだ不安の残る顔に気付かないふりをして香澄は帰路へとついた。


 もう高校3年。数か月すれば受験があり、そしてこの村を離れる。葵とともに。そう約束したから今の自分がいるのだ。


 自分の生きている世界は、まるでテトラポットの海で生きる魚のようだ。狭い狭い隙間に押し込められ、自分を陰に隠しながら生きる。そこに差す光は、まぶしくて、眩すぎてくらくらする。まるで葵のようだ。


(葵がいれば大丈夫。葵といれば大丈夫)


 そう言い聞かせて、香澄は自分のテトラポットの海へと帰った。


「遅い! 葵ちゃんに迷惑かけんじゃない。さっさとしな!」


 帰った瞬間飛んでくる怒声。香澄は返答することもなく無言で、カバンを放り投げると、台所へと立った。黙ってご飯を作っている間にも、背後からは自分の母親と、その母親に寄生している男の声がする。吐き気がするような世界の中でも、自分を見失わずにいられるのは、葵とともに生きたいと思ったからだ。葵と交わした、約束。


『この街を出よう、私がついていく。香澄と一緒に、生きるよ』


(そう、あと少し……この地獄からは出られる)


 それだけが唯一の希望だった。母親の浮気が原因で離婚してからもう数年。前の父親とは連絡が取れず、母親は新しい男はとっかえひっかえで、家のことはすべて香澄に任せっきりだ。唯一の救いが弟や妹がいないことだろう。守るべきものがいれば、その分辛いことが増える。


 葵が、香澄に約束してくれた、この村を出る。そこで二人で暮らす、という夢を現実にする。それが心の支えになっていた。そのためにはどんなことも耐える。勉強もやる、言われたこともやる、買い物も家事も当然すべて香澄がするのだ。たとえ、近くの店に徒歩で2時間かかったとしても……冷たい水で手がボロボロになっても、料理がまずいと自分のご飯を捨てられても、今を耐えれば未来は明るい。もう数年と耐えてきたのだ、今更数か月くらいなんともない。


 とんとん、と大根を切る音と、母親の聞きたくもない甘い声。

 今日は大根とイカの煮物にしよう、確かイカは冷凍してあったはず、と香澄が冷凍庫を開けた瞬間、声が飛んできた。


「そういやあんた、卒業したらどうすんの」

「……別に……」

「そうねえ、あんたはずっとここでアタシらのために働くんだ。育ててやってんだからそのくらいの恩は返してもらわなきゃねえ」


 喉までせりあがる怒りと、暴言の数々は呑み込んだ。今ここで吐いてしまうと、またひどい目にあわされる。下品な笑い声が家の中に響く。劣悪な環境に、香澄はただ黙って耐えるしかなかった。


「そういえば、葵ちゃんって父子家庭だったかしら?」

「……っ、なんでそこに葵が出てくるの! 関係ないじゃない!」


 叫んでからしまった、と思った。

 そして思った時にはもうすでに、男の拳が香澄の腹を打った。一瞬暗転する意識、気付けば目の前は台所から天井に変わっていた。


「もういいよ、大輝。ご飯作ってもらうのに、血が混じったら食べられないでしょ」


 こみ上げる吐き気と、痛みをこらえながら、香澄が床にうずくまる。その髪を雑に掴んだ母親がにっこりと笑った。


「逃がさないよ、どこにも。あんたは死ぬまで、アタシらの奴隷なんだから。諦めな?」


 含んだようなその言葉が耳にしつこくまとわりつくも、香澄は葵とこの街を出るんだ、という気持ちで必死に自分を保った。


(あと少し、もう少し……)


 この地獄を出られるまで、もう少し。

 香澄の中には希望の光が差しつつあった。


 翌日、またいつものようにテトラポットの上に立つ。魚は、狭い世界でも優雅に泳ぎ回っている。その世界自体は隙間にあるような小さな世界であるはずなのに、どうして彼らはあんなにも優雅で、自由に見えるのだろう。


「香澄」

「葵! どうしたの」


 今日は少し顔色が悪いように思える。痩せて身軽な香澄は葵の手を借りることもなく、塀の上へと戻ると葵の顔をのぞき込んだ。

 目が合うと、昨日の痣や傷に葵の顔がきゅっと歪んだ。


「どうしたの? ママが呼んでる?」

「違うの……私、香澄とは行けない。この村に残るわ」

「え……どう、して……」


 それは事実上の死刑宣告のようなものだった。この地獄に私も残れというのか、それとも葵のいない世界で怯えて暮らせというのか。


「何かあったの?」

「ごめん……その、お父さんが……」


 それ以上は言葉にしなくてもわかった。父子家庭である葵のお父さんに何かあったとしたら、それはもう香澄より優先してしかるべきなのだ。半年の友より、血のつながった父親。葵のお父さんはとても優しく、お人好しで、人を疑わない。


(ああ……きっと、あの女だ。あの女が、葵のお父さんに……)

「何かされた? 私の、お母さんに……」

「違う! ただ、その……どうしてそうなったのかわからないんだけど、お父さんあんたのお母さんにお金、借りてたみたいで……」

(何にも違わない……最悪だ……)


 どこまでも香澄を縛り付けたい母親。愛情もなく、ただ奴隷としたいだけのために、そばに置いておくのだ。そのためにはどんなこともするし、誰だって利用する。


 香澄の心には暗い影が落ちた。ああ、どう足掻いても駄目なんだ、と。生きてる限り、誰かに迷惑をかけるか、ずっとあの地獄に耐え続けるしか道がないんだと。


 テトラポットの魚たちも、おいしいエサがあれば食いつく。そうして人間に釣り上げられてしまうのだ。

 同じだ。狭い世界で、光を見つめて、足掻いて泳いで、そして最後には息のできないところで溺れて死んでいく。

 最初から、この世のどこにも希望などなかったのだ。


「香澄」

「なあに?」


 にっと、いつもの笑み。


「私を……赦してね」


 許すもなにも、葵は何も悪くない。もともとすべてが悪いのは香澄の家庭環境で、葵はむしろ自ら巻き込まれてくれたのすぎないのだ。こんなにも香澄のことを思い、大事にして、必死に寄り添ってくれた人はいない。だからこそ香澄は葵を愛したのだ。


(そうか……私、葵のことを誰よりも愛していたんだ。愛している人を傷つけて、苦しめて、私の人生に雁字搦めにした……)


 香澄は何も答えることなく、そのまま塀を乗り越えた。飛び立った。肩にかけていたスクールバッグも放り投げ、制止する葵も振り切って、高く高く飛んだ。


 目の奥に焼かれそうなほど光が差し込んだが、それでも香澄は目を見開いた。テトラポットが迫る。最後に見えたのは、隙間世界で優雅に生きる小さな魚。


 彼女が望んだ小さな幸せだった。



(どうか、私を忘れないで)

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