短編いろいろ

中村

深海少女

「深海って息できると思う?」

「は?」


 唐突の質問に、僕はスマホから顔を上げた。くりっとした大きい目が僕を捉えている。


「出来るわけなくね? つか、人間が行くとこじゃねーし」

「そう? 私は行ってみたいよ、深海」


 くすくす、と笑いながら「ほら」と手に持っていたスマホを見せてくる。深海の生物がまとめられたページをスライドしながら、彼女は生き生きと目を輝かせてしきりに深海について説明していた。


「深海の生き物たちは、光が届かない中でも生きていける。何も見えなくても感じることが出来て、食べるものが少なくても工夫をして命を繋いでる。私たちが生きてるこの下には無限の世界が広がってるのよ!」

「はいはい」

「ちゃんと聞きなさいよ! まったく、スマホゲームばっかりして、つまんない人生だよ!」

「お前が僕の人生を決めるなって」


 こんな会話をしていても、僕らは幼なじみでも恋人でもなんでもない。ただ偶然隣人になっただけだ。しかもこの夏から。


 外では蝉が鳴いていて、歪む景色が暑さの程を物語っている。海に行けば人はたくさんいるだろうが、とてもそんな気分にはなれない。人混みは苦手だ。


「海に行きたいなら、行きたいって言えばいいんじゃね」

「海に行きたいんじゃないの、深海に行きたいの!」

「いやそれは無理だから」


 ぶすっと膨れながらも、彼女は天井を見上げた。


「それに夏は海に行ってはいけないのよ」

「……? なんで?」

「お盆になると魂が帰ってくるの、波に乗って。その魂に連れて行かれるんだって」

「縁起でもねーこと言うな」

「きっとその魂は深海の魚たちに宿ってるんだわ。だって深海の魚たちの多くは自ら発光するのよ? きっとその光は魂なんだろうなーって私は思うの」

「僕はそれより、夜空の星が魂って例えの方が好きだけど。深海の生き物にはもう魂があるだろ。死んだ人の魂が宿る器なんてない」

「うーん……それじゃもし死んだら私は深海、君は宇宙に別れちゃうわね」

「はいはい」


 どうでもいいことを真剣に悩み、うんうん唸っている隣人を無視しつつ、またスマホゲームへと戻る。ランキングにこのまま居続けるには秒も集中を欠かすことは出来ない。


 僕が集中してるからか、それとも聞いていないから諦めたのか、彼女の声は波のように引いて、消えていった。


 そうして一日がまた無駄に過ぎていく。

 時間をこんなふうに贅沢に使えるのは今だけだ。その時間をスマホゲームのランキングに費やすことは彼女にとっては有意義ではない、らしい。

 僕からしたら行けもしない深海のことを妄想してる時間も有意義とは言えないけど、それを言うとまたムスッとするから口には出さない。


 陽が沈みかけた頃、唐突にドアが開いて彼女の母親が入ってきた。黙ってスマホを弄っていた僕もさすがにペコッと頭を下げる。


「ゆか、帰るわよ。燈馬くん、ゆかの話し相手ありがとう」

「いえ、僕も話し相手になってもらっているので……」


 ぎこちなく彼女の母親と挨拶を交わしている間に、彼女は自分の持ってきた荷物を手に取る。

 そしてベッドから飛び降りると、へらっと僕に笑いかけた。


「じゃあね、燈馬!」

「ん」


 軽く手を振れば、彼女は母親とともに部屋から出ていった。外で僕の母と挨拶を交わしている声がし、そのあとには蝉の鳴き声だけが残った。





 夏が過ぎ、秋になった頃、僕の母親が神妙な顔で部屋に来た。その顔を見て僕は悟る。


「燈馬、ゆかちゃんが……」

「うん。まあ、そうだと思ったよ」


 すすり泣く母親を横目に、僕は天井を見つめた。

 全身に繋がれたチューブと、日に日に痛む体。力の入らない手足。


 病室で隣合わせになり、ひと夏をすごし、そのまま彼女はいなくなった。

 明るく、深海のような暗闇に無縁の彼女だからこそ、きっと僕の母親の印象にも強く残った。今母親は亡くなった彼女と僕を重ねたんだろう……溢れる涙がじわりと僕の服へ染み込んだ。


「ゆかは、深海にたどり着いたかな」

「え……?」

「死んだ人間は海に帰る。そして深海の生き物になるんだってさ。僕は星になる方がいいって言ったけど、ゆかは深海に行きたいって……」

「そうね……きっとゆかちゃんは深海にいるわね。……あなたも、気をつけていくのよ」


 母親が笑いながら僕の髪を撫でる。その温かさと優しさを感じながら僕はゆっくり目を閉じた。


 ゆらゆらと、意識は落ちていく。深く深く、光の当たらない世界へ。

 その世界にぽつりと灯った光が僕に語り掛ける。


『ね? 私が言った通り。魂は深海の生き物に宿るの』



「そう、だな……」


 夏になったら一緒に行こう。暗い深海から波に乗って、地上まで。

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