4月3日③ フィスさんの塔

 ざっと日記をつけて、ふと目を上げる。


 先生、遅いな。


 ゆっくり湯船に浸かっているのだろうか。そういう習慣がこっちの世界にもあればだけど。


 頭が整理されると体の疲れも和らいだ。

 俺は立ち上がって、室内を見て回ることにした。好奇心に負けたのだ。

 柔らかい革の靴が足音を消してくれる。探しにはもってこいだ。


 一体この塔が何階建てで、今どの階にいるのかもわからないので、いったん俺のいる場所を仮称一階とすると、ここはリビングダイニングと呼んで差し障りないだろう。


 家具は簡素なテーブルと椅子だけ。一人で食事するならちょうどよさそうだ。

 梁には、紐で植物が吊るされて並んでいる。薬草を乾燥させているのだろうか。


 小さな暖炉に、お似合いな小さな鍋がかかっていて、覗くと何かのスープが細い湯気を出していた。ポーチェさんが用意してくれたに違いない。直火でもないし焦げる心配はなさそうだったので、放っておいて次へ。


 螺旋階段を覗き込む。先生が「風呂」と言って降りていった地下の方からは、まったく物音が聞こえない。


 先生、大丈夫かな。


 俺はそーっと二階へ上がった。

 薄暗い部屋が待っていた。


 目を凝らすと、壁が本棚になった吹き抜けの部屋だとわかった。三階部分は回廊になっていて、本棚にくっついている梯子で上がるようだ。

 梯子は四階まで伸びていた。その上は寝室かもしれない。天井に四角く開いた穴の先は真っ暗だった。


 もう一度本棚に目を戻すと、ところどころ絵が飾ってあったり、動物の置物が置いてあったり、なんだかおしゃれに調度品もならんでいた。

 よく見れば、小さな窓もあった。外は一面暗い霧なので、意味をなしていない気がするが。


 さらに目が慣れてくると、部屋の真ん中に立派な机が見えた。書き物をするためのものだろう。ペンやノートが整然と並んでいる。赤っぽい布が張られた椅子も揃いの品のようで、豪華なアンティーク調。


 そうやって何もかもが整えられているというのに、床は悲惨だった。あちこちに本の山があって、梯子までの獣道ができている。


 この時はフィスさんっぽいなと思ったのだが、これを書いている今は違う。

 だって、フィスさんと俺は、まだ出会って何日も経っていない。彼の何を知っているというのだろう。


 最初は怖いと思っていたニャイテャッチの村が今は恋しいのと同じだ。そう簡単に相手を知った気になってはいけない。


 愚かな冒険を切り上げたのは、本格的に先生が心配になったからだ。

 まさか溺れたり、寝込んでしまったりしてないか。


「先生?」


 声をかけながら、壁に沿ってカーブする階段をゆっくり降りる。


 壁から顔を覗かせると、普通の板張りの部屋に大きな猫足のバスタブがあった。これ、日本人が理解に苦しむやつだと思う。室内は湿気ってるし、家が腐らないのか?


 とにかく、肝心のフィスさんはバスタブから手足を投げ出し、縁に頭を預けて、ぼーっと天井を見上げていた。ゆるくお団子にした髪の毛から雫が垂れる。


 ……よし、死んではいないようだ。


「先生」


 もう一度呼ぶと、彼はのんびりこっちに首を巡らせた。


「おお、サトー。どうした」

「全然戻ってこないから心配したんですよ」

「頭を整理していた」

「そーですか。まだ入ってるおつもりで?」

「お前も入るか?」


 一緒に風呂に入るように誘われたのかと思って身震いした。そんなの絶対お断りだ。


「あなたが出たら、体を洗いたいです」

「そうか」

と言って、先生は、またもや何を気にすることなく立ち上がった。


 裸の自覚を持ってくれ!


 階段を駆け上がる俺を追うようにして、ガウン姿の先生が一階に現れた。

 ガウンから覗く先生の腕や脚は思った以上に太かった。そして羨ましいほど胸筋がある。初日に俺を軽々抱え上げたのは魔法ではなかったようだ。


「ニャパンの風呂とは雰囲気が違ったか?」

「そうですね、だいぶ違います」

「なら使い方を教えよう」


 改めて風呂場へ降りると、さっきの湿気はどこにもなかった。窓は大きいが閉まっているし、どうやって乾燥させたんだろう。


 部屋にあるのは猫足のバスタブと洗面器が設置された小さな台(まさに洗面台)、タオル類が収納された扉のない棚。それから、観葉植物。


 ぐるりと見回した最後に、すぐ隣の大きな植木鉢の足元で何かが動いた。


「わあっ」

「なんだ!? ……ああ、ホメロトスか」


 俺の悲鳴に飛び上がった先生が、謎の言葉を発した。

 二メートルほどの植物の影に隠れていたのは、青黒いオオサンショウウオのような生物……。


「先生? こいつは……?」

「ホメロトスだ。その様子では初めて見るな。ホメロトスは汚れた水を飲んで体内で浄化してくれる生き物だ。水が豊富な場所であればどのような環境にも適応するのでここでは一人一匹世話している。新鮮な水が必要だからな」


 叫んでしまった気恥ずかしさは、新たな疑問と共に消えていった。


「浄化した水を……どうやって提供してくれるんですか……」

「もちろんいたって正常な排泄行為でだ」

「トカゲのおしっこで体を洗うんですか!」

「浄化された水だ」


 だめだ。話が通じない。


「お風呂『パス』していいですか……」

「ぱす?」

「入りたくないです」

「王の前に薄汚れた姿で出るのはよくないだろう」

「ああああ」


 頭を抱える俺の目の前を横切るオオサンショウウオは、部屋中の水分を体内に蓄えて丸くなっている。

 そいつがごく自然な動作でバスタブに入ると、あっという間に浴槽は満水になった。


 再び這い出てきた彼(彼女?)は非常に満足げな表情で、すっかりスリムになって、また観葉植物の脇まで戻ると、すやすやと眠りはじめた。


「入れたてがあたたかい」

「でしょうね!」


 こうなりゃヤケだ。

 この世界流の入浴、してやろうじゃないか!


「そこのタワシと石鹸と、拭くのにはこのタオルを使いなさい。ああ、そうだ。着替えを持ってこさせよう」


 そう言って、先生は階上へ。

 俺はホメロトスと二人きり。

 仕方なく服を脱いで、お湯をすくって体をさする。


 しかしこのお湯が大変気持ちのいい温度と滑らかさで、我慢できず結局肩まで浸かってしまった。日本人のさがだ。お湯があったら浸かるしかない。


 自分の体が女性になっていることにももはや違和感がない。トカゲの尿風呂に浸かって夢心地なんだから、これ以上怖いものはない。


 いや、あった。

 先生が戻ってきたのだ。


「服があったぞ」

「ちょ! 覗かないでください!」


 怖いもの。

 フィスさんの無神経だ。


 反射的にバスタブの中で縮こまる俺をしげしげ眺めて、やっと思い至ったようだ。


「そうか! すっかり女の感覚なのだな。それは悪いことをした。なら私も女に戻ろう」

戻してください!」


 片手で胸を抑えて、もう片方の手でそばにあったタオルを投げつけると、先生は着替えを置いて退散してくれた。


 まったく。

 本当に。

 あの人は。


 ……「私も女に」って言った?

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