4月3日② 黒山羊さんと知識の塔
森の入り口まで見送ってもらうと、そこから先は目まぐるしかった。
まず、彼らの姿がすっかり見えなくなるほど先へ進んだところで、急にフィスさんが服を脱ぎ始めた。
「せ、先生!?」
俺は慌てて背を向けた。
先生は俺の戸惑いなど意に介さず捲し立てる。
「時間がない。荷物を全部持って背に乗れ。急ぐんだぞ」
「背?」
誰の背だよと振り返ったら、そこにはいつの間にか大きくて黒い山羊のような四つ足の動物がいた。そして先生はいない。
長い尻尾と、体と同じくらいありそうな二本の角が銀色をしている。
ということは、これ、先生か?
黒山羊先生の足元には、さっきまで先生が身につけていた服が落ちていて、山羊は角を使ってそれを器用に自分の背に乗せた。すると服は鞍に変わり、俺が乗るのを待っている。
ぼんやりしている場合ではない。俺は山羊に怒られないためにも、急いで地面の荷物をかき集め、その背に飛び乗った。
「しっかり掴まっていなさい」
と、山羊が喋った。
その声は、男性の時とも女性の時とも違う。
しかし走り出した山羊の、揺れること揺れること。
こっちは必死で鞍の取手にしがみついて荷物まで背負ってるというのに、お構いなしに崖を飛び降りたりする。
岩から岩へ、軽々と。落下するかのごとく、黒山羊先生は駆け降りる。
鞍にはあぶみがついていたので、なんとか踏ん張って耐えられたが、これがなかったら落馬ならぬ落山羊で命はなかっただろう。
もう少し気の利いたルートは選べないのか。とにかく先生が急いでいることは理解できたが。
揺さぶられる脳が、今朝の手紙を思い出していた。
あそこに、何が書かれていたのだろう。
ええい。
もう、やけくそだ。
俺は意を決して、山羊の上で腰を浮かした。
まるで競馬のジョッキーのように、黒山羊先生の胴を腿で挟むと、ぐっと前傾姿勢になる。
両脇に荷物を挟みながら短いたてがみをしっかり掴み、右へ左へと木々を掻い潜る先生の動きに合わせて、自ら体重を移動させる。
守りよりも攻めの姿勢が、俺をいくらか楽にしてくれた。
要領を得ると、先生が光の射す方へぐんぐん走っていくのがわかった。
「木々の終わりということは、また飛び降りるんだな」と、俺は覚悟を決めて、より一層踏ん張る。
だが。
先生はスピードを上げるや、一気に空中へと飛び出したのだ。
崖を下るどころじゃない。
ほとんど自殺だ。
ぎゅっと目をつぶった俺に、あの時の恐怖がフラッシュバックする。
全身から力が抜ける。
危うく、本当に空中で、ふわりと山羊から体が離れていくところだった。
ところが、そんな事態になるよりも早く、蹄が石を蹴る音がしたのだ。
恐る恐る目を開けると、信じられないことに、俺たちは宙に浮いていた。
足元を確認すると、黒山羊先生が、宙に浮かんだ大きな岩の上に立っていたのだ。
人為的に四角く切り出されたとしか見えない、綺麗な直方体の青白い岩だった。
「先生、これは……」
「迎えだ。間に合ってよかった」
質問に対する答えになっていない。
あとで聞いたが、この岩は『不死の山』でのみ採掘される『
岩は世界の中心、『不死の山』へスピードを上げて上昇していった。真っ黒な『霧』がどんどん近づいてくる。
全身がこわばっていた。
どんどん高度が上がっていく。
足元の森が、草原から砂漠へと続いていく様子が、まるで箱庭のようだと思える頃、前方で雷鳴が響いた。霧の上部で、稲妻が走っている。
その閃光に照らされて、上空に一瞬大きな影が浮かんだ。
「お城……?」
「『知識の塔』だ。『黄金城』まで乗っていく」
ついに俺は、来てしまった。フィスさんの暮らす『知識の塔』。どの国にも属さず、学者たちが集まって霧の上を自由に飛ぶ浮遊城に。
徐々に近づき鮮明になってきたそれは、無数の細長い塔からなる巨大な建造物だった。それらは橋や廊下で互いに繋がって、一つの大きな城のように見えている。
俺たちを運ぶ空飛ぶ岩は、城の中腹にあるボロボロの石橋に吸い寄せられ、欠けていた部分にカチリとはまった。
黒山羊先生が蹄を鳴らして歩き出すと、もうどの石だったのかわからないほど馴染んでいる。
ところで俺は、いつこの背中から降りたらいいのだろう。
橋は蜘蛛の巣のように、無数にそびえる塔を結んでいた。
絶対迷子になる。
先生が向かっているのは、黒い煉瓦タイルで覆われた歪な塔だった。その隣には、旗や布で可愛らしく装飾された、小さな木製の塔が立っている。
塔のデザインに、統一性がないな。
そう思って、あたりを見回そうとした時だ。
「フィス! よかった」
声に視線を戻すと、歪な塔の前に男性が一人立っていた。小さな体を茶色のローブで包んでいる。
「さあ、早く」
と、古臭い真っ黒な木戸を押し開けて手招きする。
ほとんど禿げた頭で、耳の上だけふわふわと赤毛が生えている。酔っ払いみたいに鼻と頬が赤くて、丸い体型と相まって、陽気で気のいい人に見えた。
「戻ったよ」
と、山羊のままの先生。
男は俺を見上げた。
きっと隣に並んでも若干見上げる位置になっただろうけれど、俺は今、立派な黒山羊の上だ。
「彼がサトーか?」
「ああ。そうだ。乗せていたんだ」
どうやって下ろしてくれるのかと思ったが、乗せた時と同様に乱暴で、「降りろ」というように足踏みされただけ。
仕方がないので、自力でなんとかズルズルと地面に足をつけるが、疲れ切った腿は抑制が効かず、そのままへたり込んでしまった。
「おお、大丈夫か、サトー」
と、見知らぬ男が支えてくれる。
どうやら先生は彼と頻繁に情報交換をしていたらしい。俺の素性がどこまで伝わっているのかはわからないが、二人はお構いなしに話し続ける。
「考え事をしていたせいで、すっかりこいつが乗ってるのを忘れていた」
「フィスはいつもそうだ。サトー、気にするなよ。フィスは飯だって忘れるんだ。君が悪いんじゃない。そういう性格なんだ」
俺の無事を確認するや、男は話しながら忙しなく荷物を片付け始めた。
「俺はポーチェ。ここの世話係さ。とにかく風呂でも入ったらどうだ?」
ポーチェさんの言葉は澱みない。そして手はもっと正確だった。荷物は綺麗に壁際へ並べられ。最後に俺のこともひょいと持ち上げて、手近なクッションの上に置いてくれた。小柄なのにすごい力持ちだ。
俺は一歩も動けない。
首だけ巡らせて、とにかく場所を把握しようと試みる。
塔の内部は、それほど広く見えなかった。
歪な円柱形で、六畳くらいだろうか。奥に階段が見えたので、上下に部屋があるのは確かだが、この部屋には暖炉と机と椅子一脚と、それからよくわからない植物が天井からたくさんぶら下がっているだけだった。
「どうせフィスからは何も聞かされてないんだろ? サトー。ここは世捨て人の賢者たちが集まってる『知識の塔』で、これは、フィスの塔だ。みんな自分の塔を持ってる。新入りが来ると橋で繋ぐのさ。それでこんなにでっかくなっちまった。みんな一人が好きだから仕方ない」
ポーチェさんは説明しながら、今度は暖炉の様子を見たり先生の服を拾ったりしている。この人は、いつ口と体を休めるのだろう。
先生は男性の姿に戻っていた。
残念ながら全裸だ。人前で平然と素っ裸になれるなんて、もしかしたら正体は人間じゃなくて山羊なのかもしれない。
「風呂にいってくる」
「はいよ」
先生が階段を降りていく。
ボーチェさんは短く返事をして、俺を振り返った。
「大変だったろう? フィスは特に面倒なやつだ。時々頭がどこかへいっちまうのさ。まあ、ここの連中はみんなそうだがね」
「ポーチェさんは、魔術師なのですか?」
「いや、ただの世話係だよ。楽しいから乗せてもらってるんだ」
世話焼きな人、ということだろうか。
「あんたもあとでお湯をかぶるといい。ひどい汚れだ。だが、その袖は素晴らしいな。地の精霊を連れてこれるなんて、大したやつだよ」
ポーチェさんはなぜか誇らしげに大笑いして、それから部屋をぐるりと見回すと、手を腰に、うんと一つ頷いた。
「俺はもう行くよ。見回りしないとな」
「ありがとうございました」
「うんうん。夜には『黄金城』に着く。そのころまた来るよ」
「はい」
扉まで見送ろうとしたが、疲れ切った足がいうことを聞く前に、彼は出ていってしまった。
動けない。
けれど、今しかない。
俺はノートを取り出して、ひとまずここまでの日記をつけることにした。
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