3月26日② この世界のこと

 落ち込んでいる相手にかける言葉が同じだったからって、勝手にシンパシーを感じてガードを下げてはいけない。


 俺は、メモ帳に何か書き付けているフィス先生の横顔を盗み見た。


 彼が言ったように、俺はずっと不安だった。

 見知らぬ世界に一人で放り出されて、不安じゃないなんてことがあるだろうか。


 俺には今、何もない。


 頼みの綱の先生様とは、意思の疎通がうまく行ってるとは思えない。助けてもらったのは確かだけれど、行き先も告げられずに振り回されている感がある。

 もしかして、彼が俺の衣食住をまかなってくれるのは、彼にとって俺に利用価値があるからか。


 それなら納得がいく。


 少しだけ近く感じた先生を、今は一番遠くに感じる。

 まるでぐんぐん後ろへ流れていく、この荒野の景色のように。


 まぁ、地球で暮らした二十八年の人生だって、何かあるってものじゃなかったけど。


 『東の雑踏の街』から乗った馬車は、隣町で俺たちを降ろすと、ぐるっと大回りして元の道を帰っていった。


 さようなら、可愛い顔したお馬さん。無口な御者さん、そして『東の雑踏の街』の快適な宿屋さん。俺はまた野に放たれた気分だった。


 そこには町のような建物の集合はなく、交差点だった。

 塀も門もなく、店舗兼民家が少しと東西南北に大通りが伸びるだけ。


 砂埃がすごい。

 その中に、馬車の修繕屋と食堂と宿屋が霞んで見えた。一応、番兵の詰め所みたいなものもあった。


 もう一度道に目を向ければ、あくまで通り道に過ぎないという感じで、右に左に馬車が駆け抜けていく。


 ぎょっとしたのは、馬車を引いているのが馬じゃなかったときだ。黒くて大きな、角の生えたトカゲが、のしのしと荷台を引いて走っていた。

 バッファローのようなものに跨った旅人たちもいた。


 これはもう、どうにも言い逃れできない。

 これは、どう考えたって……


「いよいよファンタジーだ……」


 俺は頭を抱えて、思わず口に出した。

 場所は寂れた食堂だった。

 もちろん、有無を言わさず先生に連れてこられた場所だ。


 そして今、その先生は哀れな俺を放置してどこかへ行ってしまった。

「滅多なものが出てくる可能性がある。追加の注文はするなよ」

と、一方的に厳命して。


 俺は薄いスープに岩のようなパンを浸して、なんとかふやかして口に運んでいた。


 誰かがテーブルに近づいてくる。女性のようだ。店員だろうか。追加注文はしないぞ。

 そう思って顔をあげると、思いの外近いところに、銀髪の、ものすごい美女がいた。


「え! どうしたんですか!?」


 俺は思わずここ一番の大声を出していた。

 女性だったからではない。彼女が間違いなく、浜辺で見たあの人だったからだ。


 つまり、フィスさん。

 彼の別の姿だ。


「なにがだ」

「いや、その。なんでもないです……」


 あらめてその姿を確認する。

 長い灰色のウールのローブと、同じ素材のフード。羽織っている緑のマントは、上等な布のようだ。エンボス加工でドラゴンが浮かぶレリーフのついた、立派な黄金のピンブローチで留めている。

 

 身長は少し縮んでいるように思うが、それでも俺より高い。裾を引きずらないのかな、とこっそり足元を見たが、高尚な魔法使いの先生様は服の大きさも自在に操れるようだ。


 彼女は優雅に、対面に腰を下ろした。この薄汚れた食堂には不釣り合いの輝きを放っている。


 もはや別人だ。

 意を決して聞いてみた。


「なんで女性に変身したんですか」


 先生は髭がなくなって見えるようになった、綺麗な形の唇で、逆に聞いてきた。

「お前は、どちらが真の私だと思う?」

「え?」


 今までがのか?


 呆然とする俺の前で、完璧に女性の姿の先生は、落ち着き払った声で講義を始めた。


「さて、人目がなくなったので少し話そう。大きなところから知りたいと言ったな」

「あ、は、はい……。確かにそう言いましたが……」


 今か?

 それは今すべきことなのか?


「我々が大陸と呼んでいるのは、十の国が乗ったこの地面のことだ」


 先生は白くて細い指で机をノックし、その下の地面を指した。

 俺は慌てて例のメモ帳を取り出す。人から何か教わるときはメモを忘れずに。染みついた社畜のムーブだ。


「黄金王は大陸を治めた記念に、その形を模してこれを作らせた」


 先生は、胸のピンブローチに手をやった。


「大陸の中心には不死の山がある。そこには『漆黒竜』が住んでいる。竜の吐いた息が固まってできたのがこの大陸だと言われている。神話だな。ドラゴンの子が十人、王として産み落とされ、それぞれ国を作ったのが始まりと信じられている」


 俺はすべての邪念を振り払うため、ノートに楕円を描いた。その真ん中にさらに丸を描いて「竜」と記す。


 だが、待てよ。

 ちょっと気になる。


「その言い方だと……あなたは信じてないんですか?」

「もはや信じていない者もいるし、いまだに誇りに思っている者もいる。私は半々だ」


 なるほど。


「続けてもいいか?」

と、先生はまっすぐに俺の目を見た。


「『不死の山』の周囲には深い霧がかかり近づくことはできない」

 先生は魔法で取り出した自分の羽ペンで、竜の外側にもう一つ丸を描き、「霧」と記した。


「この霧を囲むように、十の国があった。それぞれに繁栄していたが、領地争いだ謀略だ和平だと揉めた末に、『六夜の国』の王が『黄金王』となり、全てを統治することになった」


 話しながらさっさっ、と大陸に放射線を引いて行き、南西の箱に『六夜』と書いた。これでざっくりとした世界地図ができたというわけだ。


「ふむ」と、フィスさんは顎のあたりで手を動かし、それをひらひらと空中で泳がせた。髭をしごこうとしたな?


「サトー、お前は、奴隷にしては切れるな。人の話を要約する地力もあって、そもそも文字も書ける。お主……、さては……」


 髭なんかに構っている場合ではなかった。

 緊張して二の句が告げない俺に、フィスさんは会心の一撃を加えた。


「さては、高貴な生まれだな。まさか奴隷に身をやつすとは」

「う、ううう! わ、わかりません。頭が痛い! 何も思い出せない!」と、俺は頭を抱えた。「国の……、この国の話をもっと聞かせてください……。それが何かのヒントになるかも」


 美女のフィスさんは咳払いした。


「統治したといっても、それぞれの国は自治をしている。そして、国に属さない人々もいる。私は王から、未知なる彼らを調査するよう依頼されたのだ」

「どんな生活をしているか調べるんですよね」

「そうだ。しかし私は、お前にも興味がある」


「え?」


 俺は思わず目を剥いて聞き返した。


 興味?

 こんな俺に?


「僕に、ですか?」

「お前の暮らしていた、にぱん?」


 惜しい。


「ジャパンです」

 答えると、先生は立て板に水の如く質問してきた。

「それはどこにあるんだ? どんな暮らしだった?」


「え、えっと……たぶん、だいぶ遠いです」

「なんでもいいから、思いつくままに話してみなさい」


 面食らう俺に、先生はダークグレーの瞳を輝かせて前のめりになる。

 俺は戸惑って体を引いた。

 女性に、こんなふうに迫られるなんて……!


 そのとき、扉のない食堂の入り口に男が現れた。誰かを探すような仕草で、中へは入ってこない。そして先生の姿を見つけるや、「おいあんた、出発するぞ」と、声を張った。


 明らかに先生に向けられた呼びかけだが、彼女は俺の答えを待っていて気づいていないようだ。


「先生。あの……、あの人が呼んでますよ」

「うるさい後にしろ」


 振り向きもせず、ハエでも払うように手を振る先生に、男はムッとしてさらに大きな声を出した。


「あんたが乗せてくれって言ったんだろ、もう出発しちまうからな!」

「すみません、すぐ行きます!!」


 なんのことか大体見当のついた俺は、代わりに立ち上がって返事をした。


「馬車に乗せてくれって、あの人に頼んだんですね」

「ああ、そうだった」


 フィスさんは「はは」と笑って、『ジャパン』とだけ書かれたメモ帳を閉じると荷物を背負った。


 細身の女性なのに筋力がある。やっぱり男が本体で幻覚を見せられてるんじゃないだろうか。


 俺も慌てて後に続く。よし、忘れ物はないな? ここにお金は払ったのだろうか。それともまた、


 それにしても……、この人、のめり込むと周りが完全に見えなくなるのかもしれない。

 まだこの世界の常識もわからないのに、視野狭窄の学者とふたり旅か……。


 先が思いやられる。


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