3月26日① 始まりの町ってやつでしょうか
次の日、起きたら昼過ぎだった。
念のためこの日記にも書き残しておくが、広々とした部屋にベッドは三つもあったので、俺はおっさんと
眠い目をこすりながら、いい匂いに誘われるまま一階のラウンジっぽい空間へ降りる。いわゆるビュッフェ形式で、焼いた野菜、肉、パンにスープが並んでいる。
優雅なブランチだ。楽団の生演奏までついていて、行ったこともない海外旅行の気分。たぶん、イタリアの街中とかこんな感じなんだろ? 知らないけど。
海から拾った、薄汚れた服で参加していいのだろうかと緊張したが、ワインを飲みはじめたらどうでも良くなった。
食べ終わると、フィスさんに連れられて街へ出ることになった。
『東の雑踏の街』というだけあって、活気付いている。道も石畳で歩きやすいし、大体の家が石造りで二階建てが多い。
まずは仕立て屋へ行って、俺の服を旅仕様にバージョンアップすることになった。
ズボンをカバーする筒状の布。今着ているシャツの上から羽織るウールのチュニックシャツ。上等なベルト。ベルトには小物を入れる袋をつけてくれた。ボタンの技術がないのか、全部紐で縛って止めるのが、ある意味で和服のようだ。最後に四角い布を縫っただけという感じのフードを受け取って、完成。
以上の支払いは「国王付け」なんだそうで。
次は道具屋へ。
ポーションとか回復薬……みたいなものはなく、皮の鞘に収まった小ぶりのナイフと、すり鉢すり粉木セットを手に入れた。俺用だそうだが、後者は利用方法がわからない。薬を調合するときなどに使うようにと言われ、専用の皮袋までくれたので、ナイフと一緒にベルトに下げた。
「武器」「魔法」「防具」という看板も目にした。
武器屋の店先に安物の剣が傘立てみたいなのにたくさん入っていたのには驚いたが、残念ながら通り過ぎた。
初めての場所、初めての種類の買い物。
慣れないことの連続で早々エネルギーの切れた俺は、宿屋の方向へ歩いていると気づいてホッとした。方向感覚は悪くない方だ。初めての土地でも、事前にマップアプリを確認しておけば、道に迷うことはほとんどない。
はは。
マップアプリだって。
そんなもの、もうない。
ってゆーかフィスの野郎、一度も「次はこっちへ」とか「あっちの方向へ」とか、「あと何軒回るぞ」とか言わねぇから、それが一番疲れる原因だっつーの。
宿屋の看板が見えてきたから、部屋に着いたら何を言われてもたっぷり寝てやろうと思っていたのだが、何やら様子がおかしい。
入り口の前に支配人以下数名が並んで、荷物を抱えているのだ。
「先生様、こちらでご要望の品は全てでございます。馬車もこちらに」
「すまない。助かったよ、ありがとう」
一つ目の荷物は、動物の骨でできたように見える白い三角形の背負子に、毛皮や大きなフェルトの布、小ぶりの鍋なんかが括り付けられている。
二つ目は大きな革製のナップザックで、中身は食糧らしい。フィスさんが中を一度見てから、俺に渡してくるので素直に背負った。肩紐が一本なので、ずっしりくる。
そして三つ目は、それぞれの水筒。中にはすでに飲み水が詰まっている。この世界は水が安心して飲めるようでありがたい。
とか、ありがたがってる場合じゃない。
なんだ、この展開は。
フィスさんは他にも、小さな斜めがけの革鞄を下げているし、腰のベルトには手帳をはじめ、小袋が三個も。
こ、これは……、出発ってこと?
俺、病み上がりなんですけど。一晩寝ただけでもう荷物抱えて出かけるって、この世界では当たり前のことなんでしょうか?
このじいさん、足腰強すぎて泣きそうになる。俺のこの体はどれくらい強いのだろう。前世の姿とそっくりだから、すぐに膝が痛くなりそうな予感がする。
すぐ脇の道で待っていた馬車は、昨日と違って人間を乗せるためのものらしく、荷台に椅子が設置されていた。
うん。諦めよう。
これは出発するしかないようだ。
椅子があるなら少しは乗り心地いいはずだ。淡い期待を胸に、俺は黙って乗り込んだ。
宿屋の見送りは、俺たちが坂の下に見えなくなるまで続いた。
通りの人たちも、フィスさんを見つけると手を振ってくれる。
「先生は、人気者なんですね」
みんながそう呼んでいるので、俺もこの人を「先生」と呼んでみた。
「王の勅命で動いているからだよ」と、彼は笑って首を振った。「私の後ろには『黄金王』がいらっしゃると、そういうことだ」
新しい固有名詞が出てきた。
ストレートに「それ、なんですか?」と聞きそうになって、俺は瞬時に考え直した。
フィスさんは俺を、「どこか遠い国から来た記憶喪失の元奴隷」と認識しているのだ。
その設定に沿ったやり取りをした方がいい。
「まったく僕の頭の中は真っ白なんです。ここ『黄金の国』の王様が、黄金王で間違いないですか?」
「ああそうだ。黄金王は現在この大陸の全てを統治している。君が乗っていた船を所有する『二手の国』というのも、『黄金の国』の一部だ。慣習的に併合した国は、そのままの名で呼ばれているが」
「もしかしたら、全体像から伺った方が、僕にはわかりやすいかもしれません」
小さなピースが次々出てくると、混乱してしまう。
国はいくつあって、何年前からで、大陸の大きさは、と疑問が駆け抜けていく。
「それもわからなくなっているのか」
と、フィスさんは長いヒゲをしごいた。
ちょっと設定に無理が生じているんじゃないだろうか。
俺が冷や汗をかきはじめた、その時だ。
「そうだ。これをあげようと思っていたんだ」
フィスさんは肩掛けカバンから手帳を取り出した。彼が腰から提げているのとそっくりの、革のカバーに包まれて革紐で止めてあるものだ。
カバーを開くと、A5サイズくらいの薄い黄土色をした無地の紙、のような、違うような……。
傍に羽ペンが添えられているが、インクはどこだかわからない。
「混乱している時は、詳しく日記を書くといい。文字にして、頭と心を整理するんだ。私もそうしている。かしこまらなくていいし、整理されてなくてもいい。とにかく手を動かして、文字にすることだ。そうすれば目から入ってもう一度考えられる」
科学が進歩していなくても、こういう考え方は生まれるものなのだろうか。
もしかしたら、これって人間の本質なのかもしれない。
……まぁ、彼らが厳密には「人間」なのかわからないが。
「それは魔導書にも使われる筆記用具だ。そのペンでいくらでも書くことができる。めくるだけページが生まれる。めくったページは消えるが、めくり返せば現れる。羽でなぞりながら『消えろ』と念じれば文字は消える」
「すごいですね。特定のページを見たいというときは?」
「思いながらめくれば現れる」
「ページを破くことは?」
「そんなこと考えたこともなかった。お前は面白いな」
フィスさんは一度目を丸くしてから、さも面白そうにそれを細めて笑った。
面白いと言われて、悪い気はしない。褒められたのだ。
「サトーよ。ずっと不安そうにしているが、もっと自信を持って生きろ。記憶がないことは、きっとなんとかなる。大丈夫だ」
ハッとした。
それはあの夜、あの昏い目をした少年に向かって、俺が放った言葉だった。
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