3月25日③ 恩人がアホかもしれない懸念

 ヒッチハイクした商人の馬車が『暗い入江の漁村』を出発したのは、すっかり日が沈んだ後だった。御者台から伸びた棒の先にランプが揺れている。


 積み上がった荷物の後ろにちょこんと座った俺は、奥でうたた寝するフィスさんを、通勤電車の会社員みたいだと思って見ていた。


 眠りは浅かったようだ。視線に気づいて薄く片目を開けたフィスさんに、「落ちないようにな」と釘を刺された。


「はい」と、俺は荷台の掴めそうなところをしっかりと握り直す。


「こんなに暗くて、モンスターとか出ないんですか?」

「ここは大丈夫だ」


 冗談のつもりで聞いたのだが、その返答ということは、出るところもあるようだ。怖い。


 ところで、俺とフィスさんはなんで言葉が通じてるのだろう。

 この世界の『二手の国』というところで奴隷だった男の体に、俺の魂が入ってしまったのだとして、体の記憶が言葉を紡いでいるのなら、他の記憶は?


 つらい労働を強いられていたとか、海に投げ出された恐怖とかは全然覚えていない。久々に酔いまくったあの日の、鳥貴族のメニューなら思い出せるけど。


 俺と一緒に落ちた学ランの少年は、無事だっただろうか……

 無理か。九階だったし。

 彼も、ここに来ていたら……?


「モンスターのこともわからなくなるとは。本当に、何も覚えていないようだな」

と、 馬車の揺れに合わせて弾みながら、フィスさんが少し身を寄せてきた。


 舗装なんてされていない。車輪も荷物もガタガタと音を立てていて、彼の声は途切れて聞こえた。


 俺も声を張ろうとするが、腹に力が入らなかった。


「そうなんです、なにも」

「今日はもう遅い。『東の雑踏の街』に着いたらすぐに宿を取る。すべては明日だ」


 一方的に宣言すると、彼は返事を待たずに元の位置へ尻を滑らせた。こんな揺れでは話にならないと踏んだのだろう。俺もそう思う。


 荷物にもたれてうたた寝していたら、いつの間にか街に着いていた。

 ぐるりと高い丸太塀で囲われていて、門には番兵が二人。俺が目を覚ました時にはすでに門をくぐった後だったが、通行証がどうのこうのと荒っぽいやりとりが聞こえていたから、街に入るのは簡単なことではないようだ。


 そういえば、フィスさんの姿が見えない。


 え? 俺の命綱なのに!?


 慌てて周囲を見回そうと体勢を変えたら、馬車が止まるのと同時で転がり落ちた。


「わぁ!」


 途端にビルから落ちたフラッシュバックで、心臓が跳ね上がった。

 バクバク……、ドクドク……

 冷や汗も止まらない。


「大丈夫か?!」

「だ、だい……」言いかけて、見上げたら、視界にボヤけるフィスさんが映った。「だめです」


 一体どこにいたんだろう。


「おい、そこの君。こいつを部屋へ運んでくれ」

「はい先生」


 返事をしたのは色黒の大男で、スキンヘッドに刺青がたくさん入っていた。

 まるでぬいぐるみ程度に軽々俺を担ぐと、造作もなく坂を登って建物の中へ。


 そこは、絢爛豪華なラウンジだった。

 ランプの灯りだけとは思えないほど明るい室内で、真夜中だというのにたくさんの人が話したり酒を酌み交わしたりしている。


 ずいぶん楽しそうだが、今の俺には毒でしかない。アルコールの匂いが吐き気を誘う。


 俺を抱えた男はひょいひょいと階段も昇り、二階の奥に着くと器用に部屋を開けた。旅館のようなものを想像していたら、美しい内装のベッドルームで驚いた。


 スイートルームというのだろうか。

 砂浜や掘っ立て小屋、ガタガタ揺れる馬車を体験してここまできたから、これは想定外だ。


 この建物は……宿屋、ということか。


 男はすぐ後ろにいたフィスさんを振り返った。


「こちらでよろしいでしょうか」

「ああ、かまわん」


 二人の会話にはあからさまな上下関係が見える。

 大男は俺を丁寧に布団へ寝かせると深々と頭を下げて出て行った。


 入れ替わりで男女二人が恭しく入室して、食事やリネンを整える。

 フィスさんって……、本当に身分の高い人だったようだ。


 ベッドに座っている俺にも、足のついたお盆に乗って食事が運ばれた。


 異世界の食事……


 恐る恐る覗き込んだが、杞憂だった。


 いいにおいだ……


 柑橘系の果物が浮いた水を飲み、野菜を煮詰めたスープを食べると、生き返った心地がした。


 生き返る。

 妙な考えだ。


 生き返ったというなら、俺は確かにのだろうけれど、それは今じゃない。あの砂浜だ。


 だけど俺はまさに、食べて、生き返ったと思ったのだ。


 しかしちょっと待て。

 思い返せば、ここまで水しか口にしてなかったぞ。

 意識を失って漂着した人を、空腹のまま連れ出してたのか?


 さっき倒れたのも、心拍の異常上昇も、空腹でやばかったからアドレナリンが出たのだと思えば、合点がいく。


 俺はフィスさんを見やった。入り口近くの美しいテーブルセットに腰を下ろして、支配人らしき太ったおじさんと楽しそうにおしゃべりしながら、肉やら魚やら頬張ってる。


 もしかしてフィスさんって、アホなんじゃないか?


 他に頼る人もいないけれど、彼に任せてぼんやりしてたら野垂れ死ぬかもしれない。


 気を確かに。遠慮なくいけ!


 自分にそう言い聞かせて、その夜は、失神するように眠りについた。

 

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