3月25日① 死んだ俺を助けたのは、謎の美女
その夜、俺は雑居ビルから落ちて死んだ。
繁華街で友達と飲んだ帰りだった。都会じゃ星なんか一つも見えねぇぜ。なんて、酒だけじゃなく自分に酔いしれて夜空を見上げた俺の目に、学ラン男子。
飛び降りようとしていると察するや、酒が回って気が大きくなっていた俺は、「助けられるはずだ」なんて考えてしまったのだ。
そして、一緒に落ちた。
説得し損ねて。
今でも覚えている。彼の暗い目。
将来に絶望して、いや、明日にさえも光を見出せないでいる若者にとって、酔っ払いの励ましなど戯言にすぎなかっただろう。
「『きっと大丈夫』だぁ? 何を担保に言ってんだ、バーカ」
次に気づいた時、俺は真っ白な空を見上げていた。背中はべったり、真っ白な床の上で、俺は呟いた。
「地獄か……」
幼い命を救えなかった馬鹿な大人が来る場所だ。真っ白な、無間地獄に違いない。起き上がる気にもなれず、再び目を閉じる。
(このまま砂になりたい……)
などと思うや、本当に砂の感触が全身を包んだ。同時に足元を水が撫でていく。
聞き覚えのあるリズムが、耳に心地いい。
(海?)
もう一度目を開けると、その場所は薄暗い入江に姿を変えていた。
(地獄にも海があるとは……)
起きあがろうとしたが、あらゆるところが痛くて力が入らなかった。
その上、俺の体は薄い布を巻いただけで、ほとんど裸だということにも気がついた。関節の内側や、シワのひとつずつにも、口の中も砂だらけだし、ひどく喉が渇いている。
どうやら俺は、浜に打ち上げられたようだ。たとえるなら、乗っていた船が難破したかのごとく。
「二十八年しか生きてないのに……二回も死ぬとか……大当たりすぎ……」
振り絞っても座り込むくらいしか動けず、涙も出ない。
そのうち、遠く水平線から太陽が顔を覗かせた。
水面がキラキラして、この世のものとは思えないほど美しい。
もしかしたらこれが極楽浄土ってやつなのかもしれないと、思わず合掌したその時、すぐ後ろの草むらが大きな音を立てた。
「おい! 生きてるやつがいたぞ!」
たぶん、そう言った。
なんだか癖のある話し方で、聞き取りにくかったけれど。歯が抜けているのかもしれない。
ぞろぞろ現れたのは、一様にみすぼらしい身なりをした五人の男だった。
「なんも持ってなさそうだな」
「殺すか?」
「いや若そうだ。高く売れるかもしれん」
なんだこの地獄。
あー、夢なら覚めてくれ。
いや、覚めたところで俺はビルから落ちたんだ。血まみれに違いない。そっちのほうが痛いし嫌だ。
俺は中でも屈強そうな大男に腕を掴まれ、ひょいと肩に担がれてしまった。ひどい悪臭だ。
「もうどうでもいいや」と力を抜いたら、そのまま地面に落とされた。
痛みよりも思った。
何が起こった? 助かったのか?
顔を上げると、男たちは一点を見つけて呆然としていた。
その視線を追いかける。
彼らが出てきた雑木林に、銀色の長い髪をした美しい女性が立っていた。
深い緑色のマントを体に巻いているが、どうやらその下は、裸だ。
「助けてください」
声まで美しい。
男たちは日焼けしてシワだらけだから年寄りに見えていたが、血気盛んな若者のように目を輝かせ、女性の元へ駆け出した。
「おいおい、上玉が残ってたな」
「助けてやるよ、こっちおいで」
「馬鹿野郎、女性を歩かせるんじゃねーよ。俺たちが行けばいいだろ」
飛び跳ねる猿のような背中を見送りながら、俺は絶望した。
また、助けられない……。
命の瀬戸際にあった少年も、彼女のことも、俺は助けられない……。
ドンッ—————!
打ちひしがれる俺の体が、砂浜から一瞬浮いた。
それほどの衝撃だ。
まるで高いところから大きなものが落ちたような。
顔を上げるより早く、誰かが近づいてくるのがわかった。軽い足取りの、素足だ。
「大丈夫か?」
さっきの女性の声だ。
でもちょっと待てよ。だとして、そっちを向いてもいいのだろうか。見てはいけないものが見えてしまうのではないか。
「おお、動いている。よかった」
と、彼女は俺の前にしゃがみ込んだ。砂についた白い膝が視界に入る。
「どれ、歩けるか? 向こうにまだ救助隊がいる。医者に診てもらおう」
「う、動けません…」
「そうか、そうだな。少し待っていなさい」
その口調は、教師を思わせた。
彼女は立ち上がると、足の砂を払って去っていってしまった。
その姿が藪に消えたのを確認してから、俺はなんとか身を起こした。
バラバラになりそうな痛みが全身を襲う。
さっきのあの人、「待っていなさい」って言ったけど……
注視するのも悪いだろう。そう思って、横目で確認すると、しばらくしてガサガサと木の葉が揺れ出した。
そして現れたのは——……、恰幅のいい初老の男。
え? おじいさん?
あの女の人はどこへいったんだ?
目を凝らしても、そこにいるのは長い銀髪に(グレイヘアってやつかもしれないけど)こちらも銀色の口髭をたっぷり生やしたガンダルフ。
まさか……?
うそだろ……?
いや、でも、さっきの女性と同じマントを羽織っている。
ってことは……?
「待たせたな」
「えっ、あの……」
か細い俺の声が聞こえなかったのか、聞く気がなかったのか、彼は一六〇センチ、五十五キロの俺をひょいと横抱きにして歩き出した。
なんだこりゃ。
「私の名はフィス。『黄金の国』の救助隊の一員だ。『二手の国』の船が座礁したと聞いて来てみたが、難破船が打ち上げられたのだな。ひどいものだ……。きみは運が良かった」
あ、話が展開していってしまう。
「ありがとう、ございます……?」
「どうやら『二手の国』の人ではなさそうだな。名前は?」
「佐藤……拓馬です……」
恐る恐る答えた俺に、フィスさんという名前らしきおじいさんは首を傾げた。
「サトー? 不思議な響きだ。どこの出身かね。東の『
え、なに? なんて言った?
シコウ?
言葉?
声が遠い。頭がガンガン金槌で殴られるみたいだし、耳鳴りもする。
「あ、あの……日本です……。ジャパン」
「じゃ、ばん? もう一度言ってくれないか、サトー」
「いや、ちょっと、疲れてて……」
呂律が回らない。
おじいさん越しの太陽が、俺の意識をホワイトアウトさせてくる。
気を失いながら、俺は「次に目を覚ましたら病院がいい!」と、本気で願った。
だが、世の中そんなにうまくいかない。
目覚めると、そこはバンガローみたいな木製の小屋の中だった。
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