月下美人

明松 夏

一度だけでも

 すき。



 きらい。


 すき。


 きらい。


 すき、きらい、すき、きらい、す……。


「あっ」


 最後の一枚がひらりと舞った。


 言い終える前に、言い終わらせまいとするように、幼い僕の指の間をくぐり抜けてさらっていく。


 公園の花壇でくたりとしおれかけていたあの花。


 白だったかピンクだったか。


 色すら忘れ、なんという名前の花だったのかも知らないまま、僕は今日も生きている。




 春が嫌いだった。秋も嫌いだった。


「──へ、へ……っ、ぶしゅん!!」


「きったねーなぁ」


「しかたないじゃん、花粉症なんだから」


 ズビッと鼻を鳴らしながら、涙をためた目でくしゃみをする僕を邪見にしてくるゆうきを睨む。


 季節は春。


 花粉症の人たちが鼻水と涙に悩まされる最悪の季節である。


 くしゃみをすれば嫌な顔をされ、鼻をかめばうるさいと言われ。


 挙句の果てに、こうしてなんの症状も持たない人から「汚い」と言われる始末。


 なぜ神様はこんな苦しみを与えてくるのだろう。僕がなにかしたっていうのか。


 心底疑問に感じるくらい、僕は春が──そして秋も──大嫌いだった。


「ほら見ろよ、あいつらもドン引きしてる」


 ケラケラ笑いながらゆうきが指す方向を見ると、クラスの中でも騒がしいグループがこちらを見て苦笑していた。


「ゆうきうるさーい」


「本当だよ。どうにかならないの、それ?」


「こっちじゃなくて春に文句言えよっ!  ぶしゅんっ!」


 まるでくしゃみが語尾かのような反論をすると、クラスがドッと笑いに包まれる。


 いつもの流れだ。


 机の上に堂々と乗っている箱ティッシュから一枚取りだし、鼻水をかみながらそう思う。


 ゆうきが僕をいじり、それにおもしろおかしく返せばみんな笑ってくれる。


 多分、大人から見たらしょうもない雑談くらいにしか思われないのだろうが、この時期はすべてが色鮮やかに映るのだ。


 特に笑いどころのないギャグでも、雰囲気を楽しめればそれでいい。


 そんなものだ、高校生って。



「おいおい、高橋。ついに箱ごとティッシュ持ってきたのか」


 チャイムと同時に入ってきた担任の言葉に、またもやクラスが沸き立つ。


「だって、ポケットティッシュじゃすぐ無くなっちゃうんですよ。あ、でも安心してください。ちゃんとゴミ袋持ってきてます!」


「いや別にそこは心配してねえから」


 クスクス聞こえる笑い声に耳を澄ませながらくしゃみをひとつ。


 担任もなかなかに鋭いツッコミをくれるので、ボケ甲斐がある。


 けれどもたまにスルーされてしまうことがあるので、やはり僕にはゆうきしかいないなと思い直した。


 潮が引いていくように笑い声は鎮まる。


 先ほどまであんなに笑っていたみんなは、いまはつまらなさそうに髪をいじっている。


 僕はというと、単調な声で朝の連絡をする担任を横目に、斜め前の黒髪をじいっと見つめていた。


 教室の電気に照らされて浮かび上がる天使の輪。


 後ろからでもわかるほど、白くて陶器のようになめらかな肌。


 うなだれるすすきの中に、一本だけ若竹が混じったようにピンと伸びる背筋。


 ……今日も笑ってくれなかったなぁ。


 まっすぐ担任の方を見ている彼女から目を逸らし、机に伏せながら小さくため息をつく。


 クラスのみんながドカ笑いをする中、彼女だけは静かに本へ目を落としていた。


 いつもそうだ。


 休憩時間に渾身のギャグを披露しても、雨の日の廊下ですっ転んでも、彼女はぜったいに笑ってくれない。


 何を考えているのか全く分からない黒目で、ただ文字を追っているだけだった。


 そう、こちらに見向きもしないのである。


 ただただ興味が無いのか、それとも騒がしいこの空気が嫌いなのか。


 どちらにせよ、いつも本を通して何か別のものを見ているようなその後ろ姿は、恐ろしいくらいに静かだった。


 決して触れさせてくれない、踏み込ませてくれない。


 鉄壁の壁を自身の周囲に築いている。


 けれども僕は、そんな彼女に興味津々だった。



 ある日の放課後、僕は委員会のお勤めを果たし、荷物を残してきた教室へ帰っていくところだった。


 同じ委員会で片割れのゆうきが風邪で休んでいたため、僕の仕事量はいつもの二倍。


 と言っても、図書委員なので特にやることはないのだが。


 本棚の整理や新しい本のポップ作り。あとはカウンターで来る気配のない借り人を待つのみ。


 図書室は、ただでさえ人の出入りが少ない旧校舎に位置している。


 僕だってここに来るのは委員会の時か、あとは選択科目の授業がある時だけ。


 今の時代、図書室に馴染みのある高校生など少なく、結局今日も訪れてきた人はいなかった。


 退屈だった時間を飲み込むように、僕は大きなあくびをしながら廊下を歩く。


 外で部活に励む生徒を見つつ、三階にある教室にやっとたどり着き、何の気なしにガララとドアを横にスライドさせた。


「うぐっ」


「あっ……」


 瞬間、腹に衝撃が走った。


 同時に、小さく焦った声が聞こえてくる。


 あまりにも突然でよく見えなかったが、腹を擦りながら誰がぶつかってきたのか確認すると、やはり彼女だった。


 艶々の黒髪を揺らしながら、眉を八の字に垂らしている。


 彼女は何度か池の鯉のように口を開閉させると、日焼けを知らない肌を赤らめながら、


「ご、ごめんなさい。ちょっと急いでいて……」


 そう言ってぺこりと頭を下げた。


「あ……うん、全然大丈夫」


 真摯に向き合ってくれている彼女とは裏腹に、僕は初めて聞いた無口少女の声に少々驚いていた。


 凛とした佇まいのせいで、しっかりと糸を張ったような声なのかと勝手に思ってしまっていた。


 けれど、実際に聞こえてきたのはころんとした鈴の音。


 見た目とのギャップにドギマギし、言葉を発するのがようやくだった。


「それじゃあ……私はこれで。ぶつかってしまって本当にごめんなさい」


「あはは、大丈夫だよ。気にしないで」


 相変わらずの仏頂面を貼り付けながらそそくさと立ち去っていく。


 その際に、手に持っていた本の裏表紙に、図書室のシールが貼ってあることに気がついた。


 もしかして、今から返しに行くのだろうか。


 だが、図書室の利用時間は四時までで、それを過ぎたら鍵は返却されるので彼女が入ることはできない。


 心配に思った僕は、思わず教室から駆け出した。


「あ、あのさ! 今から図書室行くならもう閉まってるから入れないと思うよ!」


 階段の踊り場から、急いでおりていく彼女の背に言い放った。


 すると、動きがぴたっと止まり、あの真っ黒な瞳で僕を見つめてくる。


「……その本、もしかしてだけど返却しようとしてるんじゃない? 僕、図書委員だからさ、鍵借りれると思う。一緒に行くよ」


 たたん、と刻みの良いステップで階段をおりて彼女に追いつく。


 目が不安げに揺れている。


 そりゃそうか。


 急に話したこともないクラスメイトに、それもさっき別れたはずの人間に話しかけられたら驚くもんな。


「……なんで」


 鈴の音をポツリとこぼす。


「なんでわかったの、これ返しに行くこと」


 どうやら不審がられているらしい。


 別に何か悪いことをしたわけでは無いのに、あの黒目で見つめられるとうろたえてしまう。


 ドクドクうるさい心臓を落ち着かせながら、僕は正直に説明をした。


 先ほど去っていく際に持っていた本の裏に、図書室のシールが貼ってあったのを見たこと。


 そして、この時間に焦りながら旧校舎の方へ駆けていくということはその目的地は図書室であること。


 わざわざカバンの中でなく手に持っているということは、返却しに図書室へ向かっているのではないか。


 勝手にそう解釈したことを話せば、彼女の口から感嘆の声がもれた。


「まるで探偵みたいね」


「え、ええー? そんなに褒めてもなにもでないよ」


 ちらりと見えた彼女の持っている本のタイトル的に、ミステリーが好きなのだろう。


 だからか、僕の推理を聞いていつもより顔が緩んでいる。そんな気がした。



 この日を境に、僕は彼女とよく話すようになった。


 と言っても、放課後図書室に訪れてくるその瞬間だけだけれど。


 それでも、復帰したゆうきが「仲良かったっけ」と首を傾げるほどには話せるようになっていた。


 好きな本の話や好きな作家さんの話。


 本好きな彼女に合わせて、僕も何冊かおすすめされた本を読んでみた。


 その感想を話すと、決まって彼女は黒目に光を宿すのだ。


 それが嬉しくて、僕はさらにたくさんの本を読んだ。


 おかげで漫画ばかりだった自室の本棚が、小説で埋まってしまうくらい。


 僕は読書と──彼女にのめり込んでいた。



 その日は雨だった。


 いつものように昼間は廊下で転んで笑いをとり、放課後は旧校舎の廊下で一人ずっこける。


 ゆうきが部活に行ったせいで笑いは起こらなかったが、一刻もはやく図書室に行きたかった僕は学びもせず廊下を駆けた。


 図書室の小窓から中が見える。


 どうやら僕がトイレに行っていた間に彼女は先に着いていたらしい。


 肩につくセミロングの黒髪がてらてら輝いている。


 けれどもそれは彼女だけではなかった。


 いつもはいない、見覚えのある後ろ姿。


 なんでか僕はその場に入ることができず、小窓からじっと様子を見ていた。


 彼女が相手の方を向く。



「……あ」



 スローモーションがかかった。


 どくんと心臓の奥が鳴った。


 乾いた声を残して、僕はその場をゆっくり離れた。


 外は雨が降っていた。


 昇降口から外へ向かう人たちは、それぞれ色とりどりの傘を咲かせていく。


 僕は持っていなかった。朝寝坊したせいで、持ってくるのを忘れたのだ。


 雨音が強くなっていく。


 僕は駆け出していた。


 パシャパシャ濡れるローファーは気にもとめず、スカートを揺らしながら雨の中を駆けていく。



 ──あれは担任だった。


 見覚えのあるスーツで彼女と話していたのは、間違いなく担任だった。


 頬が濡れる。


 きっと雨だ。雨に違いない。そうだ、全部雨のせいなんだ。


 僕は──私は、あの時花が咲くのを見た。


 いつもは一文字に結ぶ口を緩めて、頬に彩りを与える。


 まるで月下美人のようだった。


 蛍光灯に照らされ、笑顔を見せる。


 月の下で一度だけ咲く美しい花。


 きっとそれは私だけの淡い白の花。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月下美人 明松 夏 @kon_00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ