五話 影で渦巻く


 翌日、翌々日と世話をする内、琴乃はだんだんと焔と話をするのが苦ではなくなっている自分に気づいた。

 但しそれは充輝がいれば、という条件で、である。


 ある朝のこと、陽炎殿を訪れた充輝が、すまなそうに告げた。


「巫女殿。今日、我は所用あるゆえ、少しばかり離れる」


 巫女服の着付けが終わるのを部屋の外で座って待っている充輝は、いつもの狩衣姿ではなく、武官束帯ぶかんそくたい姿で、濡れ縁の高欄こうらん(手すり)に下襲したがさねを掛けている。


「所用、でございますか」


 御簾みす越しに聞こえてくる不安げな琴乃の声に充輝は、

空見殿そらみどのに居るゆえ、儀が終わり次第清涼殿せいりょうでんへゆくよ」

 と眉尻を下げながら言う。


 空見殿は、清涼殿よりさらに南にある、内裏だいりの内門を兼ねた建物で、竜皇との謁見や貴族たちが集まる場所として使われている。上人うえひとと呼ばれる階級であれば立ち入ることが容易で、歌会や花見、庭の池での船遊びなど、年中何かしら行われている。


「儀、とは」


 支度が終わって簀子縁すのこえんに出てきた琴乃を見上げ、充輝はわざとらしいくらいに嫌そうな顔をした。

 

「年初めの儀である。そうだな、簡単に言えば、偉そうなジジイどもの集まりに、顔を出さねばならぬ」

「まあ」


 面布めんぷを着ける前の琴乃が、自然と袖で顔を隠し笑うのを見て、充輝は口角を上げた。

 が、たちまち眉根を寄せる。


「巫女殿は、賢く優しい。何があろうと、陛下のお心が安まるよう、お側にいてくれるか。辛いこともあろうが、我も尽力しよう」

「高階様……私で勤まるのであれば」

「頼む。さあさ、途中まで送ろう」


 立ち上がった充輝が女官へ左手を差し出すと、女官は表情を曇らせつつも床に両膝を突き、巫女の面布を手で捧げ持つようにする。


おそれ多いことです」


 琴乃は、充輝がこうして毎度、自らの手で面布を着けるのを止めないので、内心困惑している。

 

「なに。これも我がのひとつ」

「まじない?」

よこしまなものは、口から入る。陛下のお側なれば、ゆめゆめ、気をつけよ」

「……はい」


 琴乃は未だ、禁中がなんたるかを知らない。

 ただひたすらに充輝を信じることしか、できなかった。


   ❖


 年初めの儀は、新たな年を祝い、繁栄を祈る。

 上級貴族が集まって舞妓まいこを呼び、琴やしょう、横笛や太鼓などが奏でられる。昼から酒が振る舞われ、几帳きちょうの奥に女房を控えさせる者も多い。


 竜皇不在の、無礼講である。


 ここで交流を深め、以降の権勢を共にするか。

 牽制して足蹴あしげにするか。

 年初めの祝いの席であっても、どろどろとした人同士の欲が交錯する、顔合わせの意味合いが強い。

 

 充輝は、気安く声を掛けてくる者の顔と名前に全く興味がないのを悟られないよう、かろうじて愛想笑いを返す。

 だが、右大臣である石上いしがみ成重なりしげに話しかけられたとあれば、無碍むげにはできなかった。


「これはこれは、高階の」

「ご無沙汰をしておりまする」


 宴の、濡れ縁の端。目立たぬ場所に座ろうとしていたら話しかけられたので、充輝は咄嗟とっさに片膝を突く。

 

「うむ。そのほう、相変わらず精悍せいかんよな。年を取るとなかなか」


 石上はグフフなどと妙な笑いを漏らしながら、しゃくで自身の腹を軽くトンと叩く。たぬきと陰で揶揄やゆされているこの右大臣の軽口に安易に乗ると、後で痛い目に遭うことは、さすがの充輝も分かっていた。


「その威厳、我には得られようもございませぬ」


 充輝の答えは、満足のいくものであったのだろう。石上はわざとらしいぐらいに眉尻を下げ、すすすとひざまずく充輝の耳に口を寄せた。ツンと漂ってきた、すえた脂と濃い香の混じった何とも言えない臭いに、充輝は吐き気をもよおしそうになるのを懸命にこらえる。当然のことながら、石上は自身の発する臭いに気づいていない。


「ぐふ。実はそこの几帳に我が娘が来ておる」


 確か、石上にはひとり娘がいたな、と充輝は記憶を辿る。


「高階と話がしたいと言うておってな」


 文も歌も交わしたことのない女性相手に何を、と充輝は困惑を必死に隠す。もっとも、誰から来ようと全て受け取らず、突き返しているのだが。


「我と、ですか」

「几帳越しなら、良いだろう?」


 良くない、とは言えない。相手は右大臣である。


「……後ほど、ご挨拶に伺いましょう」


 かろうじてそう言うと、石上は上機嫌になり「ほおお! そうかそうか。春姫はるひめも喜ぶ!」とようやくどこかへ歩いていったので、だいぶ離れたのを見計らってから、充輝は何度も深呼吸をした。


「春姫……確か巫女殿と同い年であったな」


 独り言をぽろりと口からこぼす充輝の頭上から

「高階の。あちらで話せるか」

 と囁く声がする。


「大江殿」


 今度の充輝は、深深と頭を下げ、両手も床に突いた姿勢である。相手は左大臣・大江おおえ清平きよひらということもあるが、充輝の心中を如実にょじつに表した態度に、清平はゆるく口角を上げた。


「ついてこい」

「は。お供いたします」


 酒に歌に踊りに興じる喧騒けんそうから逃れ、濡れ縁の端から壺庭へ降りると、黒い忍び装束姿がふたり、離れへと手招いている。

 人払いされた室内で、しとねに座るや否や、清平は口を開いた。


「急に、すまぬ」

「いえ……」

「石上に声を掛けられていたのを見て、焦ったのでな」


 清平のこれは、腹芸ではない。

 何かしら深刻な事態が起きていることを察した充輝は、あえて一呼吸置いてから、説明をする。

 

「春姫殿へ挨拶をしろと言われました」

「やはりか……」


 たちまち眉根を寄せる清平は、顔色が悪い。

 

「大江殿、お身体は」

「はは、陛下の苛烈な儀式で受けた傷が、痛むだけだ」

「ご機嫌が悪うございましたからね……あの日の陛下を見れば、武芸に秀でた者すら裸足で逃げ出しましょう」


 巫女と相見あいまみえる前に行われた清平の『言の葉の儀』は、完全に焔の八つ当たりのようなものであった、と充輝は苦い気持ちで振り返る。

 

「私ごときで受け止められたなら、本望だな」


 力なく笑う清平の、束帯の襟元からのぞく首には、包帯が巻かれている。酷い火傷やけどを負ったのか、ただれた皮膚がちらりと見えている。

 

「ところで高階の。私の隠密は優秀でな」


 清平が、ぐっと腹に力を入れた様子で、充輝をまっすぐに見つめる。左大臣はこの国の全兵力をべる地位であり、充輝の直属の上司とも言える。懇意にしていてもはばかられるものではないのに、この密談であるから、充輝も身構えた。


「存じております」

「火の巫女は元々、春姫であったと報告があった」

「……陰陽寮の星読みと方位占いでもって、巫女は選定されるはずです」


 充輝の答えに、清平はフッと息を吐いた。当然だと言わんばかりだ。

 

「だがな。春姫に想い人ありて。陛下へ生涯を捧げることをいとい、女子おなごへ白羽の矢を立てた……と」

「喋れぬなら断るまいとの算段ですか。浅はかな……その想い人とやらが、我であると先程判明した、と言うわけですね」


 右大臣がわざわざ充輝に声を掛けたのを見れば、一目瞭然だろう。

 清平が大きく頷くのを見て、充輝も腹に力を入れた。


「大江殿。このことは他に?」

「ああ。知る者はおらぬよ……貴殿のについてもな。有原殿すら預かり知らぬことである」

「承知つかまつった。全ては秘密裏にて、隠密どもと探りましょう」

「任せた」


 事情がわかり、肩の力をようやく抜いた充輝は、恨み言を放つ。


「はあ。まったく憂鬱で仕方がない」

「高階のと言えば、あちらこちらからふみが届くであろう? 大層もてて、羨ましいぞ」

「喜んでお譲りいたしましょう」

「いや、いや、結構。女子おなごの心ほど、複雑で厄介で恐ろしいものはないよ」


 笑って去っていく左大臣は、『代替わりしたばかりで青臭い』という噂でもって、あえてその牙を隠している。

 その背中を見送る充輝は、先程までの鋭い視線を思い出し、身震いした。


「やれやれ。返事ひとつでも間違えたら、牢屋行きであったかな」


 さすがに酒を、飲みたくなった。

 

 

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 お読みいただき、ありがとうございました。


 下襲したがさね……男性の衣装で、後ろに引きずっている長い布のことです。

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