五話 影で渦巻く
翌日、翌々日と世話をする内、琴乃はだんだんと焔と話をするのが苦ではなくなっている自分に気づいた。
但しそれは充輝がいれば、という条件で、である。
ある朝のこと、陽炎殿を訪れた充輝が、すまなそうに告げた。
「巫女殿。今日、我は所用あるゆえ、少しばかり離れる」
巫女服の着付けが終わるのを部屋の外で座って待っている充輝は、いつもの狩衣姿ではなく、
「所用、でございますか」
「
と眉尻を下げながら言う。
空見殿は、清涼殿よりさらに南にある、
「儀、とは」
支度が終わって
「年初めの儀である。そうだな、簡単に言えば、偉そうなジジイどもの集まりに、顔を出さねばならぬ」
「まあ」
が、たちまち眉根を寄せる。
「巫女殿は、賢く優しい。何があろうと、陛下のお心が安まるよう、お側にいてくれるか。辛いこともあろうが、我も尽力しよう」
「高階様……私で勤まるのであれば」
「頼む。さあさ、途中まで送ろう」
立ち上がった充輝が女官へ左手を差し出すと、女官は表情を曇らせつつも床に両膝を突き、巫女の面布を手で捧げ持つようにする。
「
琴乃は、充輝がこうして毎度、自らの手で面布を着けるのを止めないので、内心困惑している。
「なに。これも我が
「まじない?」
「
「……はい」
琴乃は未だ、禁中がなんたるかを知らない。
ただひたすらに充輝を信じることしか、できなかった。
❖
年初めの儀は、新たな年を祝い、繁栄を祈る。
上級貴族が集まって
竜皇不在の、無礼講である。
ここで交流を深め、以降の権勢を共にするか。
牽制して
年初めの祝いの席であっても、どろどろとした人同士の欲が交錯する、顔合わせの意味合いが強い。
充輝は、気安く声を掛けてくる者の顔と名前に全く興味がないのを悟られないよう、かろうじて愛想笑いを返す。
だが、右大臣である
「これはこれは、高階の」
「ご無沙汰をしておりまする」
宴の
「うむ。その
石上はグフフなどと妙な笑いを漏らしながら、
「その威厳、我には得られようもございませぬ」
充輝の答えは、満足のいくものであったのだろう。石上はわざとらしいぐらいに眉尻を下げ、すすすと
「ぐふ。実はそこの几帳に我が娘が来ておる」
確か、石上にはひとり娘がいたな、と充輝は記憶を辿る。
「高階と話がしたいと言うておってな」
文も歌も交わしたことのない女性相手に何を、と充輝は困惑を必死に隠す。もっとも、誰から来ようと全て受け取らず、突き返しているのだが。
「我と、ですか」
「几帳越しなら、良いだろう?」
良くない、とは言えない。相手は右大臣である。
「……後ほど、ご挨拶に伺いましょう」
かろうじてそう言うと、石上は上機嫌になり「ほおお! そうかそうか。
「春姫……確か巫女殿と同い年であったな」
独り言をぽろりと口からこぼす充輝の頭上から
「高階の。あちらで話せるか」
と囁く声がする。
「大江殿」
今度の充輝は、深深と頭を下げ、両手も床に突いた姿勢である。相手は左大臣・
「ついてこい」
「は。お供いたします」
酒に歌に踊りに興じる
人払いされた室内で、
「急に、すまぬ」
「いえ……」
「石上に声を掛けられていたのを見て、焦ったのでな」
清平のこれは、腹芸ではない。
何かしら深刻な事態が起きていることを察した充輝は、あえて一呼吸置いてから、説明をする。
「春姫殿へ挨拶をしろと言われました」
「やはりか……」
たちまち眉根を寄せる清平は、顔色が悪い。
「大江殿、お身体は」
「はは、陛下の苛烈な儀式で受けた傷が、痛むだけだ」
「ご機嫌が悪うございましたからね……あの日の陛下を見れば、武芸に秀でた者すら裸足で逃げ出しましょう」
巫女と
「私ごときで受け止められたなら、本望だな」
力なく笑う清平の、束帯の襟元からのぞく首には、包帯が巻かれている。酷い
「ところで高階の。私の隠密は優秀でな」
清平が、ぐっと腹に力を入れた様子で、充輝をまっすぐに見つめる。左大臣はこの国の全兵力を
「存じております」
「火の巫女は元々、春姫であったと報告があった」
「……陰陽寮の星読みと方位占いでもって、巫女は選定されるはずです」
充輝の答えに、清平はフッと息を吐いた。当然だと言わんばかりだ。
「だがな。春姫に想い人ありて。陛下へ生涯を捧げることを
「喋れぬなら断るまいとの算段ですか。浅はかな……その想い人とやらが、我であると先程判明した、と言うわけですね」
右大臣がわざわざ充輝に声を掛けたのを見れば、一目瞭然だろう。
清平が大きく頷くのを見て、充輝も腹に力を入れた。
「大江殿。このことは他に?」
「ああ。知る者はおらぬよ……貴殿の
「承知つかまつった。全ては秘密裏にて、隠密どもと探りましょう」
「任せた」
事情がわかり、肩の力をようやく抜いた充輝は、恨み言を放つ。
「はあ。まったく憂鬱で仕方がない」
「高階のと言えば、あちらこちらから
「喜んでお譲りいたしましょう」
「いや、いや、結構。
笑って去っていく左大臣は、『代替わりしたばかりで青臭い』という噂でもって、あえてその牙を隠している。
その背中を見送る充輝は、先程までの鋭い視線を思い出し、身震いした。
「やれやれ。返事ひとつでも間違えたら、牢屋行きであったかな」
さすがに酒を、飲みたくなった。
-----------------------------
お読みいただき、ありがとうございました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます