六話 陰陽師と巫女


 琴乃が巫女として清涼殿に出仕しゅっししてから、充輝がいないのは初めてのことだった。


「……」

「……」

 

 何年も言葉を話せなかった琴乃にとって、会話をしないということは全く苦ではない。だから、焔が何かを言うでもなくゴロゴロしていても、指差しだけで茶をねだっても何とも思わず、淡々と世話をするだけだ。


 その世話も、病人である弟の五典いつのりに比べればはるかに楽であった。

 床上げなどの力仕事も、汚れた布を冷たい水で洗うこともない。

 香を焚いたり、お茶を淹れたり。簡単な掃除をしたり、筆やすずりを整えたり。竜人は食事が不要なので、料理を運ぶこともない。唯一、洗髪だけが大仕事だった。


 この日も、米のとぎ汁が入った桶に浸した手拭いで、あぐらをかく焔の背後に膝立ち、髪の毛を少しの束ごとにゆっくりと丁寧に拭いていた。

 無言で淡々と拭いては絞り、絞っては拭くを繰り返す。そんな作業を、琴乃は楽しんですらいる。


「……変な人間」


 唐突に焔が呟いたので、琴乃は手を止めた。


「わたくしのことですか?」

「他に、誰がいる」


 それもそうだ、と琴乃は再び手を動かした。焔の黒い髪も赤い髪も、手入れをすると絹糸のように美しく輝き、思わず見惚みとれる。


「……変、でしょうか」

「文句も言わず世話するのは、おまえぐらいだ。俺の知っている人間どもは、代わりにあれしろこれしろと言ってくる。そんな阿呆あほうに何を願われても、叶えてやらん」


 琴乃にも、今すぐ水ノ竜に会わせて欲しい、そして弟を治して欲しいという欲が渦巻いている。が、相手は竜皇だ。簡単に言えることではないと必死に自制し、時を待っているに過ぎない。

 

 自分は他の人間と違わない、という罪悪感が湧いた琴乃は、同時に絶望感にも襲われる。


(願いは、叶えてもらえない……五典いつのり……)


 促されるままここまで来た。それでも、ひょっとしたら弟を治してもらえるかもしれないというわずかな希望にすがった。こうして目の前にある仕事に集中することで、現実逃避していることには自覚がある。


「……うぐ」


 失望で動きを止めていた琴乃の前で、突然焔が苦しげに呻いたかと思うと、

「ちっ、どけ!」

 焔は振り向きざま、琴乃の横腹を腕で薙ぎ払うようにした。


「ぎゃ!」

 

 琴乃は咄嗟に踏ん張ろうとして巫女装束の裾を踏み、が破れるビリッという音を聞いた。


「い、た……!」


 ハッと気づいた時には、部屋の端まで吹っ飛んでいる自分に驚く。

 

 室内を見渡せば、琴乃にぶつかって倒れたと思われる几帳きちょうの柱が御簾みすを破り、濡れ縁にその先端を出していた。


 琴乃は柱に腰を打ちつけたのか、痛みのあまり声が出ず、身じろぎすらできない。

 そのような酷い仕打ちを受けてもなお、琴乃は焔を心配していた。


(苦しそうだわ!)


 目の前の焔は口角から牙をのぞかせ、唾液を泡立たせ、狩衣の袖で左頬を押さえている。

 赤くただれているところだと思い至った琴乃は、痛みも忘れて飛び起き、部屋の隅にある唐櫃からびつの蓋を強引に開ける。螺鈿らでん細工の大変高価で貴重な物であり、取り扱いには充分注意するよう言われていた代物であるが、今の琴乃にはそんなことにかかずらう余裕はない。


(あった!)


 時々焔の頬に塗る薬が入った、土焼きの黒い壺は、手のひらに載る大きさだ。


「陛下!」


 琴乃はそれを手でわし掴むや、振り返った。

 

 焔は床に四つんいになって、唾液をだらだらと垂らしながら苦悶の表情で呻いている。

 真冬だというのに、部屋の温度がぶわりと上がった。


「!? 陛下!」

「く、るな……」

「これを!」


 焔は目だけで琴乃の手の中を見ると、微かに口角を上げた。


「……んなもん……」

「塗ります!」

「くるなっ!」


 焔の怒声を無視して、琴乃は狩衣の背に触れる。途端に――


「あつっ!」


 じゅわ、と右の手のひらが

 たちまち、皮膚の焦げる臭いが立ち上る。それでも琴乃は果敢に、四つん這いの焔の左肩を持って起こそうとした。


 じゅっと鈍い音がしたと思うと、臭いだけでなく煙までもが、琴乃の手のひらから出始めている。


「さわんな!」

「ぐっ、でもっ」

 

 助けようと必死になっている琴乃は、何か他に方法はないか、人を呼べないかと視線を泳がせる。すると破れた御簾の向こう、玉砂利の敷かれた庭に人の影が見えた。


 焔も気づいたようで、牽制のためかすぐさま

「だれだ!」

 と叫ぶ。


 ――人影が、人間の形になった。

 

「おやまあ。危機を察知して駆けつけたというのに、冷たいですねえ」


 のんびりとしたような男の声が、琴乃と焔の耳に届く。

 

阿萬あまん……!」

「はい、陛下」


 焔に阿萬と呼ばれた男は、剃髪ていはつに狐顔で目尻に紅を引いている。鈍色どんじきほうは同色の僧綱襟そうごうえりがついていて、五条袈裟ごじょうげさを掛けたまさしく『坊主』だ。左手で何かの形の印を作った阿萬は、素足に草鞋わらじのままどかどかと濡れ縁に上がり室内に入ってくる。


 やがて焔の前へ無遠慮に片膝を突くと「オン コロコロ センダリマトウギソワカ」と不思議な呪文を唱えた。

 琴乃は焔に寄り添い、火傷の痛みに耐えながら、その異様な光景から目を離せないでいる。

 

「相変わらず、うさんくせえ坊主だな」


 言葉と反対に、焔の苦しみは多少引いたらしい。のろのろと四つん這いからあぐらの姿勢になり、憎まれ口を叩く余裕が出たのを見て、琴乃はようやく全身から力を抜いた。

 

「酷い仰りようですねえ。ま、それでも効いたんなら、いいですけどね」


 阿萬はよいしょと派手な掛け声でもって琴乃にも膝を向けると、

「さあさ、貴女も」

 今度は琴乃の両手の甲を支えるように持ち上げ、手のひらを上に向けるようにする。それからまた同じ、呪文のようなものを唱えた。


「オン コロコロ センダリマトウギソワカ」

  

 歌うような阿萬の声に耳を傾けると、手のひらの赤みが目に見えて引いていく。琴乃は感謝の言葉を述べたいが、驚きのあまり言葉が出ない。喋れない琴乃に阿萬は微笑み、両手を優しく握りしめるようにした。


「礼には及ばぬよ。後で塗り薬をお塗りなさい」


 素直に頷く琴乃にもう一度微笑んでから、阿萬は手を放し再び焔へ向き直った。土足のまま正座の姿勢で、両手は膝の上に乗せかしこまっている。

 

「さあて陛下。激しいさわりが出たご様子。……ああそうか、今日は年初めの儀でしたねえ。なにやら欲がドロドロと渦巻いておりますゆえ、致し方なきことかな。ふふふふ」

「面白がってんじゃねえ」


 焔が唸っても、阿萬には意に介する様子がまったくない。それどころか、平気で無視している。

 琴乃はその豪胆さに圧倒されていた。

 

「護衛はどちらへ? あ、狸に呼び出されたんだったかな」


 ひとりごちる阿萬に返事するかのように、琴乃にとって最も安心できる声が、ドタドタという足音と共に聞こえてきた。

 

「なにごと⁉︎ ……阿萬殿っ、これは一体」


 朝見た武官束帯そくたい姿のままの充輝を見て、琴乃はホッと息を吐いた。着替えることなく来てくれたのだから、本当に急いで駆けつけたに違いない。一方の阿萬は、さきほどまでの空気はどこへやら、厳しい言を発した。


「遅いぞ少将。陛下に障りが出たゆえ、たった今抑えたところだ」

「っ、それは、かたじけなし」

「巫女殿も怪我を負ったゆえ、それの件は不問に」


 阿萬の鋭い視線は、割れた螺鈿細工の上にあった。焦った琴乃が割ってしまった、唐櫃の蓋だ。


「……わかった」


 充輝は、立ち上がった阿萬へ軽く頭を下げる。それに頷いて応えた阿萬は、 

「狸が騒いだら、拙僧せっそうの名を出すがよい」

 と眉尻を下げた。

 

「端々までのお気遣い、痛みいる」

「なに、なに。巫女殿へ恩を売りたいからな」


 阿萬はへたり込んでいる琴乃を振り返り、口角を上げた。


物部もののべ阿萬あまんと申す。普段は陰陽寮おんみょうりょうにいるゆえ、いつでも遊びに来るがよいぞ」


 琴乃も名乗ろうとしたが、焔の言葉で阻まれた。


内裏だいりからは出さん

「おや、そうでしたかぁ。残念無念。ではでは、拙僧はこれにて」


 ぺしぺしと髪の毛のない頭頂部分を自分の手で叩くと、阿萬は来た時と同じように無遠慮に濡れ縁を歩き庭へ降り、ザクザクと砂利を鳴らしながらあっという間にどこかへ去っていった。


「……大丈夫か、巫女殿」


 充輝が、焔より先に自分を気遣うのがおかしく、琴乃は思わず微笑む。

 

「はい。阿萬殿のまじないのようなもので、治していただきました」


 琴乃が充輝に向かって手のひらを見せると、充輝はまるで自分が怪我をしたような、痛々しい顔をした。

 琴乃からすると、確かにじくじくと熱を持ってはいるものの、火傷を負ってすぐよりはだいぶマシである。どちらかというと、焔に吹っ飛ばされた時に打った腰の方が痛い。


「とにかく巫女殿に大事なくて良かった……障りであれば、陰陽師の術で多少治りはするが、油断せず冷やして薬を塗ってくれ。あとで布を巻こう」

「はい。あの、『障り』とはなんでしょうか?」


 琴乃の問いには、焔がぶっきらぼうに応えた。


「知らなくていい」


 ――少しは焔へ近寄れた気になっていた琴乃を突き放すには、充分な一言だった。



  

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 お読みいただき、ありがとうございました。


 螺鈿細工……漆塗りに貝、裏側の七色に輝く部分などを埋め込む細工のこと。

 陰陽師阿萬の服装……陰陽師といえば烏帽子に狩衣ですが、阿萬はあえての坊主袈裟姿です。

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