三話 初対面、険悪にして


 琴乃ことのが禁中の『陽炎殿』に入ってから、二日が経った。

 

 翌日に七日節会なのかせちえを控え、最低限の振る舞いを少将である充輝みつきから教育されている琴乃は、未だ身の回りの世話をする女官たちの存在にすら慣れることができずに過ごしていた。


 朝比奈の家では五典いつのりを世話する側だった琴乃からすると、自分が世話をされる立場になったとは、なかなか受け入れ難い。自身の役目があやふやなままなら尚更である。

 

 かといって、話すことができない琴乃は、誰かに質問することもできない。とりあえず、眼前に差し出されるものを粛々と行なっていくだけで、情けないと思っていた。


 自室で礼や所作を何度も繰り返し練習している琴乃を励ましに、少将の充輝が足げく通っていることが、かろうじて琴乃の精神を平穏に保っていた。


「心配することはない」


 何かにつけて琴乃の心情を気遣う充輝が、琴乃を慰める。


「火の巫女は、竜皇陛下となられた火ノ竜・ほむら様の側付きとなり、身の回りの世話をする女官のこと。正式に任に就くことを認める儀式七日節会が終われば、竜語を話せるようになるはずだ」


(私が、火の巫女……竜語?)


 なんだろう、と首を傾げる琴乃に、充輝は丁寧に説明を始めた。

 

「竜皇陛下は、天から遣わされた竜人様であらせられ、普通の人間では会話をすることができぬ。陛下を補佐する三役も竜人様であるからして、内裏だいりの奥深く入る巫女なれば、竜語が身につくさだめだ」


 理解も納得もできないが、今は流されるしかない、と琴乃は大きく息を吐いてからひとつ頷く。知識としては得たが、目の当たりにしなければ実感はできないだろう。


 この日は、七日節会で着る衣装も合わせた。

 

 火の巫女の正装は、上等な絹で織られた白衣びゃくえに、同じく白地に銀糸で空駈ける竜の刺繍が入れられた千早ちはやを羽織り、緋袴ひばかまを履く。

 顔には、耳の上から顎までを覆うように着けられる緋色の面布めんぷ。長い黒髪は、後ろでひとつ結びにされた後、毛先を緋色の垂髪すいはつ袋へ入れられ、元結には白色の丈長たけながが蝶のように結ばれている。

 手には赤紐の先に鈴の付けられた檜扇ひおうぎを持たされ、歩く度にシャンシャンと鳴るのが、琴乃にとって一番憂鬱であった。


(ここに居るって、知らしめながら歩けということ⁉︎)


 内心嫌気が差している琴乃のことなど知らぬかのように、

「ふむ。所作など問題なさそうだ。よく覚えてくれた」

 一通りの動きを確認した充輝が満足そうに頷く。


 彼の左目を覆う眼帯は、黒布の上に水色の糸で何かの文字が刺繍してあるが、読めない。なんと書いてあるのか気になった琴乃がじっと見つめると、充輝はフッと自嘲の笑みを浮かべた。


「これが気になるか。なあに、ただのだ」


 ぺろりとめくって見せた眼帯の下には、縦に走る一条の傷跡がある。皮膚がひきつれて瞼は閉じたままの、明らかに刀傷である。整った顔立ちであるから、余計に目立つ。


「昔、ちょっとな」


 いたずらっぽく笑いながら眼帯を戻す充輝を見て、たちまち琴乃は申し訳ない気持ちになり、深々と頭を下げた。

 ところが充輝はぽんとその肩を叩き、顔を上げるように促し微笑む。


「良い、気にするな。傷は受けたが、剣の腕は確かだぞ」


(なんとお優しいお方)


 見知らぬ場所に一人で放り込まれ、毎日が不安に押しつぶされそうな琴乃にとって、充輝は一条の光のようであった。


   ❖


 七日節会なのかせちえは、夜の明けきらぬ暁から始まった。

 

 日のない、墨を塗り込めたような闇の中では、陽炎殿の簀子すのこからのぞむ庭の灯台や篝火かがりび、女官たちが手に持つ紙燭しそくだけが頼りだ。女官に両袖を持たれ導かれるようにして、琴乃は静かに部屋から簀子へ一歩踏み出す。


 シャン、と檜扇に付けられた鈴の音が暗がりに鳴り響いた。


『巫女として最初に目に入る存在は、竜皇陛下でなければならない』という建前で行われるこの儀式において、琴乃は目を閉じたまま歩かなければならない。


 暗闇を歩き、俗世との縁を切る意味もあるに違いない――などと思い至った琴乃の背筋に、ぶるりと悪寒が走る。年が明けたばかりの気候は、冬。これは寒さからだ、と肩に力を入れてみるも、しんしんと降る雪が庭に積み重なっていく音さえ聞こえるような静寂に、一層孤独感は増していく。


 ぱちぱちとぜる篝火の中のまきだけが、人の世にいると思わせてくれるようだ、と琴乃はひたすらにその明るい音へ耳を傾ける。


きざはしがある」


 斜め前方から充輝の静かな声が聞こえ、ようやくホッとした。


(一、二、三、四……五)


 数えながらゆっくりと四段降りると、ひんやりとした足裏の感触と共に、砂利が鳴った。外に降りたと分かるや否や、袖を持っていた女官たちの気配がするりするりと消えていく。

 目を閉じたままじっと立っていると、ジャ、ジャ、と音を立てて誰かが近づいてきた。


「火の巫女になる者よ」


 聞き慣れない、低くねっとりとした男の声が、数歩先でおごそかに告げる。


俗世ぞくせけがれをはらう。あらゆる呪い、縛りもだ」


 たちまち両側から人の気配がしたかと思うと、頭上で何かがバサバサと鳴った。体中が何か温かいものに包まれる気がし、人の気配がなくなるとともにその感覚もなくなる。

 

 事前説明では、陰陽師たちがここで御幣ごへいと呼ばれる、木の串の先に紙垂しで――雷に似た形に折られた白い紙――が左右対称に付けられたものを振って、穢れを祓うのだと聞いた。


(だからといって、なんということもない)


 ここまで、ああしろこうしろと言われたからやってきただけの琴乃からすると、ただの行為でしかなく、意味がない。

 

 バサバサという音が止むと、今度はジャリジャリと人が歩く音が鳴り響く。誰が何人、どこから来てどこへ行くのかなど、琴乃には知らされていない。ただただ、黙って立っていろと言われていた。

 

五典いつのり……元気かしら)


 目を閉じた状態で終わるまで動かないことしかできない琴乃は、底冷えのする寒さに怯み、家へ置いてきた弟へ思いを馳せた。

 病人にとってこの気候は、命を奪いかねない。

 前の年も、必死に布団をかけたり炭櫃すびつの手入れをしたり、大変だったと思い返していた。


 と――


「目を開けろ」

 

 突然、硬い男の声がする。先程のとはまた別の、やはり知らない声だ。

 

 驚き戸惑いつつも、琴乃が言われた通りに目を開けてみると、目の前に男がひとり立っていた。

 

 緋色の狩衣の中に黒衣と黒袴を身に着けたその男は、烏帽子えぼしを被っておらず、頭から短いが枝分かれをした、黒い鹿の角のようなものが生えている。目の色は赤く、白目部分は黒い。左頬の半分が赤くただれており、紅をひいたような口角からは、牙のようなものが覗いている。

 男性の髪は、もとどりというまげを頭頂に結う決まりであるのに、この男はざんばらのままであり、全体的に黒髪だが顔に近い部分だけは赤い。


 琴乃は、黒以外の髪を、白黒以外の目を、角の生えた人間を――当然ではあるが、初めて見た。


「ば、け……えっ⁉︎」


 ばけもの、と言いかけて必死に口の動きを止めた琴乃だったが、すぐに自身が声を出した事実に驚いた。


「え? えっ⁉︎ 声、が……!」


 ひとり動揺している琴乃を、真正面から見ている男は

「ああ。巫女にからな」

 と傲慢ごうまんな態度で顎を上げつつ、なぜか蔑むような目線を琴乃へ向けている。


「ち。男に未練タラタラのしかいなかったのかよ。まあ、どうせ死ぬなら誰でもいいがな」

「え?」

「今お前、他の男のことを考えてただろ」

「おと……⁉︎ 違います! 弟です! 病気なんです!」


 琴乃の必死な主張にも男は意に介さない様子で、ザッザッと足音を鳴らしながら琴乃へ近づくと、琴乃から見て左横の至近距離で足を止めた。

 

「……ふん。俺には関係ない。とりあえず儀式は終わった。下がれ」


 告げるや否や、琴乃の背後にあるきざはしをトントンと上り建物に入ろうとする男の背中を、琴乃はしばらくポカンと口を開けて目で追った。

 それからハッと我に返り、

「下がれって……貴方いったい、誰なの!?」

 と言葉を投げかける。


 トン、と足を止めた男は、そんな琴乃を首だけで振り返って

ほむら

 とめんどくさそうに名乗ると、またさっさと歩き出し、建物の中へと消えた。


 きざはしの前で琴乃は

「ほっ、焔……って、竜皇陛下⁉︎ ……あっ、わたくし、名乗ってない……なんと、無礼なこと……ああっ」

 と独りごちると、たちまち絶望感でいっぱいになり、体中から力が抜け、雪で湿った玉砂利の上にどしゃりと両膝を突く。


「どうなされた⁉︎」


 迎えに戻ってきた充輝が声を掛けると、寒さに震える琴乃は両眼から涙を流していた。

 

 充輝が慌てて上体を起こしてやるが、琴乃の両の手のひらは泥にまみれ、衣服も雪でじっとりと冷たく重く濡れており――風邪を引いて三日寝込んだ。



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 お読みいただき、ありがとうございます。


 面布めんぷ……フェイスベールです。陰陽師などが着ける雑面ぞうめんと区別して、この物語では使用しております。耳の上から後頭部で紐で縛る無地の布。雑面は額から顔全体を隠し、顔のような文様を入れたもの。

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