どこから来たの

山瀬まよなか

どこから来たの

 気づけば、喫煙所にいた。私は二本指を手持ち無沙汰にさせながら、三本目の指から煙を出す人々を横目に見ていた。何も咥えず、ただ息をする私の姿はきっと、いやどう考えたって奇妙だった。でも、あの場にいた全員がそんなことには気づかず、煙草を短くしては満足そうな顔をして出ていった。その表情に羨望の眼差しを向けるが、私の体はこれを受け付けなかった。何かに依存することもできず、自立することもできず、ただ短くしては長くなる手の爪を睨みつけるたびにやるせなくなる。


「煙草、吸わないんすか」


 私の独白(あるいは自責)を遮ったのは、襟足を伸ばした細身の男だった。二十代半ばくらいだろうか。もしかすると、三十近いかもしれない。紺色のシャツを着たその男は、ただ一人、私の奇妙さに気づいていた。


「趣味じゃないの」

「じゃあなんでここにいるんですか」

「……なんでかしらね」


 私と男の間に、沈黙と白い煙が流れる。なんでここにいるんですか。その言葉が、ぐう、と私の心にのしかかる。


「一本いります?」

「趣味じゃないって言ってるでしょう」

「本当に趣味じゃないならこんなとこには来ないと思いますけど」

「うるさいわね」

「えぇー……」


 威嚇するように、差し出された煙草を一本奪い取る。追尾してきたライターを左手で制し、ただ咥える。わずかなミントの香りだけを感じる。


「それ美味いんですか?」

「空腹が最高のスパイスだっていうでしょ」

「メシじゃないんだから」


 男はくくく、と笑い、煙草を赤く光らせた。男に気づかれないように、副流煙に顔をしかめた。今日は夜風が強い。


 喫煙所のある屋上からは、人でごった返す道がよく見える。たぶん、星の数よりも多い。でも、みんな他人だ。縁も血も、何も繋がってはいない。小さく絶望する。こんなにも人がいるのに、結局私は一人ぼっちだ。きっとこれが、私がここにいる理由だ。この孤独から目を逸らすために、ここへ来た。


「東京の空って」


 男が空に向かって話し出す。


「星とか全然見えないんだろうなーって、上京するまでずっと思ってたんですけど、意外とそんなことないんですよね」

「何よ、突然」

「そう思いません?」


 私の困惑をよそに、共感を求めるようにこちらを向く。


「まあ、見えないことはないけど」

「ですよねー」

「というか、あなた東京の人じゃないのね」


 そう言うと、男は顔を煌めかせた。


「おれ東京の人に見えますか!」

「えぇ、とっても」


 男は、本当ですかー?と嬉しそうに言う。口角を上げながら、煙草の灰を落とした。


「どこから来たの」

「広島っす」


 聞き馴染みのある地名に、思わず驚いた。


「……うちの両親と同じね」

「え、広島出身なんですか?」

「私は生まれただけよ。住んだことはないわ」


 淡々と喋ろうとする私とは対照的に、男はふぅん、と気の抜けた返事をする。


「夏、早めに帰れるといいわね」

「そうですねー、色々ありますし」

「色々、ね」


 八月が近づくと、思い出すことがある。


 高校生だったときだ。その日は友達と遊びに行くために朝早くから身支度をしていた。鏡とクローゼットの間をせわしなく往復していると、母にリビングに来るように言われた。何が目的なのかも言わずに人を呼ぶ母に苛立ちを覚え、鏡とクローゼットの往復を続けた。時間になっちゃうよ、という母の声がした。何の時間なんだ、と変わらず苛立ちを覚えながらリビングへ向かうと、母は目を閉じてまっすぐ立っていた。そのとき、なぜだか突然はっきりと思った。私は同じじゃない、と。


 その日から、母と同じ方言を使うのをやめた。元々住んでるわけでもなかったから、話し方を変えることは容易かった。そのことは、私の孤独を少し深めた。


 物心がついたときには、縁もゆかりも無い場所に住んでいた。人生で一番長い時間を過ごした場所だから、愛着はある。けれど同時に、自分だけが別のパズルのピースであるかのような感覚もあった。この地に縁もゆかりもある子とは、何か決定的に違うものを感じていた。そこの方言も、使わなくなった。


「あ、すみません」


 男はスマホを取り出し、耳に当てた。しばらくすると、驚いたような表情をした。


「何かあったの?」

「えっと、その、じいちゃんが……」


 顔を白くさせながら、口をぱくぱくさせる。


「じゃあ、早く帰らなきゃいけないわね」

「そう、すね」


 男は灰皿に煙草を投げ入れ、リュックを背負い直した。


「あ、いきなり話しかけてすみませんでした!また、どこかで!」

「えぇ、どこかで。」


 想像よりもはやく遠くなってゆく背中を眺めていた。彼も結局また、他人だったのだ。他人の背中が見えなくなると同時に、他人にもらった煙草をゆっくり咥える。いつまで経っても、長いままだ。短くならない煙草を灰皿に押し込み、喫煙所を去る。錆びた階段を、こつこつこつ、と小気味よいリズムで鳴らす。地に足をつける。真っ暗な星空を見上げる。私も、他人になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どこから来たの 山瀬まよなか @YMS_MIDNIGHT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ