キューピッドのイヤホン
イヤホンを忘れたことに気づきて、私は絶望感と共に舌打ちをしそうになった。
平日の22時の田園都市線の車内からは、たくさんの音が聞こえてくる。耳から脳へ、大量の情報が流れていく。
ガタガタガタ。顔の筋肉がさ。もう帰っていいんじゃないですかそれ。次は、三軒茶屋に止まります。観に行こうと思ってて。ガタンゴトン。あ、そうなんですか。いわゆるプッシャーでしょ。葉っぱのさあ。
うるさくて死にそうだ。耳を塞いでうずくまりたい。これをあと20分も耐えなければいけないなんて、控えめに言って地獄だ。
それもこれも、2ヶ月前に買ったイヤホンが悪いのだ。フル充電で16時間継続と書いてあったのに、8時間くらいしか保たないから。今朝も通勤途中でバッテリーが切れてしまい、仕方なく昼休みに会社のデスクで充電して……そのまま忘れてきてしまった。
本日も東急田園都市線をご利用いただき、ありがとうございます。明日も仕事でしょ? だからさあ。
私はスマホを無為にいじりながら、心の中でイヤホンを呪った。無機物に呪いがかかるかどうかはわからないし、万が一かかって壊れたら困るのは私自身だが、呪わずにはいられなかった。
まもなく、三軒茶屋です。6時前にさ。世田谷線はお乗り換えです。あ、私ここです。お疲れ様です。
不意に耳に飛び込んできた声に、私はハッとした。
今の声──。
プルルルル。
「降ります!」
気がつくと、私は叫んでいた。
プルルルル。お疲れー。俺もそこ行ったことある。お荷物お身体お引きください。ドアが閉まります。
「すみません、すみません、降ります!」
迷惑そうに顔を顰める人々を押しのけて、私はドアの閉まるギリギリでホームへと駆け降りた。
プシュー、と後ろでドアの閉まる音を聞きながら、私は数歩先を歩く黒髪の女性の背に向かって叫ぶ。
「綾乃!」
一度では気づかれなかったが、再び「待って、綾乃!」と言うと女性は振り返った。
「……え、うそ、里香?」
「あーやっぱ綾乃だったー!」
「えー! 久しぶりー!」
明るい声を上げた綾乃は、大学時代から変わっていなかった。長い黒髪と伸びた背筋。高い鼻、綺麗な瞳。私が恋したあの日のまま、変わらずに美しい。
私は心の中で、デスクで過充電になっているだろうイヤホンに向けて喝采を送った。
グッジョブだニューイヤホン。ありがとう。お前はキューピッドだ。呪いは撤回する。
1000字ショートシリーズ 羽衣麻琴 @uimakoto
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