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「ええっ!」


 絵里香の顔が、赤くなった。


「わ、私?」


「ええ。今日、鳥越さんはワタシに恋愛について教えてくれました。ワタシはいろんなことをワタシに学ばせてくれる人にメリットを感じます。だから、先生にも、クラスのみなさんにも、魅力を感じていることになります」


「……」


 ”そういうことじゃないんだけどなぁ……”


 そうは思ったものの、ワカにどう説明したらいいものかわからず、絵里香は口ごもってしまった。


「あれ、鳥越さん、ワタシ、何か間違ったことを言ってますか?」


 この頃、ワカは人の表情でその人のキゲンがいいか悪いかを見抜くようになっていた。今も絵里香が納得していないことを彼女の表情から読み取り、自分が間違ったことを言ったのではないか、と考えたのだろう。


「そう……ね……」しばらく考えて、ようやく絵里香は口を開く。「あのね、ワカ、恋愛ってね、好きな人は普通は一人なの。たった一人の、特別な人」


「その人は、どんなふうに特別なんですか?」


「それは……」


 これまたやっかいな質問だ。絵里香は頭を抱える。私にとって、リョウくんは何が特別なんだろう。


 とにかく、彼は自分にとって、何もかもが好みなのだ。顔も体型も声も話し方も、全部。ここまで自分の好みのものがそろっている男性は、彼以外にいない。絵里香がそう言うと、ワカはさらに食い下がってきた。


「好み、というのは、鳥越さんにとってメリット……都合のいいものを与えてくれるから、好みなんですよね? では、そのリョウくんという人が与えてくれる、鳥越さんにとって都合のいいもの、っていうのは何なんですか?」


「え……」


 そう言われてみると、絵里香もリョウくんが好きなことで何が自分にとって都合がいいのか、なんて考えたことはなかった。別にリョウくんは自分に何かプレゼントをしてくれるわけでもないし、何かを手伝ってくれるわけでもない。何にも都合のいいことなんかないのに、なんで私はリョウくんが好きなんだろう。


 ……いや、そんなことはない。絵里香は思い直す。そうだ。リョウくんの顔を見るだけで、胸がキュンとする。彼の歌を聴いていると、とてもいい気分になる。彼の話を聞いていると、とても楽しくなってくる。そういうところだ。物とかじゃなくて、心に働きかけてくる。それが自分にとっての都合のいいもの……メリットなのだ。


 そんなふうに説明すると、なぜかワカは黙り込んでしまった。そして、しばらくしてから笑顔になる。


「わかりました。恋愛は人間にとって、精神的なメリットがあるものなんですね。ワタシは人間の心の働きについてはまだ良く分かっていません。だから、恋愛というものがどういうものなのかも、良く分かっていません。だけど、鳥越さんのおかげで、ちょっとだけ分かったかもしれません。ありがとうございました」


 そう言って、ワカは絵里香に向かって頭を下げる。


「な、何言ってんのよ……そんな、お礼を言われるようなことは何もしてないから」


 絵里香の顔に、再び赤みが差した。


「いいえ、そんなことはないです。とても勉強になりました。ワタシは、鳥越さんにラブかもしれません」ウィンクしながら、ワカ。


「バ、バカ! もう、からかわないでよね!」


 絵里香の顔は、もう熟したトマトみたいになっている。


「もしかして、鳥越さんもツンデレなんですか?」


「違うから!」絵里香のツッコミが素早く返った。


 ”もう……なんでこんなことになっちゃったんだろう……”


 深呼吸し、絵里香は落ち着きを取り戻す。


「ねえ、ワカ」


「なんですか、鳥越さん?」


「その、鳥越さん、っていうの、やめない?」


「え、なぜですか?」


「このクラスはさ、みんな下の名前で呼び合ってるの。上の名前で呼ぶのは先生だけだよ。だからさ、私のことは『絵里香』って呼んで欲しい。私にラブなんだったら、なおさらそうすべきだよ。だって、恋人同士なら下の名前で呼び合うのが普通だから」


「わかりました。絵里香さん」


「そう。よくできました」


 そう応えながら、絵里香はふと、ワカに「絵里香」と呼ばれたときに、ちょっとだけドキリとしたのを感じていた。リョウくんに初めて出会ったときと、同じような……


 ”ま、まさか……私、本気でワカのこと……?”


 いやいや、そんなことはない。絵里香は思い直す。だって、ワカはリョウくんとは似ても似つかない。そもそも男子なのかもわからない。人間ですらないのだから。


 でも……


 プール授業の時のワカはとてもかっこよかったし、今だってワカと話してると、とても楽しかった。こんなふうに仲良く会話するなんてことは、リョウくんには絶対に望めない。


 その時だった。


 廊下をドタドタと歩いてくる足音が聞こえてくる。グラウンドで遊んでいたみんなが帰ってきたのだ。もう昼休みも終わりだった。


「それじゃワカ、またね」


 手を振ると、あわてて絵里香は自分の席に戻る。


---


 その日の放課後。


 ウサギ小屋の前でグスングスンと鼻を鳴らして泣いているのは、4年女子の木浦きうら 奈緒なおだった。その横で、5年女子の河内かわち 優里ゆりが彼女をなぐさめているようだ。優里は楓が一番仲良しの女子だった。


「優里ちゃん、どうしたの?」


 帰ろうとしていた楓が声を掛けると、優里が顔を上げる。


「あ、楓ちゃん。実はね、ピョン太がいなくなっちゃったの」


「ええっ!」


 ピョン太は学校で三羽飼ってるウサギの中で、一番若くて元気がよかった。楓は思い出す。そういえば、優里ちゃんも奈緒ちゃんも、ウサギの飼育委員だったっけ。


 優里の話では、どうやら奈緒がウサギの世話をした後で、小屋の扉の鍵を閉め忘れたらしい。それで、帰り道の途中で気づいて引き返してみたら、ピョン太の姿が見えなくなっていた、という。


「なにやってんの? こんなところで」


 やってきたのは瑛太だった。


「あ、瑛太、実はね……」


 楓が説明すると、瑛太はまゆをひそめる。


「それは困ったなあ。優里、先生に言った?」


「ううん。まだ」優里が首を横に振った。


「でも、言わないとだろうな。だけど、たぶんまだそんなに遠くに行ってないと思う。学校に残ってる子たちに声かけて、みんなで探そうよ」


「そうだ、ワカにも手伝ってもらおう」楓だった。「わたし、校長室に行ってくる!」


 言うなり、楓は校長室に向かってすっ飛んで行ってしまった。ワカは自分の家がないので学校で暮らしている。放課後から朝までは校長室のソファでスリープモードになっているという。


「それじゃ、ぼくは職員室に行って、先生に話してくるよ」


 瑛太がそう言うと、泣きじゃくっていた奈緒がいきなり顔を上げた。


「ダメ! そんなことしたら、あたし、怒られちゃう!」


「大丈夫だよ」瑛太は微笑みながら応える。「たぶん、こんなことで先生は怒ったりしないと思う。なんなら先生に、怒らないで、ってぼくから言っとくから」


「ほんとに? 瑛太さん」と、奈緒。


「ああ、ほんと」


「わかった」


 奈緒がうなずいたのを見て、瑛太は職員室に向かって歩き始めた。


---


 放課後と言っても、職員室にはほとんどの先生が残っていた。瑛太が事情を説明すると、飼育委員の顧問のはやし 菜津実なつみ先生が立ち上がって、


「すみません、お手すきの先生方、ご協力をお願いします!」


 と大きく声を上げる。


 たぶんこれで何人かの先生が助けてくれるだろう。林先生にお礼を告げ、瑛太は一足先に職員室を後にした。


---


 瑛太がウサギ小屋に戻ると、ワカがその場でしゃがんでいた。その横で楓もしゃがんでワカを見つめている。奈緒と優里は立ったまま、二人……というか一人と一台を見守っているようだ。


「どう、分かる?」


 楓が言うと、ワカが首を振ってみせる。


「確かににおいはあるのですが、匂いの種類までは分かりません。なので、どれがピョン太の匂いなのかも分かりません」


「どうしたの?」瑛太が問いかけると、楓が顔を上げる。


「ああ、瑛太。ワカにね、ピョン太の匂いをかがせて、逃げたあとを追わせようとしてたの。ひょっとしたらワカは人間よりも感覚が鋭いかもしれない、と思ってさ」


「ええっ? そんなことできるの?」


「ううん。ちょっと無理みたい。匂いの強さまでは分かるけど、どういう匂いなのかは区別が付かないんだって」


「ああ、やっぱそうか」


「やっぱって……知ってたの?」


「うん。前に父さんが言ってたんだ。一個の匂いセンサーだけでいろんな匂いをかぎ分けることは、今の技術じゃまだ無理なんだって」


 瑛太の父親は、中学の技術の先生。機械いじりが得意で、電化製品から自転車、車まで、壊れたものはなんでも自分で直してしまう。瑛太がメカや電子機器が大得意なのも、そんな父親の息子だからなのかもしれない。


「……そうなんだ」楓が少し悔しそうな顔になった。「確かに、今のコンピュータでも匂いや味って扱うのは難しいんだよね。映像や音を扱うのは得意なんだけど」


「うん。だからさ、ワカを警察犬の代わりにするようなことは……無理なんじゃないかな」


「そっかぁ……」


 楓がため息をついた、その時。


 林先生と若村先生が小走りでやってきた。


「ごめん。他の先生方はすぐには手が空かないから、とりあえず私と林先生で探すことにするね」息を切らせながら若村先生が言った。


「ピョン太がいなくなったのはいつのこと?」と、林先生。


「たぶん、30分くらい前だと思います」優里だった。「カギを閉め忘れたのに気づいて、帰ってきたらもういなかったんで……」


 林先生が少し困った顔になる。


「そう……だけど、ウサギはそんなに遠くに行かないと思うから、みんなで手分けして探しましょう。学校に残っている子どもたちにも声を掛けて、手伝ってもらわないと。ノラネコとかワシやタカに見つかったら、食べられちゃうかもしれないからね」

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