エピローグ モノクロの雪女

モノクロの雪女

 あれから1週間が過ぎた。


 あの日から雪の気配はあったが、見事に1週間持ちこたえた。

 結局、クリスマスを過ぎた。

 カップルはひどく残念がったことだろう。


 橙樺はカフェの厨房で嘆息した。


 あの日以来、那智がカフェを訪れることはなかった。

 エスプレッソとニューヨークチーズケーキの売れ行きはいまいちだった。


 日が暮れて客足が少なくなり、橙樺は何をするでもなく突っ立っていた。


 木製の壁や床、家具に染みついたコーヒーの古めいた匂い、換気扇から漏れる煙草の匂い、酒瓶から漂うほのかなアルコールの匂い。

 いつもの匂い。

 いつもの日常。


 私は短い夢を見ていたのね、と橙樺は思った。


 小説家を志す旅人と出会う夢。

 彼は橙樺を救ってどこかに行ってしまった。

 二度と会うことはないのに、さよならも告げずに。


「そろそろ片付けにかかるとするかね」


「はい」


 マスターはやっと重い腰を上げて煙草を灰皿に押しつけた。


 すると、ちょうどベルが鳴って客の来店を知らせた。


「いらっしゃい」


 マスターが気怠げに歓迎し、橙樺は何気なく厨房からドアの方を覗いてみた。


「藤波くん」


 そこにいたのは那智だった。

 夢が現実になったような、狐につままれたような――橙樺はそんな気分になった。


 那智はいつもの席に座り、エスプレッソとニューヨークチーズケーキを注文した。

 1週間の空白が何事もなかったかのように。


 水とおしぼりをテーブルに置き、橙樺は何も言わずに唇を柔らかく歪めた。


「ああ、ミルク入りのコーヒーとニューヨークチーズケーキを追加でお願いします」


「そんなに食べられるの?」


「俺の分じゃないですよ」


「もしかして、私の分?」


「ええ」


「でも……」


 橙樺はちらりとマスターを見やった。

 マスターは何も反応しなかったが、那智が注文したメニューの準備を始めた。


「この娘が男と話しているところを初めて見たよ。お兄さんには心を許したみたいだね。まあ、2人でティータイムを楽しみな。あんたたちが最後の客だ」


「ありがとうございます」


 那智は席を立ち、向かいの椅子を引いて橙樺に座るように勧めた。

 彼女は遠慮がちに腰を下ろし、マスクを外した。


 1週間ぶりに見つめ合う。

 あの日、改まった話をして別れたのが馬鹿らしく思える。


 針の抜けたヤマアラシと針の残ったヤマアラシ。

 2匹のヤマアラシは身体を温め合うために再び巡り合った。


「戻ってきてくれたんだ。もう旅立ってしまったのかと思ったわ」


「俺はどこにも行っていませんよ。ちょっと用事があっただけです」


「1週間も顔を出さないで、ちょっと? ねぇ、何をしていたの? 気になるわ」


「後で話しますよ。姫代さん、これから暇ですか?」


「ええ、暇よ」


「デートしませんか?」


「もちろんいいわ。また私のアパートに来る?」


「いや、今日は行きたいところがあるんです。天気予報は見ましたか?」


「いいえ。それがどうかした?」


「なんでもありません。夕食の代金は俺が払いますよ」


「あまり無理しないで。旅人はお金がないでしょう? いいのよ、私が払うわ。年上の面子があるもの」


「俺には男の面子があります」


「ふふふっ、それならお言葉に甘えさせてもらうわ」


 橙樺の満面の笑顔に胸がときめく。

 この笑顔を見るために左目があるのだと思う。

 この笑顔を見るために生きているのだと思う。


 俺が生きている価値は姫代さんの笑顔ほどもない。

 俺の命なんてそんなものだ。

 俺はちっぽけな存在だ。


 人間なんてそんなものだ。

 だから、人間は美しい。


 珍しくラジオはニュースを流していなかった。

 カフェの雰囲気をそれらしくしめやかにしたのは、キリンジの『エイリアンズ』。

 那智のお気に入りの曲だった。


「そういえば、白峰さんとはどうなりました?」


「ああ、おかげさまで久遠ちゃんとは仲直りできたわ。静かなレストランで話したんだけど、大声で泣き出すからびっくりしちゃった。でも、友達でいてほしいって言われて、私も思わず泣いちゃった。久遠ちゃんも苦しんでいたのね。私、知らなかった。ずっと久遠ちゃんは幸せなんだって羨ましがっていたけど、本当はそうじゃなかったのね」


「本当に幸せな人間なんてこの世界にはほとんどいませんよ。誰もが何かしらの不幸を抱えて生きています。それが人間ですから」


「うん、私もそう思う」


 積もる話をしているうちに、マスターがトレイでエスプレッソ、コーヒー、ニューヨークチーズケーキ二つを運んできた。


 橙樺はミルク入りのコーヒーをすすり、ニューヨークチーズケーキを上品にフォークで小さく切って口に運んだ。


「美味しい。コーヒーの苦さとチーズケーキの甘さがよく合っているわ」


「驚いたねぇ。あんた、ベジタリアンじゃなかったのかい?」


「ふふふっ、もうやめました。これからはなんでも挑戦することにしたんです」


「へぇ。あんたは変わったよ。お兄さんと出会ってから明るくなった」


 束の間のティータイムを過ごして、2人は顔を見合わせた。


 那智には橙樺の言わんとしていることが手に取るようにわかった。

 彼女の悪戯な笑みが全てを物語っていた。


 那智は腕時計の時間を執拗に気にしていた。

 彼には彼の思惑があった。


「マスター、姫代さんを借りてもいいですか? これから行きたいところがあるんです」


「勝手にしな。私もたまには働かないとね」


「ありがとうございます。姫代さん、行きましょうか」


「ええ。マスター、お疲れ様でした」


 那智はそわそわしながら外に出た。

 橙樺は厨房の裏のハンガーからチェスターコートを取って彼に続いた。


 外は夜の世界だった。


 夜色の空には確かに色があった。

 が、夜の色と闇や影の色の相違を説明しろと言われても、那智にはできそうもなかった。


 那智が足早に先を歩き、橙樺は彼から離れないようについていった。


 モノクロの世界はいつもより少しだけ明るかった。

 白と黒が鮮明に映り、その濃淡がはっきりしていた。


「ねぇ、どこに向かっているの?」


「着いてからのお楽しみです」


 那智は振り返りもせずにそう言い、人気のない道をどんどん進んでいった。

 階段を上り出した辺りから、橙樺はようやくここがどこだか見当がついた。


 そこは橙樺の特別な場所だった。

 東京の絶景を一望できる公団の屋上だった。


「今日はここでデート? 私は絵を描いて、藤波くんは小説を書くの?」


 金網越しの絶景を眺めながら、橙樺は物足りなさそうに言った。


 ここでのデートに異論はなかったが、何せ今日は寒い。

 太陽も沈んで暗くなり、東京も半分以上は影に蝕まれてしまっている。

 絵を描くにはいささか環境が悪い。


 しかし、那智もそれは承知の上だった。

 彼が1週間ぶりのデートの場所をここにしたのには別の理由があった。


「もう少し待っていてください。それより姫代さんに報告したいことがあるんです」


「報告したいこと? いい報告かしら?」


「はい。俺、小説家になれそうです。姫代さんの人生を書いた小説が出版されることになりましてね。この1週間、出版のために編集者と小説を改稿していたんです」


「本当? それはすごいわ。お祝いしなくちゃね。おめでとう」


「ありがとうございます。実は白峰さんにかけ合ってもらったんです。白峰さんがいなかったら、あの小説は出版できなかったかもしれません」


「そうなんだ。夢が叶ってよかったわね」


 視線を俯かせる橙樺。

 彼女の複雑な胸中を察するのも慣れてきた。


 姫代さんの夢はイラストレーターになることだ。

 色を認識できない全色盲の姫代さんは夢が叶わないと諦めかけているが、いつまでも諦め切れないでいる。

 俺ならその夢を叶えてあげられる。


「姫代さん、提案なんですが、小説の表紙の絵を描いてくれませんか?」


 開いた口が塞がらないといった具合に、橙樺は静止した。

 呼吸と鼓動まで止まってしまったのではないかと心配になったが、やがて彼女は震える声音で小さく呟いた。


「でも、私の絵には色がないし……未完成の絵を藤波くんの小説の表紙にするなんて……」


「姫代さんの絵は未完成なんかじゃありません。あれほど生き生きとしたモノクロの人間を描けるのは姫代さんしかいません。俺は姫代さんの絵がいいんです。お願いします」


「……そう言ってもらえるなんて嬉しい。本当に私の絵でいいの?」


「はい。表紙の絵は姫代さんの自画像がいいですね」


「ええっ! そんなの恥ずかしいわ!」


「でも、姫代さんの人生を書いた小説なんですよ? 表紙の絵は姫代さんがいいと思うんです」


「それはそうだけど……」


 すると、頬に何か冷たいものが触れた。


 那智はにやりと笑い、空を見上げた。


「雪だ」


「雪……」


 2人はそう呟いた。

 あまりにも息がぴったりだったので、互いにおかしくなって噴き出した。


「今日の天気予報、夜から雪だったんですよ。どうしても姫代さんと一緒に雪を見たかった」


「クリスマスは一緒にいてくれなかったくせに。でも、いいの。雪の降らないクリスマスはつまらなかったから。今日の方がよっほどクリスマスらしいわ」


 灰のように降り注ぐ雪を仰ぎながら、2人は涙を流した。


 今までは負の感情で涙を流してきた。

 喜びという正の感情で涙を流したのは初めてだ。


 生きていてよかった。

 姫代さんとこんなに美しい夜を一緒に過ごしているのだから。


「姫代さん、俺はあなたのことが好きだ」


 那智は涙をこぼさないように空を見上げたまま告白した。

 だから、橙樺の反応はわからなかった。


「これからもあなたと一緒に生きたい。男性恐怖症でも虹彩異色症でも全色盲でも構わない。障害だらけでも構わない。あなたに望むことは何もない。ただ、俺のそばにいてほしい」


「君がそう望むなら、私も同じことを望むわ」


 那智は思い切って両腕で橙樺を抱き寄せた。

 彼女が雪になって消えてしまう前に。


 那智の腕の中で橙樺は震えていた。

 那智は震えを落ち着かせるように柔らかく温かい身体を強く抱きしめた。


「私、小説の表紙の絵を描くわ。自画像は恥ずかしいけど、描いてみるわ。私、今まで自分に自信が持てなかったけど、藤波くんと出会ってほんのちょっとだけ強くなれた。もうマスクはいらない。もう右目を気にしない。もっとたくさん食べ物を食べてみたいし、おしゃれもしてみたい。私、君のおかげで人間になれた……! 私、君のおかげで幸せになれた……!」


 震えと嗚咽が押し合いへし合い、ぐちゃぐちゃになる。

 感情を心のミキサーにかけて、細かく砕いて、透明にして、それは涙となる。


 今、ヤマアラシの針は抜けた。

 寄り添い合っても、抱き合っても、もう互いを傷付け合うことはない。

 2人は人間になった。


 那智は右目の眼帯を外した。

 瞼を開いていても、その瞳は雪に白く彩られる橙樺と絶景を映すことはできなかった。


 橙樺は那智の右目を見てあっと声を上げた。


「綺麗な右目……何色の瞳なのかしら」


「さあ。俺にもわかりません」


 東京に白粉を塗る雪女。

 彼女は働き者で美しかった。

 彼女は言葉通り身を粉にして世界に化粧を施していた。


 夜が明ければ、鬱屈としたニュースが東京に降る。

 雪はその代わりをしてくれる。


 那智は雪が好きになった。

 同時に、両親を殺した雪を許すことにした。


「姫代さん、雪が溶けたら東京を出ませんか?」


「えっ?」


「どこか自然が綺麗な田舎で暮らしたい。姫代さんと一緒に」


「ふふふっ、素敵。いいと思う。私、田舎の風景を描いてみたいわ」


 モノクロの雪女は那智の手を取り、雪を弾きながらくるりくるりと回転した。


 彼女の世界はどこまでも白く色付いていた。

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モノクロの雪女 ジェン @zhen_vliver

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