冷たい右目10

「藤波くん」


 橙樺の声で目が覚めた。


 那智は額にかいた冷や汗をトレンチコートの袖で拭った。


 なんて甘美で奇妙な夢だ。

 雪女の化身はいつも消えてなくなってしまう。

 ある時は氷になって砕け散り、ある時は雪になって崩れ去り、ある時は溶けて水になってしまう。


 那智は橙樺の白い顔をまじまじと見つめた。


 まるで雪のように滑らかで穢れ1つない肌。

 永久凍土に埋没した宝石のような碧眼。

 極寒の海に咲き誇る珊瑚のような薄紅色の唇。


 ――橙樺は雪女の化身だった。


「藤波くん? どうしたの、ぼーっとして。寝ぼけているの?」


「少し。朝食はどうします? 俺、腹が減りました」


「私もよ。私は冷蔵庫のグリーンサラダを食べていくわ。藤波くんも一緒に来るでしょう?」


「どこにですか?」


「ふふふっ、まだ寝ぼけているのね。今日は平日よ。私、カフェに行かなくっちゃ」


「ああ、そうでしたね。あっという間の休日でした」


「ええ。藤波くんはカフェで朝食を取ったら? エスプレッソを淹れてサンドイッチを作ってあげるから。食後はニューヨークチーズケーキもあるわ」


 しかし、那智は表情を曇らせた。


 やがて那智は異色の瞳を見据えて穏やかに微笑んだ。


「藤波くん?」


「行きたいのは山々なんですけど、今日は用事があるのでカフェには行けません。朝食は適当に取ることにします」


「……そう。旅をしているのに用事があるの?」


「はははっ、ありますよ。特別な用事がね」


「ねぇ、明日も会える?」


「……わかりません。今日から少し忙しくなりそうなんです」


「そう。藤波くんにも小説家の夢があるものね。夢を追いかけているのは私だけじゃない。邪魔するべきではないわね」


 橙樺は那智の決意を悟った。

 ゆえに、これ以上追究することはなかった。


「姫代さん、あなたと出会えてよかったです。あなたのおかげで前に進めそうです。俺は立ち止まりすぎていました。傍観者でいるのはほどほどにしておきます。姫代さんはカフェのウェイトレス、俺は客。それでも俺は物語の当事者でした」


「私も藤波くんのおかげで前に進めるようになったわ。君と出会えて本当によかった。藤波くん、ありがとう」


「こちらこそありがとうございました。身体中の針は抜けました。もう誰も傷付けることはありません」


「針?」


「ヤマアラシのジレンマです」


「ふふふっ、そういうこと。でも、私の針はまだ抜け切っていないわ」


「いずれ全て抜けますよ。立ち止まらなければね」


 那智は立ち上がり、橙樺に背を向けた。


「さよならは言ってくれないの?」


「言いませんよ。また会えるかもしれませんから。姫代さん、あなたを一生忘れることはないでしょう。あなたは俺の記憶に深く刻みつけられた」


「私も絶対に君のことを忘れない。さよなら、藤波那智くん」


 那智は答えを返さずにコーヒーの香りが充満する部屋を立ち去った。

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