クラッシュ・アイス・ブルース

04号 専用機

先輩と後輩

 浴衣というのはそれほど涼しくない。

 そりゃ、昔の日本なら丁度いい格好だったろう。でも今や、真夏日にならない夏などないのだ。

 でも確かなこととして、夏というのは、暑いものだ。

 今も昔も、そこだけは変わらない。


 人混みの隙間を縫うように、女が一人歩いていた。

 そぞろに並ぶ屋台の明かりを興味なさげに見つめながら、時折そちらへ足を向ける。ほんのりと暖かな空気の中に入り込むと、女の纏う青い浴衣は一段と目立って見えた。

 何だか居心地が悪い。

「おっちゃん、一つちょうだいよ」

 ガサゴソと財布を探しながら、落ち着いた声で言う。

 一人かい、と屋台のオヤジが言った。いや、これから決めるのだ、と返す。

「後輩を探してるの。赤い浴衣の、これくらいのさ……」

 女は自分の肩あたりで手をヒラヒラとさせる。

「別に誘われたわけじゃないけどね。一人で寂しがってんじゃないかって」

 見なかったなぁと返されて、ありがとねと女が言った。

「シロップはイチゴにしてよ」

「あいよっ! 暑いからな、大盛りにしといたよ!」

「あーはは……うん……ありがと……」

 かき氷を受け取って、彼女は少し引き攣った笑顔を見せた。

 じっとしているわけにもいかず、人混みの中へと再び足を向けた。女は後輩の事を考えたが、夏祭りで誰か一人を探すとなると、相応の時間を食う。どうやらこのかき氷は、一人で食べることになりそうだ。

 そこらのベンチは満杯だった。夏祭りというのはこれだからいけ好かない。カップに入った唐揚げのように、ベンチの方もスカスカならいいのにと、女は毒づく。

 かき氷を一口食べてみた。

 冷たくて甘い。

 これから意味もなく頭痛に襲われることを考えて少し憂鬱になる。どうせ一人なのだから、何も苦手なものを買わなくて良かったのだが。それでも彼女にとって、手がかりを得るためには必要なものだ。

 夏祭りといえばかき氷だと言うのは、その後輩の言葉である。曰く、冷たくて甘くて、まさに夏って感じがするのだと。

 冷たいのが夏っぽいの? それってどっちかと言うと冬じゃない? なんて言うと、後輩は分かってないと呆れ顔を見せるのだ。

 夏にしか味わえないのだから、冷たいものは夏っぽい。

 それが後輩の言い分だった。

 なら、冷たい人だって、後輩にとっては夏っぽいのだろうな。

 先輩である彼女は、いつも後輩が連れていた男をぼんやり思い出していた。

 冷たい氷が腹へ落ちる。やはり食べられたもんじゃない。頭が痛くなってきたのに座れそうな場所は無い。仕方なく、私は木陰へ足を向けた。

「あーあ」

 悪戯がすぎると彼女は思う。

 喧騒から離れた木陰で、赤い浴衣を着た女が、一人泣いている。

 それを眺めながら、彼女はもう一口かき氷を食べる。

「女が死んでいる」

 蒸し暑い夜に、言葉が降った。


「それで、それで、酷いんですよアイツ。別に好きじゃないとかなんとか言って。あ、一口もらいますね」

「別に一口じゃなくていいよ。で、結局どうなったんだい?」

「それは……まぁ……」

 後輩は一通り愚痴を吐いたあと、まだまだ残っていたかき氷を奪い取って食べ始めた。

「他に女がいたそうです! 私というものがありながら! 遊びだったそうで!」

「それは、また、冷たい男だね」

「まったくです!」

 後輩の愚痴はなおも続く。

 かき氷を食べながら、その形相はまるで敵討ちだ。よほどフラれ方を根に持っているらしい。いつもの思慮深い彼女とは程遠く感じて、私は心配になって頭を撫でた。

「なんですか、アキラ先輩。慰めですか?」

「そうとってくれて構わない。私の可愛い後輩が、悲しくて泣いていたんだからね」

「気分がいいです。もっと撫でてくれて構いませんよ」

 呆れた顔で、先輩は綺麗な髪を撫でた。

「おーよしよし。辛かったねぇユリちゃん」

 後輩の手が止まる。

 真っ赤なシロップを見つめたまま動かない。

「私、何がダメだったんでしょう」

 その言葉に色は無い。少なくとも、シロップのような鮮やかさは。

「おや? もう相手を責めるターンは終わりかな?」

 アキラと呼ばれた女は、何のことも無さそうに返した。

 いつものことだ。少なくとも、アキラはよく見てきた。

 後輩であるユリが恋人と別れることも、相手より自分を責める人であることも、アキラはよく知っている。高校からの付き合いだが、アキラは、ユリのそういうところをいたく気に入っている。

「生産性がありませんから。それに今回は、遊びだったと理由がはっきりしています。心の内で責めることは別として、対策を練るべきだと判断しました」

「よろしい、それでこそ私の後輩だ。いつものように、結局相手を責めることがないよう祈っているよ」

 なんですかそれ、と不服そうなユリを見て、アキラはにっこりと笑う。

 特に何も言わずに笑顔を向けるだけ。ユリはそんな様子が気に入らなかったようだ。またがっつくようにかき氷を食べ始めた。

 小さな口ではそれほど早くは食べきれない。二人にとって、考える時間はたっぷりあった。

「君は付き合うタイプが悪いんだと思うね」

「なんですか、先輩。付き合ったこともない人に言われたかないですよ」

「こりゃ手厳しい」

 慰めが終わったと思うや否や、ユリはアキラの手を払ってしまった。アキラは惜しそうにして、払われた方の手首を抑える。

 少しだけ、その手を見つめていた。

「どうしたんですか先輩」

「冷たいなって」

 今度はユリが呆れる番だった。

「当たり前でしょ、かき氷の容物触ってたんだから」

「頭痛くなんないの? 私、かき氷って苦手なんだ」

「頭が痛くなるから?」

「それもあるけど、高いし、お腹も痛くなる」

「冷たいの、ダメでしたっけ」

「苦手かも」

 ふーんと言って、ユリはまた一口かき氷を食べた。

 残りはもはや、水で薄まったシロップのみだ。

「私は好きですよ、かき氷」

「そりゃあいいことだ。でもどうして?」

 意味もなくグルグルとかき混ぜながら、ユリは少し考え込んだ。

 ぬるい風が吹く。

 汗が少しだけ引いた気がした。

 夏の夜は、ほんの少しだけ涼しげだ。

「理由って要ります?」

 助けを求めるようにユリが言った。アキラはため息をついて、木の根元にしゃがみ込む。

「……要ると思うよ。少なくとも、私にとってはそう」

 裾を整えてから、アキラは頬杖をついた。

 正面には人の流れがある。煌びやかな喧騒は、なんだか分厚い壁の向こうのように見える。華やかで賑やかなその群れは、二人をどこかへ切り取ってしまったようだった。

 アキラがぼんやりとそれを眺め、言った。

「私はかき氷が嫌い。甘いだけで、高くつくし。食べたら頭痛がしてきて、お腹だって壊す。そりゃ、確かに涼しくなれるけど」

 アキラは実につまらなさそうだ。

「その場凌ぎじゃ、私は満たされないんだよ」

 ユリは容物を傾けて、その中身を少しだけ飲んだ。

 まだ冷たくて甘ったるい。夏の熱気にはちょうど良かった。

「いいじゃないですか、かき氷。冷たくって、甘くって。綺麗だし、それに……」

 ユリは、羨ましそうにお祭りを見つめた。

「今しか食べられないから」

 アキラは興味がなさそうで、ふぅんと短く息を吐いた。

 ちらりとユリの方を見る。

「口。拭きなさいよ。赤くなってる」

「あら」

「まったくはしたないんだから」

 二人の目があった。

「浴衣、似合ってる」

「ぐっ」とユリは短く唸って、「今ですか、今」と忌々しそうに言う。

「今しかないじゃないか」と、アキラ。「それとも、もっと静かな場所がご所望かい?」

 ハンカチで丁寧に口元を拭いながら、ユリは困った様子でアキラを見つめた。

 言いたいことがあったのだろう。しかし、言葉が喉元でつっかえたようで、ユリは代わりにため息をついた。

「先輩は変わりませんね」

 それがユリの選んだ言葉だった。

 振り返ってみると、二人はいつも隣にいた。学年こそ違ったが部活は一緒だったし、高校の頃は寮だった。食堂ではいつも二人で話したものだ。そのうち進路が別々になって、一人と一人になったけど。それでも二人は、いつでも隣にいたのかもしれない。

 この関係がいつまで続くのかは分からない。ユリにとって、アキラは頼れる先輩だった。何か悩みがあれば、アキラがいつも聞いてくれた。ユリにとってそれは当然のことだったが、そういえば、アキラの心の内というものを見たことがないかもしれないと、ユリは少しだけ不気味に思った。

 話を聞いてくれる人。

 いつも、どんな時も、味方でいてくれる人。

 ユリにとって、それがアキラの全てだ。

「先輩は」

 ふと知りたくなった。ユリはきっと、そこに理由を求めない。

「どうしていつも、傍にいてくれるんですか?」

 不思議そうに聞かれて、アキラはゆっくりと立ち上がる。

「当ててみな、私の可愛い後輩ちゃん」

 アキラの眼差しには、諦めがあった。

「それは――」

「大丈夫だよ、当たんないから」

 ふいと視線を外されて、ユリはムッとした表情で、からかってやろうと決めた。

「好きなんじゃないですか? 私のことが」

 アキラは喧騒を。

 その中の、二人連れ立つ人々を眺めた。

 その絡み合う指を、酷く羨ましそうに見ていた。

「だったらどうするの?」

 その指と、アキラの間とには、壁があった。重く、分厚く、高い壁。壁の向こうを、アキラは恨めしそうに見つめている。

 諦めと、悲しみと、期待を込めて、見つめている。

 ユリは――

「なおさら知りたいですよ、先輩のことを」

「ハッ! 今更なんじゃあないか? 君は充分知ってると思うよ?」

 ――この先輩のことが、やはり気になった。

「知りませんよ。先輩はいつも私の話を聞くだけで、自分のことは話しませんから」

「そんなことない。家族のことも、夢のことも、君には全部話してる」

「そういうことじゃなくって」確かに知っていることだ。「そうじゃなくって」確かに、知っていると言えるだろう。

 それでも、ユリは知りたくなったのだ。

 気になった。その場凌ぎという言葉が。自分との関係は、ユリにとってその場凌ぎに見えた。話を聞いて、それに答え、満足したらまた離れていく。他愛もない話も沢山した。けれど、アキラはいつもニコニコしていて、自分の言葉を話さない。

「いつも、どんな気持ちで、隣にいてくれたんですか?」

 アキラの視線は動かなかった。

 だけど、もどかしそうに、指が少しだけ動いた。

「別に、私のことはどうだっていいじゃないか。あの時、君は傷ついていて、私はそれを慰めたかった。ユリ、君は可愛い大事な後輩だもの」

「あの」

「なぁに」

「目を見て言ってください」

 アキラは前を見つめたまま、照れくさそうに笑った。

「やなこった」

 ユリのことを見る。

「冷たいですよ、先輩」

 と、ユリ。

「そうさ。私は冷たい女なの」

 と、アキラ。

「君は、冷たい人が好きでしょ?」

 またぐっと言葉を詰まらせて、ユリはアキラを見つめた。

 いつもと同じような、悲しい目だ。他の人には決して向けない、何かを求めている瞳だ。

「私は嫌いだよ、冷たいものなんて。高いし、お腹下すし、頭も痛くなる。まるで私に優しくない。あんなもの、わざわざ身体に入れなくたっていい」

 アキラはそう言って、ユリのことをじっと見つめた。


「求めたって仕方ないよ。一時の涼しさや甘さなんて、俄然辛くなるだけさ」


 今度はユリが、アキラを見つめる番だった。

 穴が空くほどに見つめる。

 アキラが困ったようにはにかんだ。

 ユリは初めてそんな表情を見た。

 冷たくて甘いアキラの感情に、初めて手を触れた気がした。

 甘い液体が喉を通って、胃に落ちて、体を満たしていく。夏に当てられた氷はすっかり溶けて、今や温い。

 甘ったるいその味は、なんだかアキラによく似ていた。

「じゃあ、なんで買ったんですか?」

「君が好きだから」

「は?」

「好きでしょ、こういう、冷たくて甘いの」

 空になった容器に視線を落として、ユリは言った。

「ええ」アキラは悲しそうに笑う。「だから調子が崩れてるんです」

 一歩だけ肩を寄せて。

「私は好きですよ。甘くて冷たい。私のことを癒してくれる。嫌なことを忘れさせてくれるから」

 アキラの見つめた先にあるものを、ユリは知っていた。

「ねぇ先輩」

「なぁに、ユリちゃん」

「今夜だけ、忘れさせてくださいよ」

 アキラはまた、ため息をついた。

「今夜も、でしょ。ホントに君は……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クラッシュ・アイス・ブルース 04号 専用機 @PKsamurai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る