鬼門に影

片瀬智子

第1話


 あなたは鬼門きもんという言葉を知っていますか。

 それは邪悪なものが出入りする方角、風水や家相などで昔から不吉とされている場所のこと。



 以前私は住宅街の一軒家に家族と一緒に住んでいた。その時私は二十代前半、マサトという三つ下の弟がいる。

 鬼門という言葉を初めて聞いたのはいつなのか覚えてないが、時折父がそう言ってたのはよく覚えている。

「マサくんの部屋は鬼門だからな」

 具体的にどういう意味なのか、だいぶ大きくなるまで分からなかった。成長するにつれ、声を潜めた話し方などで良い意味じゃないくらいは察しがつく。それが一体何なのか、根拠があってもなくても怖がりな私は気になった。


 鬼門というのは北東の方角を意味し、反対の南西の方角を裏鬼門うらきもんというらしい。

 家でいうと、鬼門と裏鬼門を結ぶ対角線が人ではないものたちの通路なのだ。うちの場合はその対角線の中心にリビングがあった。 

 でもむやみに怖がらなくていい。いくら避けなければいけない禁忌きんきにも、必ず抜け道は存在する。

 鬼門の方角は子供部屋や収納などに使用すればいいという。特に男の子の部屋にすれば、元気のいい強い陽の気で浄化される。

 信じる信じないは別として、実際北東に位置する部屋は湿気がこもりやすく暗いので、喚起を良くするため弟が留守の間は部屋の扉を開けておくのが常だった。



 その日は私以外みんな出掛けていて、外は小雨が静かに降り続いてたと記憶してる。

 私はひとりテレビも付けず、リビングで翻訳もののミステリを読んでいた。

 リビングの扉は引き戸で壁の二面にあった。両方の扉と弟の部屋の扉を開けると、まっすぐ鬼門と裏鬼門がつながると知ったのはまだ先のことだ。

 夕方、雨のせいもあり薄暗かった。私はいつしかそのままソファに身体をうずめウトウトし始める。文庫本が手からすべり落ちた。


 眠りかけのせいか、わずかに意識があった。自分の中では覚醒してる部分も残っていてコントロール出来ると思えた。

 その直後暗い影のようなものが近寄る気がして、私は不穏な感覚におそわれる。身体が徐々に固まりだす。

 ──金縛りだ。

 今まで一、二度はたぶん金縛りに掛かったことがある。怖いけど、疲れによるものだって聞いたこともある。少しだけ我慢すれば解けるはず。


 暗い気配は漂いながら私にとどまった。怖さが増し、絶対目を開けてはダメと自分の直感が告げている。

 息を潜めてじっとしていること、体感で数十秒。

 もやが晴れるようにじんわりと身体のこわばりが解けていき、身動きがとれ自由になる。そっとまぶたを開けた。あたりは外の暗さが増してたくらいで、それ以外は何の変化もおきていなかった。


「ただいまー。お姉ちゃん、ちょっとこっちに来てー」

 突然、玄関から母の声が響いた。よかった、帰って来た。リビングの灯りをつけ、スリッパを履いて玄関へ向かう。

「寝てたの? お母さんね、鈴井すずいさんの息子さんのお通夜に行って来たのよ。ほら、鈴井さんって同じ班の。あっこれ、お塩お願い」

 喪服を着た母が四角いパウチされた塩を私に手渡す。背中を向けた母の肩に、黙ったままちょんちょんと塩をふった。

 母が矢継ぎばやにしゃべる。


「息子さんね、あなたの二つ上ですって。病気でずっと自宅療養してたみたいね。お母さん、全然知らなかった。自治会の連絡網で急に知って……かわいそうに、まだあんな若いのにね。息子さんのこと、知ってた?」

「しらない」

 私はそれだけ言うと、またリビングへの廊下を戻る。母が私を追うようについて来て言った。

「鈴井さんの奥さんがね、息子は雨の日が嫌いなのにお通夜が雨なのよって……泣いてて」

 私の顔を覗く。そんなこと私に言われても。

「まあ梅雨だからね、仕方ないよね」

 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。母は熱いお茶がいいと手を振った。


「あなたが彼のこと知らなくても、彼は知ってたみたいよ」

 母が変なことを言い出した。

 私は眉をひそめ顔を上げる。

「どういう意味?」

「お通夜の帰りにね、奥さんがお母さんに話し掛けてくれて……。療養してた息子さん、お部屋が二階でね。そこの窓からいつも外を眺めてたらしいの。夕方になると、髪の綺麗な女の子が家の前を通るんですって」

 母はしんみりと言った。

「その女の子って、あなたのことよ」


 言葉に詰まった。

 心に衝撃が走る。見られて気持ち悪いという感情よりも今は切ないが正しい。 

 私の知らないところで、決して届かない視線をそっと送る見知らぬ人がいた。余命を知った時間の中で、きっと哀しい気持ちで。

「そうなんだ」

「どこ行くの」

 母が私に言う。

「部屋」

「ご飯すぐだから、お菓子とか食べないでよ」

 私は何も言わず落ちていた文庫本を拾って、自分の部屋へ入っていった。


 

 次の休日、この日もまた小雨が降っていた。梅雨明け宣言は来週になりそうだ。窓から雨粒に打たれる庭の紫陽花あじさいが見えた。

 私は家の中ではだいたい文庫本を持ち歩いている。まさにどこにでも携帯を持ち歩く人間と同じ。どんな場所でも、ページを開くとすぐその世界に没入出来る体質たちなのだ。

 特にしとしと降る雨は読書のBGMに心地良かった。あの規則性がいい。いつもみたいにリビングのソファでしばらく読んでいると、連日の仕事で疲れた身体が眠気を誘う。私は自然と欲求に身を任せた。

 ああ最高と思った瞬間、……明らかに数日前と同じ気配がした。不穏な予感だ。人ではない、弟の部屋から何か暗いものが近づいてくるような。

 私は身体がこわばるのを感じる。金縛りだった。

 目をつぶって、落ち着けと必死に自分に言い聞かす。暗い影のような気配は私につかず離れず、まだそこにいた。


 浅い息をしながら私は様子を伺っていた。これが夢だなんて絶対に思えない。身動きも取れないでいると、ふっと私の身体に意外な感触が忍び寄った。

 ……唇にやわらかいものが触れたのだ。

 たぶん、やわらかな誰かの唇だと思う。軽く一度だけだった。矛盾してるけど、大胆な行為なのに遠慮がちで。

 驚きのあまり、私は目を開けて全身で振りほどくように身体を起こした。そこには何もなかった。ただ、混乱した頭に浮かんだ言葉がひとつだけ。

 ──傘で……きみが見えない。

 誰かの思念が私に直接訴えかけてくるような言葉だった。

 でも影らしいものも何もない。リビングからは薄暗い弟の部屋の中が見通せていて、恐怖というより驚きで研ぎ澄まされた感覚には激しい動悸と雨の音だけがしばらく聞こえていた。



 このことは今まで誰にも話していない。

 時々あの影の気配は亡くなった彼だったのかと思うこともあるけど、それは永遠に誰にもわからないし、もちろん私の夢想なのかもしれない。

 あれから何度も静かな雨は降り、慌ただしく月日が流れた。もうあのようなことは一度もない。実体のない口づけの感覚もだんだんと薄れていった。


 ──雨は嫌いだ、傘できみが見えないから。


 時間は人の心を癒し、忘れさせる万能薬だ。

 私は毎日外へ出て仕事をして、友達と笑い合ったり、たまにはうまくいかなくて泣いたりする。残酷なほど淡々と日常は過ぎていく。

 もしも彼が本当にを歩んだとして私と邂逅かいこうしても、その出会いはご縁なんかではなく、お互いの時間が偶然交差し合ったにすぎない。それだけのこと。

 そう実際、同じ太陽の下を生きてはいないのだ。

 光のないところに影は出来ない。

 もはや影も消えてしまった。そして、私も忘れてしまう。

                              

                                〈終わり〉



注)この物語は、実話が含まれたフィクション作品です。

 それから、鬼門の部屋の扉はきちんと閉めておくことを強くおすすめします。

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鬼門に影 片瀬智子 @merci-tiara

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