②-1

 僕が復帰してから、七回くらい飛んだ夜のことだ。物凄く剣呑な眼をしたアガヅマが部屋に来た。

 夕食後で、あとはもう眠るだけって時間だった。

 控えめなノックに対応したのは、新しい同室者であるイヂチだった。扉を開けた彼は、何を思ったのか、アガヅマを見た途端に呼吸を詰めて自らの腰を探った。パイロットスーツを身に着けていれば、そこにはパイロットナイフがある。

 そんな彼の反応を見て、僕もベッドから飛び出した。

 それなのに、当の伊地知は「え、あれ?」と間抜けな声とともに瞬いた。どうしてアガヅマ相手にそんな過剰反応をしたのか理解出来ないという顔で「すみません」と詫びた。

 とはいえ、イヂチが怯えたのもわかる。

 アガヅマは、日常的に空で殺し合いをしているパイロットにそうさせるくらいには、初めから殺気立っていた。到底、就寝前のパイロットを訪ねるには相応しくない。通常の勤務に加えてバンシーの独自改良をしてくれているわけだから、単なる寝不足の積み重ねが顔に出ていたのかもしれない。

 ともかく、イヂチは何度もアガヅマに頭を下げながらベッドに入って、カーテンを引いた。彼に怯えた自分を恥じたというよりも、純粋にアガヅマと僕に気を遣ったんだろう。

 優秀な整備士であるアガヅマは、直接担当していないパイロットたちにも尊敬されているのだ。

 そんなイヂチの気遣いを他所に、アガヅマは僕を外に誘った。

 僕らは連れだって宿舎を出て、基地の明りを背に夜を歩く。

 アガヅマが何も言わないから、僕も黙っていた。

 昔、一度だけアツジとこんな飛行をしたことがある。こっそりとヘルティア側の海上に浮かんでいる空母の位置を確認してくる任務で、満月の夜だった。

 てっきり月光が海面を輝かせているのだろうと思っていたら、どこからが空でどこからが海なのかもわからないくらいの漆黒で驚いた。どこまでも続く闇の中を飛んでいると、だんだん自分の機体姿勢も高度もわからなくなあってくるんだ。淡く光る計器だけが命綱だった。無線を封鎖しているせいで、自分ひとりが世界に取り残されたような孤独感に、危うくパニックを起こしそうにもなった。

 あんなに怖い任務を、僕は他に知らない。

 彼女は──ニケは、どうやって飛んでいたのだろう。月の欠片もない新月を、彼女は渡ってきた。計器のバックライトすら消して、指針のない闇の中で、どうして正気を保って飛んでいられるのだろう。ヒノメの制空権内じゃ無線は封鎖していたはずだ。気を紛らわせるために僚機とお喋りだってできない。僚機と寄り添いすぎれば接触して墜落してしまう。だからといって高く飛べば、それだけ警戒網に引っかかる確率が上がる。

 なにをどう想像しても、正気の沙汰とは思えない。

 今の僕は、とアガヅマの背を見失いそうになりながら考える。今の僕は不安を抱いている。落ちようもない地上で、仲間であるアガヅマの後ろをついて行くことが、なによりも怖い。この先で何を告げられるのか、どうして彼が僕を呼び出したのか、考えたくもない。

 舗装の直った滑走路の脇に、黒々と燃料庫の残骸がそびえていた。あの新月の夜、彼女が火を着けた倉庫だ。

 僕は半ば無意識に足を止める。前を歩いていたアガヅマも立ち止まって「ん?」と振り返った。

「あの夜、彼女はわざわざ新月を飛んできた」

「……バカだからな」

「どっちが『ついで』だったんだろう」

「どれとどれの、どっち?」

「僕に会うためか、ここを燃やすためか」

 はは、とアガヅマはおかしくて仕方がないって声で笑った。ひとしきり笑ったあとは一転して、はっ、と短く鼻を鳴らす。

「パイロットってのは、自分が主役だと疑わない奴が多くて嫌になるな」

 彼女がわざわざ僕に会うために新月を翔ることなんてない、とでも言いたげだ。

 でも、彼女は僕に会えるかどうかは賭けだった、と言った。給油ついでだったとしても、彼女の中での優先度は、彼女にしかわからないはずなのに。

「新月の火事の後は注意しろ」アガヅマは再びゆっくりと歩き出す。「そう、学校で習っただろ」

「え、なにそれ。学校で? 習わないよ。知らない」

「あんた学校……いや、基礎教育課程って何年あった?」

「七年だよ。僕のひとつ先輩には八年生があったけど、僕の時代には七年生が最高学年で、そのあとは飛行学校」

「なるほど」とアガヅマは独り言の抑揚で言って、肩を竦めた。「じゃあ、覚えとけ。新月の火事の後は、海岸近くにいる見知らぬ奴に注意しろ。十中八九、侵入して来た工作員だ」

「つまり、彼女が新月の夜を渡って来たこと自体が、工作員潜入作戦の『ついで』だったってこと?」

「たぶんな。第一、あんたが被弾したあの大規模作戦。あれ自体が、敵の上陸部隊を撃激するって触れ込みだったんだろ?」

 でも、僕らが会敵したのは航空部隊だけで、海を渡ってくる艦隊には会えなかった。だからてっきり僕らが偽情報をつかまされたのだと思っていた。

「本当の上陸部隊は、新月の闇に紛れて来たってこと?」

「あの派手な放火灯台がわりだよ。ついでに放棄されない程度に基地設備を破壊して、周辺捜索に人手を割けなくするんだ」

 なるほど、確かにパイロットには考えつかない、地上主体の作戦だ。

「ひょっとして、君自身がそうやって送り込まれたスパイだったりするの?」

「逆だよ。俺はヘルティアの工場に忍び込む側だったんだ。基礎教育課程の最後の年、情報局に呼び出されて、そういう試験を受けたんだよ」

「合格したの?」

「してたら今頃スパイとしていろんな工場に潜入させられて、人知れず死体になってるさ」

「……基礎教育課程の卒業試験が、それだったの?」

「まさか。情報局が勝手に、スパイに仕立て上げられそうな奴を探してただけだろ」

「君、実は学校でも、すごく優秀だった?」

「当時の学校なんて、朝に畑仕事をして、午前と午後に授業が終わったら、工場勤務で夜まで拘束される生活だぞ。それを丸九年、腐らず飽きずサボりもせず真面目に勤められる根気を優秀だと評するなら、まあ、優秀だったんだろうな」

「僕の行ってた学校は、朝に畑仕事をして午前に授業を受けてってのは同じだけど、そのあとはずっと昼から夜まで工場勤務だったよ」

 アガヅマは驚いたようにわずかに目を見開いてから、「そうか」と呟いた。

 彼は、ニケとともにガラクタ山の子供たちに字や計算を教えていたのだろう。だから僕の基礎教育課程が自分より短いことに、何かしら思うところがあるのかもしれない。

「午後の授業なんて、僕の先輩にだってなかったよ。君、ひょっとして僕が思ってるより年をとってたりするの?」

 アガヅマは、僕の軽口には答えなかった。ひょいと肩を竦めるとそれきり黙って前を歩いて行く。

 仕方なく、僕も口を噤んで彼に付き合う。再びの、静かな夜間飛行だ。

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