③-4
無言でコーヒーを飲んだ。小さなカップだからすぐに空っぽになる。ついでに銜えていた煙草も灰にしてしまう。
娯楽室に入って来た男が迷惑そうな顔で僕らを見た。見たことのない男だから別の基地に奴だろう。間借りしているんだからわきまえろよ、って思いを込めて睨むと、見知らぬ男は僕らから一番遠いランニングマシーンに乗った。うぃん、と男の脚がモーターを回す音が聞こえる。
「昨日」アツジは立ちあがってカップを『使用済み』のプレートのかかったかごに置いた。「司令に呼ばれた」
「ああ」僕もカップをかごに放り込む。「だから朝まで帰ってこなかったんだ」
「起きてたのか」
「火を見て興奮したんだよ」
アツジは顔だけで振り返って、僕の気遣いに苦笑してくれた。
「我ながら、よく続いたと思う」
「過去形?」
「バンシー。お前、パイロットじゃない自分って想像できるか?」
「できるなら、最初からこの仕事に就いてないよ」
彼は頷いた。そして扉を睨んで、「俺は」と宣言する。
「空から降りる気はない」
キヨミズは、さっき僕にしたのと同じ話をアツジにもしたのだろう。ひょっとしたら「飛行機を降りてくれ」と懇願したのかもしれない。
──わたしはパイロットだから。
彼女の、ニケの幻聴がした。
──きっといつか、ある日突然、彼を遺して墜ちる。だから、その前に、お別れをしたんだ。急にいなくなるより、ずっといいだろう?
地上に残されたキヨミズは、アツジが還ってこない日を、恐れているのだろう。アツジもきっと、それを理解した。だから、キヨミズを過去形にする。
それが、地上で生きる人への、パイロットから贈れる最大限の優しさだ。
僕らはどちらからともなく娯楽室を出て、薄暗い廊下を歩く。昨夜の消火活動の名残か、床板がずいぶんと湿気ていた。
「ねえ」僕は唐突に思いついて彼の背中に声をかける。「君、子供がほしいとか思ったことある?」
アツジが急停止したから、危うく彼の背中に突っ込むところだった。空中で爆散した飛行機の残骸に巻き込まれないようにするのと同じ要領で、体を横にして避ける。
「は?」アツジは器用に顔の右半分で怒って左半分で呆れて、すぐに困惑顔になる。「子供って……司令が、言ったのか?」
「違うちがう」僕は彼の勘違いを悟って笑った。「マブリが」
アツジが明らかに安堵を含んだ息を吐く。
「将来は三人くらいほしいんだって」
アツジは心底面倒くさそうに、口の端を下げた。僕らとは違う生物の生態を解説されたって顔で、いったいどう反応するのが正しいのか模索している様子だ。
「つまり」と僕は彼の肩を叩く。「そういうことなんだよ。キヨミズは女性で、地上で生きる人間で、パイロットじゃない。マブリは女性でパイロットだけど、僕らとは違う。君がキヨミズとどうなろうが僕には関係ないけれど、彼女との関係で君が傷つく必要はないんだよ。君と彼女は全然別の生き物なんだから」
パイロットじゃない自分とか父親になった自分とか、空を飛ぶのに必要のないことを想像できないのは、そんなに悪いことじゃない。
将来への妄想は重たすぎて、そんなものを抱いて空は飛べない。
「あいつは」アツジが外に出る扉に囁いた。「亡霊だ」
ニケのことだ。
「そうだね」
「俺はアレを超えたい」
「うん」乾いた風を吸い込んで、僕は頷いた。「いつまでも亡霊の背中を追ってるなんて、ナンセンスだ」
僕らはそれきり言葉を放棄して、新たな煙草に火をつけた。
煙と灰が煙草をどんどん短くしていく。つい数秒前までは僕らの指に挟まっていた葉が、僕らをすり抜けて消えていく様はどこか、パイロットに似ていると思った。
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