③-2

 そんな僕の心中を知る由もなく、アツジはナキを送り出した扉に「なるほど」と呟いた。

 アツジは備え付けのコーヒーポーションをカップにいれ、保温ポットからお湯を注いでコーヒーを二つ作る。僕の隣のトレーニングマシーンにまたがり、カップの片方を僕に差し出しながら、再び「なるほど」と首だけでナキが出て行った扉を振り返る。

「なにが、なるほど、なの?」

 僕は根負けした気分で彼を促しながら、自転車型のマシーンを降りて「ありがとう」とコーヒーを受け取る。カップは生ぬるい。保温ポットの中身はもう水に近い温度だろう。

「女だな」

「なにが?」

「ありゃ女に逢いに行くんだ」

「……ナキって、いつこの基地に来たんだっけ?」

「おまえと変わらない時期じゃなかったか?」

「だよね……一年くらいで、会いに行ける相手ができるものかな?」

「そりゃ、人によるだろ」はっ、と鼻を鳴らしたアツジは「きっと」と続ける。「ろくな相手じゃない」

「根拠は?」

「まともな相手なら写真の一枚でも持ち出して、一通り惚気てくところだろう。きっと商売女か人妻だぜ」

「ビールじゃなくて?」

「じゃ、なくて」

「だといいね」

「いいのかよ」

 アツジは意外そうに眉を上げたけれど、僕は顔を伏せる。もっとマズい相手と会っている可能性のほうが高いんだから、人妻くらいですむならなによりだ。

「そういう君は、写真を持ってるの?」

「まさか。俺だってまともな相手じゃない」

「人妻?」

「いや」

 彼は口を開いて息を吸ったけれど、言葉を生まずに唇を閉ざしてしまう。

 本当なら、そのまま流してあげるべきだった。それなのに、キヨミズの激情にあてられた僕はそうしなかった。

「どうして司令と付き合ってるの?」

 アツジが息を呑んだ。この話題に触れたのは初めてだった。三秒も経って、ようやく彼は笑みを浮かべる。

「階級が俺より上だから」

 その返答内容に、絶句する。

「笑えよ、バンシー」アツジは、はは、と声を上げる。斜め上の空間に視線を逃がして「冗談だ」と嘯いた。「強いて言えば、寂しそうだったから、か」

「そう」僕は曖昧に頷いた。自分から尋ねたくせに、彼の秘密を暴いてしまったようで、ひどく居心地が悪かった。

「質問はそれだけか?」

「今思いつくのは、それだけだよ」

「なら、俺の番だな」

「女性問題を期待されても困るよ」僕は苦笑する。

「いや、するね」アツジは煙草を咥えて火をつける。「昨日、この基地を襲った敵機。あの大規模出撃で会った、精鋭部隊にいた奴だろう」

「そうなの?」

 すっとぼけながら、僕も煙草を取り出す。唇でフィルターを挟んでから、手つかずのコーヒーを持っていたことを思い出した。今さら煙草を戻すのも、動揺を知られそうでいやだった。僕は煙草のパッケージをポケットにしまってから、手が震えないよう細心の注意を払ってライターで火を点す。

「ニケだ」

 むせそうになった。無理やり呑み下した煙がひりひりと喉を焼く。

 アツジの声は疑問形じゃなかった。いや、情報局員が彼女の名前を出したときから僕らには確信があった。彼女は生きているんだ、って。それがどういう形かっていうのを考えたくないから眼を逸らしていただけだ。

 あの作戦の後だって、僕らは彼女の名前を口にしないことで現実を否定していた。彼がどういうつもりで彼女の存在を報告しなかったのかはわからないけれど、僕らは共犯だった。昨日までは。

 そして僕は、まだ逃げ道を探している。

「どうして」声が、情けなく震えた。「そう、思ったの?」

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