②-3
僕の沈黙をどう捉えたのか、キヨミズはゆっくりと首を戻した。その刹那。
「産まなきゃよかった」
「え?」
耳を疑った。一歩でキヨミズに追いついて、彼女の肩をつかむ。ごろっとした骨が掌にあたった。階級を考えれば物凄く失礼な行動だったけれど、構っている余裕はない。
「誰が、誰を、産んだの……?」
キヨミズは弱い声で「放しなさい」と命じる。でも視線は虚ろに彷徨うばかりだ。まるでその辺りに亡霊と化したニケが漂っているみたいだ。
「あなたは、ニケの」
「忘れてちょうだい」
「だって、名字が……。それに、じゃあ、どうして彼女は」
ヘルティアなんかに与しているんだ、とぶちまけそうになって、危うく呑みこんだ。
でも、キヨミズには伝わったようだ。いつも地上の硬さに寝惚けている彼女の瞳が、雷雲めいた陰りを帯びた。
「どうして? それはわたしのセリフよ。どうしていつも余計なことをするの。いつも、いつも、いつも!」キヨミズの声が少しずつ膨れ上がる。「あの子さえできなければ、わたしが『ニケ』だったのに! あの子のせいで、あの人とも別れることになったわ。生まれたら生まれたで、のうのうとあの人に引き取られて、『ニケ』の名までもらって! その挙句に敵の精鋭ですって? 冗談じゃない。そのせいで、わたしがどれほどの不利益を被っているか! これ以上、わたしからなにを奪う気なの!」一息に喚いたキヨミズが、ふっとため息で囁く。「もう、うんざりよ」
あまりの剣幕に、気圧された。掌からキヨミズの肩が離れる。僕の緊張とキヨミズの興奮がないまぜとなって、周囲の風が湿気りを帯びていた。
キヨミズがニケの母親だったってこと、キヨミズがパイロットであったこと、『ニケ』の名を与えらえていたこと。そのどれもが衝撃的だった。
同時に、納得もあった。キヨミズの、戦闘飛行隊を率いるには投げやりな姿勢の理由は、ここにあったのだ。キヨミズは空を愛していない。地上の人間を愛し、憎み、結果として空も人間も憎んでしまった。
「あなたは、パイロットとしても上官としても、相応しくない」
キヨミズが勢いよく、体ごと振り返った。大きく振り上げられた腕が僕の顔に叩き下ろされる、寸前で凍りつく。彼女の風圧だけが、柔らかく僕の頬に触れた。
「寂しがり屋は、空には向かない。空を失ったのは、あなた自身の問題だ」
「パイロットは」キヨミズが、手負いの獣みたいに唸る。「いつも空ばっかり」
「パイロットのアツジと付き合ってるくせに」
キヨミズが目を見開いた。彼女を支配していたどす黒い感情が霧散する。僕の頬を打ち損ねた掌を逆の手で握り締めて、彼女は自分を罰するように手の甲に爪を立てていた。
「さっき、僕にヤク中かと訊いたね。冗談じゃない。僕らは、パイロットだ。飛行に支障が出るなら、規定量の薬だって飲まない。痛みにだって耐える。それくらいの覚悟があるんだ。僕にも、アツジにも」
「……ナンセンスね」
「あなたは、アツジの生き方を侮辱してる。僕らの上官としても、人としても、最低だ。空への嫉妬なら、アツジに聞いてもらえばいい」
「そうね」キヨミズは怒ったようにも笑ったようにも見える奇妙な顔をした。「彼は、あの子とその父親みたいに、わたしを拒絶したりはしないもの」
彼女は数歩よろめいた。後退ったのかもしれない。本当は彼女を支えるために手を伸ばすべきだった。でも僕は敬礼もせず、彼女の隣を通り抜ける。
わけもなく、泣きたくなった。
僕にナンバー・ワンになれと願った彼女が、アガヅマに自分の生存を伝えずにいてほしいと願った彼女の声音が、地上の僕に降り注ぐ。
アガヅマの咥え煙草を奪った彼女の甘えた顔とか、楽しそうに歌っていた地上での彼女とか、出撃前に殺意を砥いでいた彼女とか。いろいろなニケが僕を苛んでは、消えていく。
彼女はパイロットらしく孤独に空を飛んで、飛び続けて、独りであることに馴れきって、疲れてしまったんじゃないだろうか。
彼女は、誰かに縋りたかったのかもしれない。だから僕をヘルティアに誘った。でもたぶん、僕が誘いに応じないことも理解していたはずだ。
僕らは、似ている。パイロットとして孤独に飛ぶことが正しいと信じている。
せめて一緒に、踊ってあげよう。
そう決意する。彼女と一緒に、対等に、精一杯、僕の全てを賭して彼女と空で踊ろう。
だって僕の手は、空を飛ぶためだけに存在するんだから。
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