②-1

 アガヅマを追いかけようかとも思ったけれど、それは失礼だからやめておいた。かわりにバンシーの翼に上がってコックピットを覗きこむ。

 シートベルトが切れていた。バックルはロックされたままで、隙間には血が入り込んでいる。きっと、僕の出血に驚いた救急隊員がナイフで切ったんだろう。

 ボタン一つで外れるタイプのシートベルトなのに、新人救急隊員だったのか? と舌打ちをする。

 コックピットの縁を乗り越えてシートにおさまった。

 たった二日前に出撃したはずなのに、ずいぶんと引き離されていた気がする。

 エンジンの心地好い振動を思い出しながら、右手で操縦桿を握って左手をスロットルに添えた。両足をラダーペタルに乗せて、膝をコックピットの側面に押しつける。

 地面の存在を忘れて、離陸の行程すらすっとばして、雲の上に浮かぶバンシーを夢想する。

 僚機もなく孤独に、静かに飛ぶんだ。しばらく飛ぶと無線が歌い出す。国歌なんて野暮なやつじゃなくて、放送禁止の甘いバラードだ。

 敵国の女性に恋をして自国を裏切るパイロットの決意を、まさにヒノメを裏切った彼女が歌うんだ。全然甘くない歌声で、戦争をしているからだよ、と切り捨てた冷たさで。

 正面に浮かぶ静謐な雲の中から、鈍い空色のマークⅠ──ニケが、現れる。

 ──戦争をしているからよ。

 耳朶に、妙に甘ったるくマブリの声が蘇る。

 それを振り切るように、僕は小さく翼を振る。彼女も、応えて翼を振ってくれた。まるで仲の良い友達と再会して手を振り合う子供みたいだ。

 僕は嬉しくなって、機銃の安全装置を外す。ほとんど同時に、僕らは揃って右に倒れる。

 そのまま相手を頭上に見ながら機首上げをして旋回角を絞っていく。ぐるぐると螺旋を描きながら距離を縮める。

 きっと体重の軽い彼女は僕よりも早く内側に入り込むだろう。その前に、僕は左に旋回を解く、と見せかけて右に切り替えす。

 ひっかかってくれる、なんて期待してるわけじゃない。むしろ、こんな手にひっかかられちゃ興醒めだ。

 パワーダイブで急激に降下して彼女の下に回り込もう。チョークをいじる暇なんか与えない。反転して、降下するための高度を稼ぐために上昇に入る。スロットルを押し上げると、エンジンが猛る。その咆哮を機体の振動で感ずる。

 即座にスロットルを絞って、エアブレーキを立てて、頭を振って機首を下に向ける。

 彼女が、射撃軸に乗る、はずだ。

 彼女は斜めに空を滑る。大気が柔らかいバターみたいに翼端で削がれていくのが見えるような、あの、飛び方だ。

 僕は、それが見たい。幻でもいいから、それが──。

「タカナシ」

 掠れた女の声で、邪魔された。僕は瞼を開ける。日光が眩しかった。想像の空戦のせいか、少し息が上がっている。それなのに、彼女の気配など微塵もない。

 僕はコックピットから体を乗り出して、地面を見下ろす。

 キヨミズが立っていた。髪をきれいにまとめていたから上層部と会っていたのかもしれない。制服のスカートから棒きれみたいな足が伸びている。日々、トレーニングを欠かさないパイロットとは違う、貧弱な脚だ。

 僕は司令棟のほうを眺めてから、再び彼女へ視線を下ろした。彼女を司令室とブリーフィングルーム以外で見ることなんて初めてかもしれない。

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