①-3
──彼女は、僕とは違う。
ふっと彼女が呼吸を緩めた。
「でも、忘れてた」
「なに、を?」
「戦争だって。わたしは少し、ヒノメにいすぎた」
「でも、君はヘルティアに……帰った」
「まあね」
「あのとき、君は墜ちたふりをしただけだったの?」
「ああ、あれは」本当におかしいって顔で唇を噛んだ。「本当に墜ちたんだよ。ヒノメがわたしを疑いはじめたように、ヘルティアもわたしを疑ってた。あまりにも殺しすぎたから、寝返ったんじゃないかってね。まあ、海上に下りたから機体は持ち帰れたけどね。おかげで壁の前に立たずに済んだ」
裏切り者が銃殺されるときに壁の前に並ばされる慣習を揶揄しているのだろう。
「笑うところじゃないよ」
「笑うところだよ。自分の役目を忘れかけて、結局どちらからも殺されかかるなんて」
なんて間抜け、と彼女は唾棄に近い強い語調だ。
僕は黙って彼女の横顔を見つめる。戦争だから、って無表情に言い切ったくせに、そこに浮かぶのは自嘲と、たぶん少しの後悔だ。
「君が」僕は囁く。「こっちに戻ってくるって選択肢はないの?」
彼女は唇だけで笑った。否定も肯定も口にはしなかったけれど、答えは痛いくらいに伝わってきた。
「アガヅマは、君を」
「彼にだけは会えない」
「どうして?」
彼女は目を伏せた。一秒に満たない短い時間だけ。彼女はジャケットの上から巻いた時計に視線を走らせて、僕を見て、目を細める。
「もう行くよ」
話せてよかった、と囁いた彼女の腕を咄嗟につかんだ。お互いの飛行時計が瞬く。
「……アガヅマが、好きなの?」
「え?」とニケが、瞬いた。まるで言葉が理解できなかったように「好き?」と妙な発音で繰り返す。「好きって、わたしが彼を? 好き、なの?」
「え」と僕も間抜けな声を漏らす。「違うの? だから会えないんじゃないの?」
「会えないのは……もう、別れを済ませたからだよ」彼女は僕の手に触れて、指を絡めて優しく離脱する。「彼は、死者に会うべきじゃない。もう、誰も彼の傍で死ぬべきじゃない。彼には死を忘れて、幸せになる権利がある」
「もう誰もアガヅマの傍から去るべきじゃないと思っていたのに、君は自分の死を偽装したの?」
「わたしはパイロットだから」彼女はため息のように言葉を紡ぐ。「あのまま彼の傍にいても、きっといつか、ある日突然、彼を遺して墜ちる。彼はまた、唐突に仲間を喪う。だから、その前に、お別れをしたんだ。急にいなくなるより、ずっといいだろう?」
「……それは」
致死率七十パーセントという二ヶ月戦争を生き延びた故の結論だろうか。だとしたら、僕にはなにも言えない。彼女を責められない。アガヅマを慰めてあげられもしない。
「ああ、そうか」ニケは半歩、後退る。「好きとか、そういう感情じゃないんだよ。わたしはね、バンシー。アガヅマが大事なんだ。この辺りで引退して平和に……わたしも戦争も存在しない場所で静かに生きて、生き延びてほしい」
「……そう、アガヅマに言ってあげなよ」
「そうだね」半歩の距離の向こうから、彼女の声だけがすり寄る。「アガヅマに、伝えておいてよ」
「自分で言ってよ」
「バンシー」
静かなのに揺らぎのない声で呼ばれた。二秒も彼女の靴だけを睨んで抵抗したけれど、結局彼女を上目に見た。でも、顔は上げない、視線だけ。それくらいの意地はある。
怖いくらい真剣で冷徹な瞳があった。褐色の電光で、空襲を受けた町の空みたいに揺らめいている。きっと、以前の彼女の機体に描かれていたパーソナルマークに顔をつけるなら、これが相応しい。
「バンシー、あの夜、君の胸にキスをした。二つ目の願い事を今、するよ」
「時効だよ」
「なら、もう一度キスしてもいい」
冗談みたいな言葉なのに、彼女は全然笑わない。
僕と彼女が最後に地上で言葉を交わした夜を、今さら持ち出すなんて卑怯だ。
彼女がゆっくりと、踵を返す。反転、離脱。彼女の飛び方同様、滑らかな動きだった。
「冗談だよ、バンシー」彼女の吐息めいた囁きだけが、僕に届く。「わたしを情報局に通報するなら止めない。でも、できるなら、彼にはなにも言わないで。わたしからの伝言も、わたしが生きてるってことも、ここで忘れて」
勝手だよ、って言うために空気を吸った。でも、それは音にならない。
僕らはそろって振り返った。空で敵機に背後をとられたときと同じ速度で、弾かれたようにカウンターの向こうを見る。
アガヅマが、いた。
オイルで汚れた作業服じゃなくて、枯れ草色のジャケットを着ている。彼は寝惚けた足取りでカウンターの中を移動して、焦る様子もなくホールに出てきた。右手はポケットの中だ。
ひゅう、と彼女の喉が鳴るのが聞こえた。
それを合図に、僕はすべてを理解する。
マスターは、わざわざ僕の後ろを通って彼女にビールを運んだ。カウンター越しの、ちょうど彼女の足元にアガヅマが潜んでいたから、彼女の前に立てなかっただけだ。懐かしんでたわけじゃない。
アガヅマはゆっくりとポケットに入れたままの右手をつき出した。一点だけがせり上がっている。
銃口、かもしれない。
でも、彼は一言だって脅し文句を口にしなかった。唇を引き結んで、それだけで殺せそうな苛烈な眼差しで彼女を見つめている。
僕の肌が怯えたようにじりじりと痒くなった。
ああ、と彼女が細い息で言う。
「いつから?」
「お前が来る七分前」
そう、と彼女の喘ぎが言葉を掠める。彼女は、微笑んでいた。とても大切な宝物を奪われることに慣れきった子供みたいに、静かで疲れた笑みだ。人生のすべてを諦めてしまった老人にも似ていた。僕には見せなかった表情だ。
「手間が省けてよかった」
アガヅマが目を眇めた。
「君のせいじゃない。それだけは言っておきたかった」
アガヅマが呼吸をとめた。頬が小さく痙攣して、薄く開いた唇が空気を震わせる。
「俺の」
「違うよ、君は完璧な整備士だった」
「俺は見逃した」
「君の、最後の整備と忠告を拒んだのは、わたし自身だ」
「俺はお前の担当だった」
「墜ちたのは、わたしの腕が悪かっただけだよ」
「俺がちゃんと」
「アガヅマ」
たった一声で、彼は顔を歪めた。ナイフで深く刺されたみたいに荒い呼吸だけが漂う。
「行くよ」彼女の踵が床をこすって、夜色の瞳を細めて、囁く。「さよなら」
「ニケ」アガヅマが縋る。
「誰の名前?」彼女は残酷に、優しい笑みを崩さない。
「俺は、知ってた」
彼女が首を傾げる。小さく肩が震えたようにも見えた。どんなことでも一秒先の未来を予想する、優秀なパイロットとしてのくせが動揺を生んだのかもしれない。
そこまで優秀じゃない僕は、やっぱり彼女の、一つ目の願いを叶えられないだろう。
「知ってた。お前がスパイだなんて、気づかないと思ってたのか」
「知ってて」彼女の表情がゆっくりと無になる。「わたしにエンジンの構造を教えたの?」
アガヅマは答えない。
「知ってたのに、情報局に通報もしないで」彼女の唇が震えて。「マークⅢのエンジンまでみせて」引きつった笑みを浮かべて。「あんなに仲間が死んだのに……君まで」俯いた。「ヒノメを裏切るの?」
「俺はお前を裏切らない」
「……どうして、そこまで、わたしなんかに」
「言えよ」
「言えない。君だけは、誘えない。絶対に」
「なら」アガヅマの声が少しだけ高くなる。「なんで空に戻った」
彼女は答えなかった。
「俺を誘わないならなんで、まだ飛んでるんだ」アガヅマの、泣き出しそうな弱い声だけが漂う。「なんで、死んでてくれなかったんだ」
ごめんね、って聞こえた気がした。気のせいかもしれない。
彼女は視線も上げずに踵を返す。
「リツ!」
アガヅマの声にも足を止めず、彼女は扉を開けて夜に紛れていく。
薬莢でできたドアチャイムが忙しなく店の空気をかき混ぜた。
息苦しくなって、呼吸を止めていたことに気づく。
長いため息が聞こえた。僕がついたのかもしれないし、アガヅマのかもしれない。
彼は崩れるようにカウンター座った。あのときと同じ、僕とニケとの間の席だ。彼女が残したビールを引き寄せて、グラスを両手で包みこむ。丸くなった背中に、見えもしない神さまに懺悔する人と同じ緊張があった。
僕は席に座り直すことも、出ていった彼女を追いかけることもできずに立ちつくす。
少しだけアガヅマが羨ましかった。
空で天国の欠片とか死神とかを見てしまっている僕には、縋れるような神さまなんていない。いるとすれば、それがニケだった。彼女の飛びかたに少しでも近づこうと試行錯誤する時間だけが僕の心を満たしてくれたんだ。
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