①-2
彼女の指先が僕の額に触れた。分厚いガーゼ越しで感覚が鈍い。
「ごめんね、君だと思わなかったんだ」
「まるで、僕じゃなきゃ撃ってもよかったって言ってるみたいだ」
彼女は曖昧に笑った。
つまり、肯定だ。
僕は彼女の手を振り払った。強い力じゃなかったのに、あっけなく彼女の手は落ちる。
全然似てないのに、あの大規模作戦で墜ちていった仲間の軌跡を思い出してしまって、悪寒がした。
「ごめん」って謝りたかったのに、言いたいことも訊きたいこともたくさんあるのに、どれも喉につかえて出てこない。僕は唇を噛んでカウンターを睨みつける。
沈黙が、雨雲みたいなどす黒さで僕らの間に漂う。
「どうして」僕はようやく声を追い出す。ひどく掠れている。「ヘルティアなんかに」
彼女は答えない。
「捕虜になったの?」
「違うよ」今度は即答だった。
「じゃあどうして!」
叫んでから、唇を噛む。他の客の声が途切れていた。変に注目を浴びたかもしれない。
マスターが、また僕の後ろを通ってビールを運んできた。小さなグラスの表面はつるりとしていて、どう見たって冷えているようには見えない。
マスターは申し訳なさそうに口を開閉させて、でも結局なにも言わずにキッチンに戻っていく。
彼女は尖らせた舌先を白い泡に浸しただけで、飲まなかった。
だから僕は、僕自身を落ち着かせるために訊く。
「バイクで、来たの?」
「パイロットなんだから」彼女は唇を歪める。「飛行機で、に決まってるでしょ」
僕も短く息を漏らして笑ってあげた。
今夜は新月だ。漆黒の夜に飛行機を飛ばすなんて自殺行為だ。そんなこと、パイロットなら誰だって知っている。
「君、整備士がかわったの?」
「かわってないよ」僕は煙草を咥える。「どうして?」
「エンジンの設定がおかしかったみたいだから」
あのとき、エンジンがグズったことを見抜かれていた。巧くごまかしたはずなのに彼女には通じていなかった。そのことが純粋に、嬉しかった。
だって僕の中ではまだ、彼女がエースだから。
でも、僕は「そう?」と首を傾げてとぼける。
そして、やっぱり沈黙が落ちる。二人ともが話題を探して、でも本当は訊きたいことが溢れて溺れている。
「正直」思い出を拾い上げる抑揚でニケが言った。「君がまだあのスクーターを使ってるとは思わなかったよ」
「どうして? アガヅマが組みたてて、君がバンシーを描いてくれた一点ものなのに」
「表であれを見たとき」彼女は肩越しに駐車場を振り返る。「本当は入らず、そのまま帰ろうかとも思ったんだよ」
「ひどいな。どうして?」
「彼が……一緒かと思って」
「アガヅマに、会いたかった?」
彼女の指先がジャケットの胸ポケットに伸びて、でもためらったように握りこまれる。そして浅いため息が一つ。
「会えないよ」
「どうして? 君が生きてるって知ったら」
「喜ばないよ」
アガヅマは喜ぶよ、って続けるはずの僕の声を、彼女が奪った。正確に言葉の先を読めるっていうのは、彼女がパイロットとして優秀だってことだ。
「どうして? アガヅマは、君を失って苦しんでる」
「だから、だよ」
答えになっていなかったけれど、彼女は彼の話題を拒むように俯いてしまった。その肩が震えているような錯覚を、僕は煙草のパッケージを彼女に差し出すことでかき消す。
「煙草、やめたの?」
「持ち合わせがないだけだよ」
ほら証拠、と彼女はポケットからライターを取り出す。僕とお揃いの、航空学校の卒業式で個人認識タグと一緒に貰えるやつだ。銀色の胴体に卒業年と『軍人としての誇りを忘れるな』って文句が掘られている。
「バンシー」彼女は僕の手を煙草ごと包んで、押し戻した。「こんな話をしに来たんじゃない」
「僕が今日、ここに来るってわかってたの?」
「半分だけ」彼女は小さく声を漏らして笑う。「会えるなら今日だと思ってた」
「パイロットは自分の勘に従う?」
「そう」
「話って?」
僕は煙草を灰皿に押しつけた。まだ半分以上残っていたけれど、紫煙を間に挟んでする話じゃないと直感的に悟っていた。
彼女はカウンターを睨んでから、ゆっくりと目を上げた。
「バンシー、こっちに来ない?」
僕は目を細める。
こっち? 以前の彼女はヒノメを『こっち』と言っていた。でも今は。
「ヘルティアに、来てほしい」
「ヒノメを裏切れ、ってこと?」
「そう」
「どうして?」
「ヒノメは、負けるよ。タルヴィングはヒノメへの援助に見切りをつけたがってる。ヘルティアと勝手に和解してヒノメを孤立させるって手も取りかねない。どっちにしろ、援助を打ち切られたヒノメに勝ち目はないよ」
「そうじゃなくて」僕はゆるく首を振った。「どうして僕なの? アツジとかナキとか、優秀なパイロットはたくさんいるだろ」
「ローデン、生きてるの?」
僕は息を呑む。ローデンはナキの飛行機の名前だ。確かに昨日の作戦以降会った記憶はないけれど、まさか彼がいないなんて考えもしなかった。
彼女の髪が流れて、新月色の髪が首筋にかかっていた。まるで死神の鎌みたいに。
「昨日、墜としたはずなんだけど」
「ウソだ」
「彼は」彼女の表情は動かない。「パーソナルマークを確認してから、墜としたよ。二機目の獲物だった」
左の指先が温かくなった。僕の手が、彼女のジャケットの内側で襟をつかみ上げていた。手首に触れる彼女の髪が場違いに冷たい。彼女の瞳も、髪と同じ温度で僕を見据えている。
「仲間、だったのに」
「どうだか」彼女は静かに、でも吐き捨てるように言った。「ローデンは諜報部員だよ。わたしが墜ちる前、ニケのエンジンに細工をしたのも彼だ」
「ウソだ」
「そう思いたければ、それでいい」
彼女の細い指が僕の手をこじ開ける。パイロット同士だから力勝負は男の僕のほうが有利なはずなのに、彼女は片手で僕の指を開いた。多少指を痛めても操縦に影響しないように、お互いに利き手じゃない左だったけれど、それにしたって彼女の鍛え方は半端じゃない。
それだけパイロットであることに、空に執着してるってことだ。
「はなして」と囁いて、彼女は僕の腕を叩き落とす。「それに、わたしは元から君たちの仲間じゃない」
僕はただ無言で彼女を睨み上げる。
「わたしは」瞬きの間だけ彼女は呼吸を彷徨わせた。「初めからからヘルティア側にいる」
一瞬、意味がわからなくて彼女と見つめ合う。
「わたしは飛行学校に入学する前から、ヘルティアのスパイだったんだよ」
「どうして、スパイなんかに」
「どうしてって」
彼女は唇の端を下げた。どうしてそんな簡単なことを訊かれるのか、どうしてそんな疑問を抱くのか、全然わからないって顔だ。呆れたのかもしれない。
「戦争をしてるからだよ」
頭を殴られた気がした。
確かに、スパイだって言われたことはショックだったけれど、空で彼女の声を聞いたときの衝撃に比べたら、どうってことない。彼女が生きているかもしれない、って思い始めたときから考えていた可能性の一つだ。捕虜になった兵士が生き残る条件なんて限られている。ヒノメの情報を売るとか、ヘルティアに知り合いがいるとか、寝返るとか、元もと敵側の人間だったとか、死なないための方法はある。
でも、そんなことはどうでもいい。
ナキが彼女の機体に細工をした、っていうのが唯一の言い訳らしい文句だったけれど、それは彼を狙った理由であってヒノメを裏切った理由じゃない。
僕は、言い訳をしてほしかったんだ。
家族がヘルティアに捕えられているとか、拷問されて脅されたとか、どんなに陳腐なことでもよかった。彼女が一言でも謝ったり、言い訳をしてくれたりすればそれで満足だった。
でも、彼女はとても当たり前の顔をして言いきった。
戦争だから、と。
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