第九話 亡霊と英雄

第九話 亡霊と英雄 ①-1

〈9〉


 懐かしい曲が聞こえて、我に返った。ニケとアガヅマがトラックで歌っていたバラードだ。今は、L字のカウンター席に座る僕から二席向こうの壁際で、ジュークボックスが歌っている。

 本来であれば放送禁止のバラードも、中立国との国境に近いこの町では気にせず流せるらしい。憲兵だって、こんな僻地にはいないのかもしれない。

 狭いカフェには、僕以外にもボックス席に二組の客がいた。両方、穴のあいたコートを着た男の二人連れだ。

 このカフェに来るのは二度目だった。僕のスクーターを造るためにニケとアガヅマと僕との三人で来た、あれっきり。

 前に来たときは昼だったからメニューにはコーヒーやクッキーなんてカフェらしいものが載っていたけれど、今はビールとサラミしか存在していない。カフェというよりもちょっとしたバーだ。いや、席に座った途端、注文をきかれることもなくビールとサラミが出てきたので、押売りをされただけかもしれない。

 マスターは、僕を覚えていないようだった。当然といえば当然だろう。

 以前と変わらず、店の前の駐車場にはガラクタが山になっている。メニューは前より──夜だから、というのを差し引いても──減っているし、ひげ面のマスターは狭いカウンターの中で熊みたいな巨体を持て余しているし、愛想笑いもしない。本当にカフェとして商売が成り立っているのか、怪しく思えてきた。

 問答無用でビールが提供されたけれど、スクーターを運転してきた僕は一口だって飲まなかった。泡が消えた水面にポツポツと弾ける気泡を眺めながら、ずっとニケのことを思い出していた。

 じっくりと記憶の底をさらってみたけれど、僕の中にある彼女の情報はとても少ない。本当に、驚くくらいに少なかった。

 飛行機の名前と容姿、翼を立てて空を切り裂く滑らかさ。情報局の男が、人間としての彼女の名前を教えてくれたけれど、オノガミという苗字しか覚えていない。

 たった、それだけ。

 情報量としては、飛行学校やTAB‐14にいたときに耳にした噂のほうが多いくらいだ。

 でも冷静に考えてみれば、彼女が特別ってわけじゃない。アツジなんかは同室だからいろいろな──彼に妹がいるとか、初めて空に上がったときはマークⅠだったとか、がさつな言動の割にきれい好きだとかってことを知っているけれど、たいていは仲間の情報なんて持っていない。

 人間の名前を知っているかわりに飛びかたを知らなかったり、顔を知っているのに乗っている機体を知らなかったり、それくらいのものだ。

 基本的に、パイロットっていうのは明日の存在を信じていない。だから、いついなくなるかわからない奴の情報も、そんな奴に自分のこと話すことも、必要ない。そう考えている。

 どうせ墜ちてしまえば全部ムダになるんだから。

 昔付き合いのあった女の子は、僕のそんな考えを「寂しいね」と言った。その数日後には「ケチ」だとも言い捨てたけれど、その子はきっと正しい。

 パイロットは空を孤独に飛んで命に執着しない習性がついているから、地上でも寂しいし、命以外は出し惜しむ。

 そんな生き方を「スマートだ」と褒めてくれたのは、TAB‐14の基地司令だった。コックピットの中で圧死しそうなくらいお腹に脂肪を蓄えた男で、地上の管理職らしく空に執着を見せないその体型も含めて、僕は気に入っていた。

 キキン、とドアチャイムが上げた悲鳴に、僕の肩が跳ねた。空じゃないからこそ許される集中力の欠如だ。本当なら、駐車場に入ってくる車やバイクのエンジン音とか、ガラクタ山に反響するかすかな靴音とかだけで人の存在を感知するくらいじゃないとダメなのに。

 わざとゆっくり、首の筋肉を意識して、来客を確認する。

 ため息がもれた。唇が痺れている。

 ──亡霊だ。

 空に散ったはずの死者が丈の短いジャケットを羽織って、白い絹のマフラーを垂らして、立っている。

 彼女が──ニケが、いた。

 立ち上がろうとして、失敗した。膝が震えていた。空で彼女の声を聞いたときなんかとは比べものにならないくらい、全身が震える。

 彼女の視線は僕の上を滑って、店を見まわした。それきり僕なんか見えていないって顔で僕の背後を抜けてジュークボックスの前に、つまり僕から一席空けて、座った。

 あの時と同じだ。今にもアガヅマが駐車場から戻ってきて僕らの間に座るんじゃないかって気にさせられる。

 でも、カウンターの上で組んだ手に視線を落とした彼女の頬は、目に見えて強張っていた。緊張しているのか、外が寒かったのか、あるいはその両方かもしれない。

 マスターは、わざわざ僕の背後を通って彼女の肩口に顔を寄せた。注文をとりにきたにしては丁寧過ぎる仕草だったから、彼は彼女を覚えていて、懐かしくなったのかもしれない。

「ビール」という注文ついでに、彼女はマスターの手に札を押しつけた。いくらかは見えなかったけれど、それなりに分厚い束だった。口止め料だろうか。

 マスターがキッチンに引っ込むのを見送ってから、僕は喘ぐ。

「ニケ」

「それは」彼女はあいかわらずカウンターを見つめている。「もう、わたしの名前じゃないよ。後任がきたでしょ」

 どうして知ってるの? と思ったのに、僕の口からこぼれたのは別の言葉だった。

「じゃあ、今の名前は、なに?」

「コルウス」

「パーソナルマークの、黒い鳥のこと?」

「カラスだよ、首はないけど」

「どうして、首がないの? 八機全部が、同じパーソナルマークだったよね」

「個人を識別する必要がないからだよ」ニケは掌で、自分の目元を覆い隠した。「あの隊はみんな、同じくらい飛べる。誰が墜ちようと、全員が全員の代りを務められる」

「ウソだ」

「うん、確かにウソだ」ニケは、少しだけ息を漏らした。笑ったのだろう。目元を隠していた手を下げて、そのくせ生真面目に正面を睨みつけたまま、彼女は薄く唇を歪めた。「みんな、ある程度の腕を持っている。下手くそがいることは否定しない」

「僕が墜とした奴とかね」と軽口をたたくために空気を吸い込んだけれど言葉にすることはできなかった。あまりにも彼女の横顔が懐かしくて、呼吸すら引っかかる。

「本当はね」と彼女は穏やかに言葉を紡ぐ。「店に入った途端に、客が全員、わたしに銃を向けるのを想像してたんだ。なのに、君一人。拍子抜けだよ」

「妄想だよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「ひさしぶりだね」彼女が、ようやく僕を見た。「バンシー」

 僕の記憶よりも髪が伸びていた。前髪が瞼に落ちている。ヘルメットをかぶるために無理やり撫でつけていたようなうねりがついていた。

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