②-4
そんなアガヅマと入れ替わりに、マスターがコーヒーとクッキーを運んできた。ついでとばかりに「あんたら」と低い声が寄越される。
「あんまり駄賃をやらんでくださいよ」
密告者って誰のことだ? とドキドキしていた僕は「駄賃?」と平和な言葉を繰り返す。
「危険手当だよ」ニケがひらひらと掌を翻した。「大した額じゃない。ノートと鉛筆を買う足しにでもなれば」
「アンタが字なんぞ教えるから、子どもたちが野良仕事をせんようになる」
「よそ者がよけいなことを」ニケはカウンターに身を乗り出し、マスターの鼻先に指を突きつけた。「って? いい? 今、君がここで稼いでいられるのは、金の計算ができるからだ。字を書いて読めるから、メニューだって記していられる。もし文字が読めず計算もできなかった場合、どこでどんな仕事に就いたって給料をごまかされる」
「だからって……ヒノメの字だけでいいんですよ。昔の字だとか適正文字だとか……果てはエリュシの言葉とか……そんなモンは要らんのです」
「ここがいつまでヒノメ領でいられるのか、子供たちがずっとこの地で暮らすのか、誰もわからない。そうなったときに慌てて学ぶより、今から備えておいたほうが、ずっといい」
「アンタ、軍人さんやろ。そんなこと……」
言っていいのか、とマスターはヒゲに埋没した頬の内でモゴモゴと続けた。
もちろん、軍人であるニケが「この土地を敵国に盗られる日が来るかもしれない」なんて言っていいはずがない。それこそ憲兵に引っ張られてしまう。
でもたぶん、と僕は彼女の瞳を見る。たぶんこれこそが──自らの身など顧みず国民の将来を案ずるこの姿勢こそが、正しい軍人の在り方なのだ。
マスターは居心地が悪そうにカウンターに並んだコーヒーとクッキーとに視線をやって、「アンタら軍人さんは」と独り言の弱さで続ける。
「今の生活が保障されとるが、ワシらは違う。今、食うのに必死なんや。軍人さんの趣味に付き合う余裕なんぞ、どこにもない」
「知ってるよ」ニケは即答した。「あなただって決して生活が楽なわけじゃないのに」ニケは胸ポケットから煙草を出す。「子供たちに拾ってきた廃品に」火のついていない煙草の先で、白く濁った窓の外を示す。「いくらかの金を出して買取ってやってることも、知ってる」
「そりゃ……アンタらがガラクタでも買取るって言うから……」
「あなたが自分でわたしたちのトラックに荷を積んでくれるなら、子供たちを使ったりはしないよ。ガラクタ代も子供たちに払ってる駄賃も全部、君のものだ」
マスターは二、三度口を開閉させた。でも言葉はない。数秒、僕とニケとを見下ろしてから、黙ったまま店の奥に引っ込んでいった。広くて大きな背中が、餌場を負われた熊みたいに寂しげに丸まっていた。
正直に言えば、僕は心底驚いていた。ニケやアガヅマがガラクタを使って飛行機を補修していたことに、だけじゃない。軍人でありパイロットであるニケに苦言を呈する民間人がいることが、信じられなかった。
ヒノメは戦争をしている。軍人が命をかけて国民を護っている真っ最中だ。当然、国民だってみんな僕たち軍人に好意的だと思っていた。実際、首都付近じゃ誰も軍人を悪く言わなかったし、尊敬すらされていた。パイロットなんて、子供たちの憧れの職種ナンバー・ワンだ。
でも、ここでは違うらしい。
ニケは少し俯いて、咥えた煙草に火をつけた。頬に落ちた睫毛の影が炎に炙られて、泣き顔みたいに揺らいだ。それも一呼吸でかき消える。
僕はマグカップを両手で包む。カップごとコンロにかけたんじゃないかってくらいに熱かった。フライトを終えた飛行機のエンジンみたいだ。疲れているのにハイになって醒めたがらない。まだ心のどこかで敵を探している。そんな感じだ。
僕はゆっくりとコーヒーを啜る。酸味の強いコーヒーだった。
ニケが煙草を一本灰にしたころ、アガヅマが戻ってきた。もうとっくに彼が頼んだコーヒーは冷めていたけれど、アガヅマは全然気にしていない様子だった。
僕らはカウンター席に一列に並んで、他愛のない話に花を咲かせる。アガヅマがこれまで、ここのガラクタで組み立ててきたものの話がほとんどだった。一度、娯楽室のテレビを修理しようとしたけれど、分解している途中でキヨミズが入って来て叱られて直せなかったこと。基地の職員がこぞって昼食をとりに行く民間の食堂は、オーブンをアガヅマのお手製にした途端に味が評判になったこと。そういうくだらない話ばかりだ。
ときどき、子供たちがドアチャイムを鳴らして店を覗いてきた。でも僕らの話に加わることはない。集めている部品について質問して、答えが得られればあっさりとガラクタ山へと戻っていく。パーツの相互性についての質問があったから、それなりの知識を持っているのだろう。
まだ工場に派遣されるような年齢じゃないから、アガヅマかニケが教えたんだろうな、と思ってから、僕が知らないだけで今の学校じゃ字や計算よりも飛行機や戦車の構造を教えているのかもしれない、とも思う。
僕の先輩には八年生がいたけれど僕には八年生がなかったように、戦況によって教育だって変わるんだ。
二人はどうだったんだろう、とニケとアガヅマを盗み見たけれど、訊かなかった。
パイロットじゃないニケや整備士じゃないアガヅマなんて、僕の人生には必要ない、って好奇心を封じたんだ。
当時の僕は、それが優秀なパイロットとしての姿勢だと信じていたから。
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