②-3
せめて墜落機体が発見されていれば、パイロットである彼女さえ戻って来ていれば──。
そう考えて、でも、それを言葉にするには、アガヅマの声音はあまりにも弱々しかった。だから僕は心から、「君は」と慰めの言葉を囁く。
「優秀な整備士だよ」
はっと彼は息を吐いた。失笑、というよりも自嘲したのかもしれない。
アガヅマは煙草を咥えたまま道具箱からスプレーをとりだした。コーティング用の溶剤だろう。キャップを外して二、三度振ると、十二機分の撃墜マークに吹きかける。刺激臭が駐車場に漂った。
「今日、さ」と艶やかなバンシーを見下ろして呟く。呟いてから、続く言葉を探す。いや、言葉は最初から浮かんでいた。
──今日、彼女の声を聞いたんだ。彼女は、生きてるかもしれない。
でも、言えない。確証もなく言っていいことじゃない。
アガヅマはいきなり言葉をぶち切った僕を不思議そうに見上げて「今日、なんだ?」と首を傾げる。
うん、と僕が言葉を探す無駄な時間を、アガヅマはちゃんと待ってくれる。彼が、地上に生きる人間だからだ。
アガヅマは用済みになったコーティングスプレーを道具箱にしまうと、僕のスクーターのシートに座った。
僕も、彼の後ろに座る。車体をまたぐのが面倒だったから、横座りだ。男二人分の体重でスクーターのスタンドが軋む。その音で、誤魔化しかたを思いついた。
「前、君の言ってたことが本当なら、って考えてたんだ」
「どれだ?」
「彼女が嫌いだったって」
アガヅマの返事は煙を吐く音だった。笑ったのかもしれない。
作業着の背中を横目に見て、刹那、ぞっとした。あの夜の、僕が最後に見たニケの背中に似ている気がしたからだ。
──重荷を下ろした老兵みたいな、そのまま消え去りそうな、諦めにも似た安堵感が、あった。
唾を飲みこんで、僕の緊張感が伝わらないように細心の注意を払って口を開く。
「アツジも、彼女が嫌いだって言ってた」
「それは、あの男がパイロットだからだろ」
「どういう意味?」
「あいつは腕がよかった」
「伝説だよ」
「そういう問題じゃない。あいつは女だ」
あまりにも当たり前すぎて僕は黙ったまま、頷くことだって忘れていた。
「男ならライバルになれるが、あいつは女だ。男が敵うわけがないだろう。たとえ同等の飛行技術を持ってたとしても、女ってだけで特別だ。そんなモンを好けるわけがないだろう」
配属された日にアツジとキヨミズの関係を見た僕の気持ちと同じってことか、と理解する。その地位を、実力とは関係のない部分で確保している相手への軽蔑と苛立ちだ。
僕の場合はアツジと一緒に飛んでいるうちに彼の実力を客観的に判断して、ナンバー・ワンだと認めることができた。
でも、それは僕がアツジも同じ男だったからだろう。アガヅマの言葉を借りるなら、ライバルってことだ。
「でも君は」
「俺は」アガヅマは何かを恐れているような速度で、僕を遮った。「整備士だからな。機体さえ壊さずに戻すなら男でも女でもいい。嫌いだと言ったのは……まあ、パイロットと整備士によくある意見の相違の積み重ねだ」
嘘だ、って閃くように思った。
「君はいつもニケを心配してた」
「そりゃ、あいつが墜ちたら機体も戻ってこない」
「あの朝、ニケのエンジン音を聞いた」
アガヅマが顔の半分だけで振り返った。きっちり一秒してから、頬を痙攣させる。どの朝を示しているのかわかったんだろう。薄く開いた唇から煙草の煙が細くこぼれていく。
でも、僕は彼の答えを待つことなく、続ける。
「そのときは寝惚けていたし、あのころの僕にはエンジン音を聞き分ける耳なんてなかったから、気づかなかった。でも、今ならわかる。いつも通りのエンジン音だった」
「違う」とアガヅマが呻く。「前の晩、確かにエンジンに異状があったんだ。でも俺は直さなかった」
「彼女が拒んだんだろ?」
「それでも……」
「君のせいじゃないよ」
「慰めなら」
「違う。パイロットとして言うんだ。僕なら、異状のある機体には乗らない。たとえ命令だったとしても乗らないよ。それに」一呼吸だけ迷った。「明日は墜ちる気がするって、彼女が言ったんだ」
「パイロットによくある感傷だろ」
「そんなの、初心者しか口にしないよ」
アガヅマはなにかを言いたげに空気を吸ったけれど、結局ため息にして解いてしまう。
「君は、まだニケのことを諦めてないんだろう? だからマブリを無視するんだ」
アガヅマがゆっくりと、体ごと振り返った。でも、言葉はない。
だから僕は紫煙と一緒に言葉を吐く。たぶん、彼があまり聞きたくないであろう単語をわざと選んで。
「ニケとマブリの仕事は同じだって聞いた」
アガヅマがスクーターから降りた。その反動を、僕はシートの後ろでうまくバランスをとって去なす。
「誰に、聞いた」
「でも」と彼の問いを無視する。「僕の知ってるニケはただのパイロットだ。二カ月戦争で六十機も墜として、致死率七十パーセントを生き残った、伝説的存在だ。僕が飛行学校に入ったときから、ニケはずっと、戦闘機のパイロットだよ」
アガヅマがため息をついた。たぶん、相槌だろう。
「空でキャノピを開けるマブリなんかとは、全然違う」
「そんなこと言われなくても」
「わかってないから言ってるんだよ。君はニケの整備士だろ? 彼女のことは誰よりもわかってたはずだ」僕なんかより、って言葉は呑み込む。「ニケは飛行機の不調をわかってた。それでも飛んだ。彼女の意思だよ」
アガヅマは吸いさしの煙草を口元に持っていき、でも紫煙を吸い込むことなく投げ捨てる。
ずいぶんと短くなった煙草が地面を跳ねながら転がっていく。眠気に耐える人の瞬きみたいに炎が点滅していた。
僕はスクーターから降りて、彼が捨てた煙草を追いかける。三歩目で踏みつけて、火をねじ消す。
そんな僕の背後で、足音がした。道具箱を持ったアガヅマが駐車場を出て行くところだった。彼の作業着が、月夜の雲みたいにかすんでいる。
あの町に行こう、と思った。
二つ隣の、小さくて冷たいあの町だ。昔、一度だけアガヅマとニケと三人で行ったカフェがある。あそこでなら、誰も傷つけずに、彼女を思い出せる。
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