②-2
紫煙が夜の空に解けていくのに合わせて、アガヅマに言いたかったことも問いたかったことも消えていく。そのまま僕自身すら、形を失ってどこかへ行けそうな気がしてくる。
どれほど無意味な沈黙を吐いたのか、アガヅマが居心地悪そうに安全靴の踵で地面を擦った。「バンシーにも」と独り言みたいな抑揚で、彼は言う。
「一機増やしておいた」
つまり、僕の飛行機にも撃墜マークを描き足したってことだ。僕も僕の飛行機も、ついでにスクーターだって『バンシー』だから前後の話からどのバンシーなのか考えなきゃいけない。面倒でややこしいけれど、ぼんやりしているときは頭を覚醒させるのにちょうどいい言葉遊びだ。
「一機でいいんだよな?」
「うん。でもそれ、誰から聞いたの?」
「アツジ」
確かに報告してくれるとしたら彼かマブリだけど、アガヅマは彼女の言葉なんて聞かないだろう。
「なるほど」と頷いてから、「今まで訊いたことなかったけど」とスクーターに描かれた妖艶なバンシーと、彼女を囲む撃墜マークを見下ろす。「コッチのこれって、どういう基準で増えてるの? 僕が墜とした敵の数とは合わないよね」
アガヅマは半眼で、とても嫌なものを見るように彼女を睨んでから煙を吐いた。そのついでみたいに掠れた声で、彼は笑う。
「あんたには関係ない」
「僕のスクーターなのに?」
「まあ、そうなんだが……そういう意味じゃなくて」
アガヅマは短く息を吸って、止めた。次に生む言葉をためらったようだ。でも、たった半秒。すぐに彼は頭を振った。
「備忘録だよ。あんたのバンシーを何カ所いじったかっていうメモみたいなもんだ」
「そういうのは手帳とか報告書に書きなよ。僕のスクーターじゃなくてさ」
「紙だとすぐに押収されるだろ」
「押収? 誰に?」
「憲兵」
あまりの即答に、うっかり絶句してしまった。憲兵に持ち物を押収される事態を想定しなきゃならない整備士って、なんだ? しかも僕のバンシーをいじった挙げ句に憲兵?
「え、ちょっと待って。僕のバンシーになんか危ないことしてるの? ひょっとして君……」
どこかのスパイだったりする? と続ける声が潰れた。誰かに聞かれてやしないか、と慌てて周囲を見回す。
誰もいない。夜の闇が僕らを覆っている。
そんな僕の慌て具合を他所に、張本人のアガヅマは煙草の灰を落としながら肩を竦めた。
「心配するな。報告書に書けることは、ちゃんと書いて上に提出してる」
書けることは、ということは、書けないようなことをしている、という自白でもある。もちろん、故障や破損を修理するのは整備士の裁量だ。でも。
「ヒノメの飛行技術は、タルヴィングからの技術供与によるものだ。勝手に改造したり改良したりしたら、国際問題になるよ」
「前線で飛んでるパイロットに、同盟国が怖くて問題を改善できない、なんて言えるか?」
「問題が……本当に飛行に問題が出るなら、上に報告して改良の許可を貰うべきだよ」
「で? その許可が出るまで、何ヶ月待つんだ? 許可を待ってる間に、何機墜ちる?」
それはそうだ。アガヅマの言っていることは、現場の兵士たちにとっては正論だ。でも、戦争は国と国との争いだ。現場の兵士にとっては正しくても、国の不利益になるならば容赦なく、彼は罰せられる。
これは報告すべき案件だ。
そう理解しているのに、僕はそれを迷う。
「安心しろ」とアガヅマは目を眇めた。「憲兵にしょっ引かれるなら俺一人だ」
「……そういうことを言ってるんじゃないよ」
「そういうことなんだよ。俺の、くだらない感傷だからな。自戒でもある」
「自戒?」
「今日で、ちょうど半年だ」
なにが? と口を開いて、その瞬間舌に触れた空気の温度に理解した。粘膜だってひび割れるんじゃないかってくらい冷たく乾燥している。
あの日と同じ風だった。
「ああ、そうか」呻く。「ニケの」
──墜ちた日。
「あのころの俺は」アガヅマが唇を斜めにした。「調子に乗ってたんだよ。あいつの機体のドコをどういじったかなんてメモってなかった。本当なら機銃だのシートだのよりもっと、繊細に扱うべきだったんだ」
そうか、と僕はぼんやりと理解する。
彼は、彼女の墜落が自分のせいではないか、と考えているのだ。今日の僕がエンジンの不調に気をとられて被弾したように、好き勝手に彼女の機体を改良した結果、予期せぬ不調で彼女がミスを犯した可能性を払拭できずにいるんだ。なにしろ。
「彼女の機体って、戻ってきてないんだっけ」
「装甲板の一部が海上で発見されただけだ」
そう、と僕は紫煙と一緒に応じる。
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