②-1

 それから丸一日も拘束されて翌日の夕方、僕はようやく解放された。夕方といっても、もう冬が近いこの時期じゃ太陽は早々に隠れてしまっている。

 額を切っただけなのにわざわざ医師が回診にきたのには驚いたけれど、どうやら僕は他の患者のついでだったらしい。看護師たちがすり抜けたカーテンの揺らぎ越しにチラリと見ただけだけど、周りのベッドには体を固定された重傷者が寝かされていた。

 見たことのない男だったから、他の基地のパイロットだったんだろう。いろんな基地からの寄せ集めで部隊を組むと怪我人とか故障した機体とか、ひどいときには海で漂っているところを回収された死体とかまで、戦域に近かった基地が引き受けるハメになる。

 どうやら、今回はウチが貧乏クジらしい。

 もちろん、そんなことは口が裂けても言わない。でもTAB‐9の誰もが理解しているはずだ。この小さな基地じゃ人手も物資も不足している。医務室を出て売店に煙草を買いに行くまでの短い距離ですれ違った人はみんな、整備士たちも仲間のパイロットも、窓越しにみた食堂の職員たちだって、みんな重たい荷物を押しつけられた老人みたいに疲れ切った顔をしていた。ケアを施す側も受ける方も、足りないものだらけで参っているのだろう。

 アツジの顔を見てもうまく話せない気がしたから、宿舎には戻らずに格納庫へ足を向けた。

 エプロンの脇を歩きながら煙草の封を切って、でも格納庫内は禁煙だと思い出してポケットにしまう。医務室で支給されたジャージのままだったから少し寒い。

 どの格納庫もシャッターが開いていて、眩しい光がこぼれていた。複座タイプや爆装した双発機、観測任務を主とした偵察機といった見慣れない機体の影が伸びている。

 そんな喧噪の中にあって、二号格納庫は静かだった。

 高い天井に申し訳程度につられている電球と床から生えている可動式の強力なライトがバンシーと赤いマークⅠを照らしていたけれど、整備士は一人もいない。隣接する格納庫へ応援に行っているのだろう。

 一瞥したところ、マブリの機体に損傷らしい損傷は見られない。奇襲を受ける寸前までキャノピを開けてシートベルトまで外していたのに、運の良い奴だ。

 僕はバンシーの周りを時計回りに二周もして、入念にエクステリアをチェックした。装甲板や動翼が外されているせいで、僕よりずっと重傷に見える。

 ラダーを上がってコックピットを覗きこむと、シートの隙間がキラキラと輝いていた。キャノピの破片だ。計器に被弾していないことを確認してから、ラダーから飛び降りる。

 三歩下がって、三度目のエクステリアのチェックをしてから、バンシーのパーソナルマークを仰いだ。

 バンシーは──フードを目深に被った妖精は、いつも通り慎ましくそこにいた。傷も汚れもない。きっとアガヅマあたりが、破損した装甲板を剥ぐついでに拭ってくれたのだろう。

 僕は額のガーゼに触れる。枯葉みたいに乾いた感触がある。誰かと殺し合いをしたって証拠だ。

 首筋を撫でる風が冷たかった。

 ヒノメの、というより、TAB‐9のあるこの地域の秋は短い。朝の風が冷たくなったと思えばもう枯葉が舞って、一週間もすれば葉っぱなんて残らず落ちてしまう。雪でも降ってくれればまだ華やぐのに、それだって一年に三日も降れば豪雪といわれるような地域だ。

 首都は違った。

 森なんてなかったけれど、大通りを彩っていた木々は美しい紅色になって秋を知らせてくれる。葉を落とした後は、細かくて上品な雪が三日に一回は降った。滑走路が雪に覆われて飛べない日も多かったけれど、そういうときは地上部隊にまざってお祭り用の飾りを町に施す仕事をした。

 なんのお祭りだったっけ? とたった一年前の記憶を探る。でも、思い出せない。あんなにたくさんの飾りを街灯にぶら下げたのに、そこにペイントされていたはずのお祭りの名前の一文字だって出てこない。

 どうして首都のことなんて思い出すんだろう? 過去を振り返るのは墜ちていく飛行機の中でだけでいい、って言ったのは誰だっけ? 覚えていない。なにかの本で読んだのかもしれない。どちらにしろ、パイロットの人生を語るのにもっとも適切な言葉だと、僕は思う。

 ぼんやりと歩いていたら、駐車場に来ていた。

 駐車場に灯っている照明は頼りない。僕の影も、頭の方が消えそうなくらい薄い。きっと天国に行き損ねて彷徨う仲間の魂も、こんな濃度だろう。

 駐車場の隅に、アガヅマの大きなトラックが見えた。壁のように、黒々と確固たる影を落としている。

 そのすぐ傍に、弱い光があった。チカチカと光が動くのに合わせて、スクーターの輪郭が浮かんでは闇に溶けていく。僕の、スクーターだ。

 あれをいじるのはアガヅマだけだ。僕だって、ろくに整備もしない。いつだって僕の乗るものは整備士任せだ。

 わざとスニーカーの底で地面を擦って、足音を立てながら近づく。声が届く距離まで来たところで、スクーターを照らしていた光が機銃の弾筋みたいな尾を引いて僕を捉えた。アガヅマのヘッドライトだ。

「バンシー」アガヅマの声が光の中から聞こえる。「もう出てきていいのか?」

「額を切っただけだよ」

「パイロットにしちゃ大ごとだ」

「もう数センチずれてたらね」

「飲みに行くって話は、傷が治ってからだな」

 出撃前にした約束を覚えていてくれたらしい。「そうだね」と頷いて、町のある方向を眺めた。

 真っ暗だ。この世界には僕らの基地しか存在しないんじゃないかってくらいなにも──月はおろか星すら見えなかった。アガヅマのヘッドライトと基地の明かりが空を煽っているせいだろう。あまりにも明るすぎると、いろんなものが見えなくなる。

 と、不意に世界が夜に沈んだ。アガヅマがヘッドライトを消したんだ。

 でも格納庫が建ち並ぶ辺りが昼みたいに明るいためか、二度の瞬きでスクーターとアガヅマの輪郭が見えるようになる。あいにくとアガヅマの手元は見えなかったけれど、ペンキの臭いが漂っていた。

 目をこらしてスクーターの、クリーム色の胴体を観察する。側面に描かれている撃墜マークを数える。

 十二機分。前に乗ったときから、一つ増えている。どうやらアガヅマは僕のスクーターの整備をしていたわけじゃなくて、撃墜マークを増やしていたらしい。

「それ、どこまで増やす気?」

「それ?」どれ? とアガヅマは首を傾げてから、僕の視線が示すものに気づいたようだ。「ああ、これか」と首を斜めにしたまま頷く。「嫌なら廃車にしろよ」

 アガヅマは拗ねたように言いながら作業着の胸ポケットに手を入れて、次に尻ポケットを探って、結局目当てのものを見つけられなかったらしく、舌打ちをした。

 僕は自分で煙草を咥えるついでに、彼にもパッケージを差し出す。出してから、あ、しまった、と少し後悔した。でも、それを顔に出すことなく、アガヅマと二人で一つのライターを共有して煙草に火を点す。

 つい煙草をすすめてしまったけど、往々にして僕らは紫煙と一緒に話題や言葉を呑み込んでしまうくせがある。

 だから僕もアガヅマも、スクーターの撃墜マークについて話すことを放棄して、たっぷり一分は黙り込んだ。

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