①-4

「バンシー」

 アツジは男が開けっぱなしにしたベッドのカーテンを締め直しながら囁く。隣のベッドにいる誰かに訊かれたくないのだろう。でも、この静けさを考えれば、隣に横たわっているのは死体かもしれない。

 なんの話題かわかったから僕は「どうして」と先手を打つ。

「報告しなかったの?」

 なんについてか、なんて言わない。彼だってわかっているはずだ。

 アツジはカーテンの端を握ったまま、顔だけで振り返る。

「何について?」

「無線、入れてただろ?」

 戦闘の最後に、彼女の声を聞いた。あれが天国からの誘いじゃなければ、実在する彼女の声だったのならば、アツジにだって聞こえていたはずだ。

 そして、あれが誰の声かわかるくらいに彼は、僕よりも彼女との付き合いが長い。

「戦闘中の無線なんか」アツジが踵を引て、体ごと僕へ向き直る。「混乱してるうえに」ひどくゆっくりとした、地上に縛られた人間の速度だ。「今回は別の基地との合同作戦だぞ。女の声がしたからって」

 ひゅ、と喉を鳴らして彼は言葉を止めた。頬が引きつって、操縦桿を握る彼の右手が口元を覆い隠す。

 僕は無線を入れていたか、と問うただけで、誰のどんな声か、なんて一言だって触れていない。

「うん」僕は残酷に頷いた。「僕の知る限り、ヒノメに女性パイロットはいない」

 アツジは力なく両手を垂れて、溺れかけた魚みたいに口を何度も開閉させて、ようやく言葉の続きを見つけたようだ。

「マブリが、いるだろう」

「彼女の声じゃなかった」

「他の基地に」

「アツジ」

 たった一声で、彼は黙りこんだ。彼の両手がゆるりと持ち上がる。ありもしない操縦桿とスロットルを握って、右手の親指だけが跳ねた。機銃を撃つ指だ。

「次は」彼が喘ぐ。「俺も……」

「君も?」

「たたかう」

「彼女と?」

「あいつは、亡霊だ」

「……だから、戦うの?」

「亡霊は、墜ちるべきだ」

 言霊なんて神話が今も残っていれば、きっとそれだけで彼女は空から追い出される。そんな予感のする静かで激しい声だった。

 気圧された僕は思わず顎を引いて、「うん」と同意する。

 雨の日の風みたいに重たいため息を吐いて、アツジは後ろ手にカーテンを開けた。僕のベッドを隔離するカーテンの隙間をすり抜けるように、一歩後退る。まるで、うっかり生者の前に身をさらしてしまった幽霊みたいな所作だ。

「ねえ」と僕はカーテンの向こうに消えようとするアツジを呼び止める。

「君なら、彼女にだって勝てるよ」

 はは、と雨風みたいに冷たい笑い声が応えた。

「勝てるよ」僕は繰り返す。「きっと、勝てる」

 カーテンの隙間からアツジの横顔が覗く。雲間に僚機をさがすような眼差しだった。

「本気で言ってるのか、バンシー」

「もちろん。ここのナンバー・ワンは君だよ」

 ずっと、彼女がいたときから、この基地のナンバー・ワンはアツジだった。でも、たぶんアツジ自身が、その事実を誰よりも信じていない。経歴とか撃墜数とかじゃ計れない問題だろう。彼自身が、彼女への憧憬とか畏怖を捨てられないでいるんだ。

「君は……彼女の何が怖いの?」

「……わから、ない」

「怖くない」という答えを予想していた僕は、虚をつかれて言葉を見失う。

「俺も」アツジの声ばかりが、カーテンの向こうからぽろぽろと雨音みたいに届く。「なんでこんなにあの女に勝てる気がしないのか、わからないんだ。この基地に配属されてからずっと、あの女と飛んでから一度も勝てると……いや、勝てたと思えたことがない。あの女が墜ちたって聞いてからも、まだどっかの空で飛んでる気がして仕方がなかったんだ」

 亡霊め、と唾棄する声が、遠ざかる。病室の床を踏むアツジの足音がして、挨拶もなく病室の扉が閉められる。僕だけが、ベッドの上に取り残される。

 静かだった。まるで雲の中に一機で浮かんでいるようだ。

「君はエースだよ」僕自身に言い聞かせるように、繰り返す。「何年君と飛んでると思ってるの?」

 舌が痺れていた。血が足りないのかもしれない。あるいは、アツジがエースだということを、僕の舌だけが嘘だと見抜いて責めているんだ。

 額に巻かれた包帯をむしり取る。輪っかになった弾力のある白い塊の内側に掠れた血がついていた。

 右眉の上から眦まで引きつった熱い傷口があるのがわかった。もう数センチ内側にずれていたら眼が潰れて二度と飛べなくなるところだった。

 ぞくりと背中が冷えた。

 飛べなくなるっていうのが、一番怖い。地上しか知らない子供のころならまだしも、一度でも飛行機に乗ってしまえば二度と地上だけで生きるなんてできっこない。それができるくらいなら、最初から空になんて上がらない。

 看護師が病室に入ってきて僕が包帯をとったことを責めたけれど、僕はカーテンの揺らぎを眺めてきき流した。

 病室の壁から生まれたんじゃないかってくらい青白い看護師の指がシーツの上に転がった包帯を回収して、新しいガーゼを僕の顔にあてた。

 また大げさにされるのかと思ったけれど、紙テープでとめられただけだった。

 早く格納庫に行きたかった。バンシーの損傷を確認して、アガヅマに修復予定を訊きたい。僕はまだ飛べるんだって実感したかった。

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