①-2
あのとき、敵機との一騎打ちのさなかに、声を聞いた。
天国からの声だったのかもしれない。いや、そうであってほしい。だって、そうじゃなきゃ──。
「バンシー」
カーテンの向こうからアツジの声がした。僕はゆっくりと体を起こしてベッドの端に座り直す。「起きてるよ」と静かな声を意識して、応える。
カーテンの隙間から滑りこんだアツジの不機嫌顔に、僕は苦笑した。
「まさか、君まで捕虜になったわけじゃないよね?」
「お前がそう言うから、今、ニケが」
「え?」
アツジの冷たい視線があった。たっぷり二秒、恐ろしく冷静な、狙いを定める捕食者の眼で僕を見つめる。
ああ、と僕はため息を吐いた。理解するに十分な二秒だ。
「マブリの、こと……」
ふっと呼吸を逃がすと、アツジは頷きもしないで「ニケが」に続く言葉を吐く。
「アガヅマを呼びに行ってる」
なるほど、一緒に飛んだパイロットが何人そろっていても捕虜になった可能性は消えないけれど、基地に残った整備士なら別だ。地上にいる彼らを無傷で捕虜にできる確率なんて、僕らが牛に撃墜されるくらい低い。
僕は「そう」と吐息の延長で答えて、枕を引き寄せる。胸の前で抱えて顎をのせれば、傍の丸椅子に座ったアツジから「ガキみたいに拗ねるなよ」とお小言を貰った。
「別に拗ねてないよ」
「わざわざおまえのためにここまで来てやったんだぜ」
「ありがとう。で?」
「で、って?」
「君まで敵の捕虜になったってわけじゃないよね?」
アツジは心底呆れた調子でため息をついた。それだけだ。答えることすら馬鹿馬鹿しいってことだろう。
僕は抱えた枕に口元を埋める。そのまま、互いの呼吸音だけが積もっていく。どのベッドにもカーテンが引かれていたのに、遺体安置所みたいに沈痛な静けさだ。
アツジはシーツのシワを睨んで黙っている。僕も、自分の膝を見つめる。
ニケ、という名に、過剰な反応をしてしまった。正しくない反応だった。その事実を噛みしめる。
そのまま二分くらい、箱詰めにされた缶詰みたいにおとなしくしていると、マブリとアガヅマ、それにさっきの情報局の男がきた。
マブリはふわふわとした薄桃色のワンピースなんて見慣れない格好だ。私服なんだろう。反対にアガヅマは汚れた作業服を着て、手にはウエスを握ったままだった。かすかに、血液に似たオイルの匂いがした。
マブリによってベッドの周りを囲っていたカーテンが開けられた。ついでに窓のカーテンも開けられる。差し込んだ陽光が白い床と壁で増幅されて、少し眩しい。でも空よりも断然、地上は暗い。
「報告を」
男が三度目のセリフを言った。
「その前に」僕は枕を定位置に戻して、でも相変わらずベッドの上にだらしなく座った姿勢のまま、男を仰ぐ。「彼らに質問をしてもいいですか?」
男が頷いたから、まずはアツジを見る。
「僕は墜ちたの?」
「いや」アツジはシーツを睨んだままだ。「基地の前の道に不時着した。きれいなランディングだったが、覚えてないのか?」
うん、と頷きながら、次はアガヅマへ顔を向ける。
「じゃあ、バンシーの損傷は?」
「キャノピが割れてたのと、左翼の装甲が破損、変形。ギアに歪み。他にも装甲板は丸っととっかえだな。中味は無事だ。パーツの換えが届くまでに一週間かかるらしい」
「一週間? そんなにかかるの?」
「それは俺に言われてもどうしようもない」
「バンシー」とマブリが身を乗り出した。
「タカナシ」と脊髄反射で訂正してから、「なに?」と訊いてやる。情報局なんて偉い人の前で恥をかかせないように、最大の気づかいだ。
「あなただって全治二週間なんだから、飛行機だけが直ったって意味がないでしょう? ゆっくり休養したら?」
「あれから何日?」僕はアツジを見た。
「半日」
「正確には四時間二十五分」とマブリ。
話しかけてもいないのに、自己主張の強い奴だ。もっとも、そうじゃなきゃ『ニケ』なんて名乗っていられないのだろう。
僕はマブリを無視する。
「司令は?」
「さあ?」アツジが肩を竦めた。「二時間くらい前に、電話にかじりついて責任の押しつけ合いをしてたのは見たが、今は知らん。作戦失敗のもみ消しに奔走してるんじゃ」
ないのか、って軽口は情報局の男の咳払いで止まった。
「口の」
「報告します」
口の利き方がどうの、と言いかける気配を察して、僕は素早くベッドから降りて敬礼をする。スリッパを履き損ねた素足に、床がヒヤリと張り付いた。
男は僕を半眼で見下ろしてなにかを言おうと息を吸ったようだけど、今度はアガヅマに「じゃあ」と遮られる。
「俺はこれで」
アガヅマは敬礼としても挨拶としても中途半端な位置に片手を挙げると、誰の反応も待たずに踵を返した。
本当にここがTAB‐9だと僕に確認させるためだけに来てくれたらしい。彼の格好から見るに、わざわざ作業を中断してくれたんだろう。
続いてマブリも敬礼をして出ていく。
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