第七話 霧中の亡霊

第七話 霧中の亡霊 ①-1

〈7〉


 目を開けると世界が白かった。

 雲の中を飛んでいるのかな? と思ったけれど、掌は空っぽだ。操縦桿もスロットルも握っていない。ごつごつとした天井と、ザラついたカーテンが僕を隔離している。どうやらベッドに寝かされているらしい。

 背中に汗をかいていた。ゆっくりと寝返りを打って、手足が拘束されていないことを確認してから起き上がる。

 窓際のベッドだ。窓のカーテンも閉め切られているため、ここがどこなのかわからない。

 すん、と鼻を鳴らして消毒液の匂いを嗅ぎとる。音はほとんどしないけれど、人の気配はあった。

 医務室──たぶん基地の、だ。前に一度だけ、指先に刺さった棘がどうしても抜けずに立ち寄ったことがあった。

 どうしてこんなところに寝かされているんだっけ? と考えながら、ベッドから脚をおろしてスリッパをつっかける。治療用のガウンの裾が頼りなく臑の辺りで揺れた。

 ベッドを隔離するカーテンを手の甲で割って、首を伸ばして周囲を窺う。

 ベッドを四台詰め込んだ病室だった。僕は廊下から一番遠いベッドにいた。他の三台にもカーテンが引かれていて、誰がどんな状態で収容されているのかはうかがえない。

 誰かを呼んだほうがいいのか、それとも、大人しくベッドにいるべきか、と五秒もうろうろとカーテンの境目を彷徨って、結局ベッドに戻った。

 一歩を踏み出すごとに、眠気に似た頭痛が瞼に星を散らせてくるせいだ。

 触れてみると、額に分厚い布があった。鏡がないから確かめられないけれど、どうやら包帯が巻かれているらしい。眠気と頭痛の原因は、この怪我だろう。

 舌打ちをする。

 エンジンの設定さえ変わっていなければ、食らわずにすんだ弾だ。バカな上層部が前線部隊の行動に口を出すから犠牲が増えるんじゃないか。そのくせ、墜落するのはパイロットの腕が悪いからだ、って言い張る。連中が黙っていれば、僕らが僕らなりに全力で飛んでいれば、相応の戦果はあげられるのに。

 包帯の締め付けが不快でガリガリと引っ掻いていたら、急にカーテンが開いた。僕は腕を半端に上げた姿勢で固まる。

 そこに立っていたのが情報部の男だったからだ。相変わらず暗緑色の制服に所属をしめすバッジはない。尖った星だけをつけている。名前を聞いた記憶はなかったけれど、彼がどんな情報を求めていたのかは覚えていた。今回のロクでもない事態の一端だって担っているはずだ。

 義務感だけで敬礼をする。手をおろしてから、立ち上がるのを忘れていたことに気がついた。今さらベッドを降りるのも間抜けだし、そこまでして払う敬意も持ち合わせていなかったからから、気づいていないふりでベッドに居座ることにした。

 彼は、そんな僕の怠惰を見下ろして低く言う。

「報告を」

 僕は黙って顎を引く。

 男が目を細めて、「報告が、あるだろう」と繰り返した。

「ありません」即答した。「報告は司令にします」

「彼女はいない」

「なら、報告はありません」

「これが」男が襟元の階級章を指した。「見えるか」

 当たり前に僕より上だし、さらには基地司令のキヨミズよりも上の階級だ。でも、僕は無表情を意識して言い返す。

「僕の直属上官はあなたではありません」

「君の直属上官はわたしの部下だ」

「そうですか」

「立場をわきまえなさい」

 僕は、短く息を漏らした。男のこめかみが引きつったから、ひょっとしたら笑ったと思われたのかもしれない。そういうつもりじゃなかったけれど、そう思われてもよかった。

「立場とか階級の話じゃないんです。僕には、あなたが本物だと確かめる術がありません。その階級章が偽物で、あなたはヘルティアの情報軍で、ここはヘルティア側の捕虜収容所かもしれない。だから、あなたには報告しません」

 男の目が見開かれた。どうやら予測していなかった答えだったらしい。

 でも、僕らにとっては当然の対応だ。

 いつもの基地の滑走路に着陸して、馴染みの整備士に機体を預けて、見あきた上官の顔に報告するっていうのは、いつ敵の捕虜になるかもしれないパイロットにとっては飛行機の操縦と同じくらい体に叩きこまれているルーティーンだ。どれか一つでも欠けている場合は、最悪の──敵の策略にはまっている可能性を考えるべきだ。

 男はしばらく黙って僕を観察してから、カーテンの向こうに戻っていった。

 あれ? 本当にヘルティア側に捕縛されたのか? と不安になる。可能性として却下していなかっただけで、いつもの防火林を抜けた記憶があったから油断していた。

 いまさら窓に駆けよって、カーテンを開ける。とりあえず、牢屋じみた鉄格子はない。でも、建物の裏手から続く芝生と防火林らしき森があるばかりで、ここがいつもの基地かどうかは判断できなかった。

 それに、と僕は方を落としてカーテンを閉めつつ思い出す。いつもの基地の医務室だって、滑走路も司令棟も見えない裏手にあった。さらに僕が利用したことがあるのは診察室だけで、病室からの眺めは知らない。つまり窓からの光景なんて眺めるだけ無駄だった。

 僕は自分の格好を見下ろす。ご丁寧に医療用ガウンの肩口にヒノメ国旗が刺繍してあった。もしこれがヘルティアが用意した偽装備品ならたいしたものだ、と素直に思う。

 スリッパを投げ捨てるように脱いで、ベッドに上がった。くしゃくしゃになったシーツの上に倒れ込む。ベッドを囲むカーテンのせいで、僕ひとりきりがこの世界の住人みたいな気分になってくる。

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