①-3

 どの格納庫もシャッターを下ろしていた。でもまだ消灯していない。どのシャッターの隙間からも細長い光がもれている。整備工たちが、明日もパイロットを生還させるために頑張っているんだ。

 ようやく第二格納庫の前まで来たとき、「だからっ!」と腹の底に響く怒声がした。アガヅマの声だ。彼が感情をむき出しにしているなんて初めてのことだったから、シャッターを叩くために握った拳を解いてしまう。

「交換して、はい終わりって話じゃないだろ! 誰かがわざと、やってるんだ! 明日は飛ばせられない。絶対に、上に報告しない限り」

 ぼそぼそと応じる声は、聞き取れなかった。たぶんニケが、彼を宥めているのだろう。

 怒声と静かな声とが何往復かして、荒々しい金属音が聞こえて、ようやく静かになった。

 僕は改めて拳を握って、控えめにシャッターを叩く。

 と、物凄い反応速度で人間用の小さな扉が開いた。危うく鼻先を扉に打たれるところだ。驚いて一歩、飛び退る。

 格納庫内の強い照明に目がくらんだ。太陽をまともに見てしまったときに似ている。一拍遅れて、ぼんやりと人の輪郭を捉えた。

「ああ、なんだ」ニケが、緩く息を吐くのがわかった。「君か」

 彼女の肩越しに、整備リフトに立つアガヅマが見えた。たぶん、明るい場所にいる彼からは、夜の縁に立つ僕の顔なんてろくに見えていないだろう。

 アガヅマは自分の髪をかき回してから、首筋を撫でる。感情を露わにしていたところに他人が来てバツが悪いのだろう。

「バンシーに」とニケは体を斜めにして、格納庫を振り返った。「会いにきたの?」

 少し寂しそうにうずくまるバンシーの、穏やかな海の色を一瞥してから、首を振る。

「君に、話があるんだ」

 ニケは苦笑して、頷いた。アガヅマを振り返ると「すぐ戻るよ」と片手を挙げる。

 彼もまた黙って手を挙げる。まるで声を荒らげていたことなどないような、落ち着いたいつも通りの所作だった。

 ニケは後ろ手に扉を閉ざして、夜の闇の下に出てきた。シャツの白さが満月みたいに仄かに揺らいでいる。

「話って?」

「さっきの続きだけど」

「ああ」彼女は困ったように眉を下げた。「ごめん、気にしないで」

「するよ」

「パイロットなら誰でも持ってる感傷だよ、本気にしたの?」

「冗談って雰囲気じゃなかったし」彼女が空気を吸い込む気配がしたけれど、無視する。「君は上層部からの命令なら墜ちる覚悟があるってきいたから」

「誰から?」

 告げ口みたいになるのが嫌で、僕は視線を逸らした。それが故意だと悟られないように胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。

 でも、そんな努力は無駄だったみたいだ。ニケの舌打ちが一つ。

「おしゃべり男め」

「なにがあったの?」と聞こえなかったふりをする。

「なにもないよ。機体の調子が好くなくてね。少し気が立ってたんだ。心配させたなら謝るよ。ごめんね」

 本当にそれだけだろうか、と僕は自分の吐いた紫煙越しに彼女の表情を窺う。いつもとなんら変わらない。彼女の本心なんか、欠片だって読み取れない。これがエースとして生き残りすぎたパイロットというものだろうか。

 自分の未熟さを突きつけられた気分で舌打ちをしかけて、呑み込んだ。

 全然予想していなかった距離に、彼女の影があった。僕とお揃いのスニーカーが、僕の靴先に触れんばかりだ。軍からの支給品だから当たり前だけど、分裂した双子の片割れみたいでドキドキする。

「バンシー」

 ニケのささめきが僕の首元を掠めて、呼吸が肩に触れて、夜の風が甘く香った。シャツ越しの胸に、熱を感じた。

 ──心臓の上。彼女の唇が、僕の胸に触れていた。

 一瞬でなにも考えられなくなる。高高度で空調が壊れたときみたいだ。ひどく寒いのに汗をかいている。

 そのまま二呼吸。

 ニケの踵が地面をこする音で我に返った。

 ゆっくりと彼女の指が伸びてくるところだ。僕の唇から煙草を奪って、そのまま咥える。

「おやすみ」

 紫煙とともにそう言った彼女の腕を、機銃を撃つための僕の手がとらえた。

「なに?」

 彼女が首を傾げる。僕にだってわからない。考えて行動したわけじゃない、ただ体が動いたんだ。

 空戦のときと同じ。

「どうして……」僕は声を絞り出す。「初心者からは、もらわないんじゃなかったの?」

 彼女は初心者から煙草をもらわない。実際、半年前の彼女は僕の差し出した煙草を受け取らなかった。それなのに──。

 ニケは唇の端を持ち上げて、僕から奪った煙草の火を赤く息衝かせて、笑う。でも瞳は、笑っていない。

「バンシー」

 ただ一言、彼女が囁いた。

 目眩がした。

 バンシーの胸にキスを贈る者は三つの願いが叶う。そんな伝説を、誰も信じていないおとぎ話を、どうして今、思い出すんだろう。

 彼女を留める僕の手が、彼女の熱を吸いとっていくのがわかる。自分の脈動を肌で感ずる。出撃前に暖気を強いられたバンシーが不機嫌に響かせるエンジンの拍動に似ていた。

 ニケが、顔を伏せる。パイロットらしく短く切りそろえられた前髪が、こんなときだけ夜を味方につけて彼女の表情を隠す。解ける紫煙が、月を隠す雲みたいだ。

 なにか言わなきゃ、って焦りばかりがつのって言葉が見つからない。

「エースになって」ニケの囁き声が二人の間で停滞して、彼女の手が僕から逃げる。「君ならナンバー・ワンになれるよ」

「それが、君の願い?」

「そう」

「あとの二つは?」

 さあ? と呼吸だけでとぼけて、ニケは半歩下がった。相変わらず顔は見えない。

「考えておくよ」

 さよなら、って聞こえた気がした。本当は、おやすみって言われたのかもしれない。体を翻した彼女の影が、僕の指をすり抜けていく。

 ニケが開けた扉から格納庫の強い光がもれて、視界が真っ白に染まった。瞬きを一度。その隙に、僕とニケとは完全に引き離されている。

 ドアノブに手を伸ばしたけれど、握り損ねた。距離感がつかめない。彼女を留め損ねた。自分が取り返しのつかない過ちを犯した気分に苛まれる。

 でも、僕はそれに気付かないふりをした。

 空では、誰も引き留められない。墜ちていく仲間の手を握れない。そういう性質が、体の芯まで染みついていたんだ。

 僕は踵を返して、建ち並ぶ格納庫の前を抜ける。唐突に気温を意識した。冷たく乾いた風が滑走路から吹きつける。不用意に手を伸ばせば肌が切れそうだ。

 風邪を引く前の悪寒がした。あるいは、地上に戻って来られなかった仲間の怨念が、僕の背筋を撫でたのかもしれない。

 僕は駆け足で宿舎に逃げ込んだ。アツジが「おかえり」と気のない挨拶をしてくれたのを無視して、ベッドに深く潜り込む。強く瞼を閉じて、ひたすら夜明けを願う。

 朝になったら、バンシーに会いに行こう。

 近いうちに新しいパーツがくるって話だったから、アガヅマに説明してもらおう。きっと低血圧気味の彼は物凄く不機嫌な顔をしながら、それでも飛行機については丁寧に教えてくれるはずだ。そんなことをしているうちにニケが空から戻ってきて、呆れ半分の笑みを浮かべて言うんだ。

 ただいま、って。

 そんなことを考えているうちに、眠りに落ちていた。

 まだ太陽が出るかどうかの早朝、白く染まったカーテンの向こうで低いプロペラの唸り声がしたような気もしたけれど、体温で温んだベッドで飛行機の夢を見ていた僕にはそれが現実の音なのか判然としなかった。

 うとうととしたまま、音の正体を確かめることもなく、毛布を頭の上まで引き上げた。

 それきり昼になっても夜になっても、何日待っても、彼女は還ってこなかった。

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